Posted by ブクログ
2020年08月06日
菅さんの凄さやこれまでの経歴、生い立ちが分かる。何も知らず政権や政治の批判ばかりしている人はこの本を読むなり、もっと勉強するした方が良い。
地盤を譲ってもらった楽な選挙を選ばず、お金がなくても地盤がなくても強靭な意志とたゆまぬ努力があれば何事もなし得ることを実現させた。
NHK受信料は年間16...続きを読む,140円。衛星受信料も含めると年間27,480円。衛星放送がスタートした平成元年と比べると地上波、衛星ともに年間4000以上値上がりしていた。NHKの受信料実際に払っていたのは32,000,000人にとどまり約10,000,000人が支払っていなかった。結果平成23年10月末、NHKは平成24年から26年の頃計画の中で受信料値下げを発表。受信料の約9%となる年間2440円継続振り込み支払いで年間840円の支払いが実現した。受信料の値下げはNHKの開局以来で初めてのこととなった。
タブーに近かったNHK受信料の値下げ
地方分権改革推進法
横浜市での待機児童とか現状を踏まえて
ふるさと納税制度
→平成20年4月30日に成立
平成22年4月、宮崎県で公的による被害が発生した。宮崎県のJUNKOから寄付金や義援金が寄せられたこの時大いに活用されたのがふるさと納税だった。宮崎県に寄付されたふるさと納税は総額で1億5625万円東日本大震災でも復興に役立ててほしいと全国からふるさと納税制度を活用して声が寄せられた。被災した岩手宮城、福島の三県の寄付でふるさと納税の対象になるものは4000億円を超えると言う。
自分を育ててくれた故郷に少しでも恩返しをしたい思いの人もたくさんいる
現在の税制は戦後間もない間に導入された#シャウプ税制。当時と今では平均寿命が20歳違い、新幹線も飛行機上も整備されていなかった。まして週休2日制となんかあり得なかった。みんなその日を生きるために働きづめだった。時代はどんどん変わりライフスタイルも予想されないほどかかった。人生における受益と負担と言う考え方があっても良いのではないか。
社会保険庁は年金の保険料の使い道を天下り用の大規模年金雇用基地グリーンピア建設や日常の事務費諸々の経費などに企てていた。昭和55年に年金記録のオンライン化が始まりその半年後の調査で大量の記録ミスが生じていることが発覚したがそのまま先送りしてしまった。このような勝手が許されたのは社会保険庁の職員が地方事務次官であったからである。社会保険庁は地方4分部局として都道府県単位の社会保険事務局を設置し、その学科として地域ごとに社会保険事務局が置かれていた。これらの地方支部局はかつて都道府県庁の組織とされていたが職員の身分は国家公務員であった。これが地方事務次官であるが国家公務員が地方の県庁に勤務しているため、各都道府県知事には人事権がない社会保険庁労働組合はやりたい放題であり、こうした労務管理がいい加減さが年金の無駄遣いや消えた年金問題と発展していった。ここで再び後労相に対処をさしても到底改善は望めない。そのため安倍総理は総務省の方で引き取る決断をしたのである。このような勝手が許されたのは社会保険庁の職員が地方事務次官であったからである。社会保険庁は地方4分部局として都道府県単位の社会保険事務局を設置し、その学科として地域ごとに社会保険事務局が置かれていた。これらの地方支部局はかつて都道府県庁の組織とされていたが職員の身分は国家公務員であった。これが地方事務次官であるが国家公務員が地方の県庁に勤務しているため、各都道府県知事には人事権がない社会保険庁労働組合はやりたい放題であり、こうした労務管理がいい加減さが年金の無駄遣いや消えた年金問題と発展していった。ここで再び厚労労省に対処をさしても到底改善は望めない。そのため安倍総理は総務省の方で引き取る決断をしたのである
かんぽの宿は会員保険が爆発的にヒットしたことに端を発している。あまりの売れ行きにだぶついてきた資金の使い道が求められるようになる。旧郵政官僚の発案で簡易保健所のための簡易保健福祉事業団を設置することになった。当然理事長は郵政事務次官経験者の指定ポストであった。いわゆる天下り先だ。
事業団が全国に作っていたのがかんぽの宿だった。支配人を始め管理職の多くは天下りポストである。事業団は年間に40代から50億もの赤字を垂れ流し始める。これを処理する方法がかんぽの宿売却だった。不動産売買よりは事業の売買に近いものだ。この点が国民には理解されなかった。従業員の雇用確保しながらの売却である店が顧みられることがなかった。赤字を垂れ流し天下りのための組織にはびこる負の連鎖を断ち切るのが西川たちの役割。そこが全く報道されていない。2400億のもの100億円で売るのはおかしいといった論調ばかりがマスコミを覆っていた。
高校卒業した後集団就職で東京に上京し段ボール工場で働き始めた。が視野を広げるため大学で学びたいと言う思いを強く抱くようになり入学金を貯めるために築地市場の台車運びなどのアルバイトをし、アパートに帰れば試験勉強って言う生活に1年続けた。そして当時私学の中では1番楽に扱った法政大学を選んで入学した。
円高、デフレ脱却による日本経済の再生と東日本大震災からの復興、尖閣や北朝鮮の問題による危機管理といった3つの課題に対応できるのは阿部さんしかいない。
今の世の中で泥水をすすって這い上がった人間が総理になることの意味は計り知れない。実現すれば国民にも輝きが出るだろう。