Posted by ブクログ
2010年05月15日
静謐な空気が言葉の隙間から漂い出てくるような錯覚に駆られる。日常の行為の中で去来する様々な思い。それは、目の前の出来事と過去を結びつけたかと思えば、穏やかな言葉のやり取りの中に忍び込む無口な怒りを気づかせたり、と忙しく動いているかのように思える。しかし一つの思いと次の思いの間には隙間が無いようでいて...続きを読む、実は何も無い時間が過ぎていったようでもある。その時間の思いがけない長さが不思議でもあり、自然でもある。
一体これは小説と呼ぶべきなのかそれとも随筆のようなものか。小説と呼ぶには作家と一人称で語る人物の重なり方には余りに隙がない。語られる言葉から立ち上がる世界は自分と地続きの世界であるようにすら見える。そしてそこには著者の個人的な思いが溢れているようである。しかし逆に随筆であるのかと思って読んでいると、一瞬地続きと見えた世界に少々継ぎ接ぎの跡が見え作り上げられた箱庭的気配があるようにも思えてくる。
もちろん、書かれていることが実際のできごとであってもなくても構いはしない。ただ虚実のあわいを歩いていく心もとなさを感じるというだけである。それは少しばかり居心地は悪いけれども決して不快な感じではない。
自分には「思い」というものに定まったイメージがある。思いは底の見えない水の中を上昇してくる気泡というイメージなのだ。思いの「種」は一つ一つどこからともなく湧き、水面に近付くに従って大きくなる。意識という水面に達した思いは薄い膜を張り半球を形づくるが、ほどなくしてはじけて消える。次々と。前後の脈絡もなく。
しかし一つの気泡が生まれれば水を湛えた器の中の物理状態は変化し、次の気泡を生む条件を変える。一つの思いの生成は脈絡がないようであってても次の気泡の生成とは無縁ではありえない筈。その一つ一つの泡の間にあるような無いような繋がりのことを、川崎徹のこの不思議な感覚を覚えさせる本を読んでいると、意識させられる。
『わたしは誰も待っていなかった。しかしずっと立っていたら、誰かを待っているような気持になった。むかしを思い出したのではなかった。駅頭に立つ、いや、ひとの流れに向かって立つ行為そのものが、待つことを表していた』-『傘と長靴』