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ピカソ、モディリアニ、マチス…世界中の画家が集まる1920年代のパリ。その中心には日本人・藤田嗣治の姿があった。作品は喝采を浴び、時代の寵児となるフジタ。だが、日本での評価は異なっていた。世界と日本の間で、歴史の荒波の中で苦悩する巨匠の真実。第34回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作。(講談社文庫)
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Posted by ブクログ
「藤田の猫」が好きで (表紙の猫もいい顔してる) 藤田に関するあれこれ 本人側と一般に言われてる側と 両方を丁寧にピックアップ されていたので 自分の中で藤田の性格を 考察出来て良かった 軽井沢にある藤田の美術館に いつか行ってみたいな 岐阜駅本の市にて購入
藤田嗣治は5回結婚したと言われているが、フランス人との結婚は全て藤田が捨てられ、別れても金銭や生活の援助をしたそう。パーティーでの奇行も有名だが、酒が飲めず素面で美術界で残る為の必死のパフォーマンスをしていたそうな。解説本は3冊読んだが、藤田の印象がそれぞれ違った。こちらは良い面を知れる本。
素晴らしき乳白色の画家と称えられ、エコール・ド・パリで最も有名な日本人・藤田嗣治。彼の生涯を追った傑作ノンフィクション。東京都美術館の藤田嗣治展を観る前の予習で読んだ。 陸軍軍医総監の父を持ち、裕福で厳格な家庭で育った少年の夢は画家になることだった。しかし面と向かって父にその夢を語るのを...続きを読むためらった少年は、同居しているにも関わらず父に手紙を書いた。きっと反対されると恐々としていたが、父は反対もせず、大金を与え、画材一式を取り揃えるようにと伝え背中を押した。 長じてからは、すぐにでもパリに修行に行きたかったが、陸軍軍医総監の前任者でもあった森鴎外の勧めもあって、東京藝大の前身である東京美術学校で黒田清輝に学ぶ。 しかし、藤田と黒田は合わなかった。黒田はラファエル・コランの影響を受けていて、教え子にもそれを伝えようとしていた。しかしコランは印象派の亜流のような作風で、すでにキュビズムなどの前衛絵画が主流となりつつあったパリでは、古い技法だった。藤田は黒田の指導には染まらなかった。卒業制作の自画像は、黒田に悪い作風の代表例とこき下ろされた。 パリに渡った藤田は、最先端の絵画に触れ、猛烈に制作に打ち込む。ピカソやモディリアーニ、ルソーなどの芸術家たちとの交流の中で、彼らの模倣を通じて腕を磨き、試行錯誤しながら新たな技法を模索した。そして自らのルーツである日本の浮世絵の技法を取り入れた裸婦像で遂に藤田オリジナルの絵画を完成させる。偉大なる乳白色と称えられた作品群はパリにセンセーションを巻き起こした。 当時のパリは狂乱の時代と呼ばれた絶頂期。連日連夜のパーティー三昧、酒とドラッグと色恋沙汰でモラルは崩壊。なかでもおかっぱ頭でロイド眼鏡の日本人の乱痴気騒ぎは目を引いた。 奇矯な格好でパリの街を闊歩する日本人画家は有名人となり、彼の元にはモデル希望の女性が引きも切らなかった。 しかし、藤田は酒にもドラッグにも一切手を出さなかった。モデルの女性にも肉体関係を迫ることもなかった。友人であるモディリアーニとはその点では正反対だった。 藤田の奇矯な振る舞い影には、芸術を貪欲に追求しようとする確かな芯があるように思えてならない。あえてピエロを演じていたのではないかとも思う。 世界恐慌の影響でパリの画壇も狂乱から覚めて、市場は冷え切った。これが藤田にとってひとつの転機となる。 日本に帰国した藤田は各地で熱狂的な歓迎を受ける。しかし画壇からは冷淡な反応しかされなかった。パリ時代の藤田の行状を蔑む人も多く、華々しい成功をやっかむ人も多かった。 この辺りの画壇の対応は、野口英世が帰国した時の日本の医学界(学閥)の完全無視と重なる。海外で成功した人を認めないエリートと言われている人のみみっちい性根というか、島国根性というか、もう恥ずかしい。 (時代が前後するが)昭和12年には海外に日本を紹介する映像作品の制作を国より依頼され、秋田の子どもたちの風俗を撮影したのだが、城跡でチャンバラごっこをしたり、切腹のまねごとをする場面が、日本の後進性をことさら強調してるとか、野蛮と受け取られるといった批判によりお蔵入りする。 東京都美術館で開催されている美術展では、この映像作品も公開されていたので見てみたが、無邪気な子供たちが遊んでいるだけだし、表情も生き生きしていて、撮影現場の和やかな雰囲気まで伝わってくるような心和む作品だった。時代背景を考慮したって、言いがかりにしか思えなかった。 数年後には南米各地をめぐった藤田は新たな刺激をうけ、パリ時代とは画風も変わり、鮮やかな色彩が増える。とくにメキシコではリベラやシケイロスといった壁画運動の巨匠たちとの交流でタブロー画の限界に気づき、壁画運動が示した多くの国民を啓発するという、その教育的な可能性に刺激を受けた。もともと藤田はベラスケスやドラクロワなどの巨匠たちが描いたような宗教画を描きたいと思っていたこともあり、このメキシコでの見聞が、その後の戦争画による国威高揚、国民教育へと繋がっていく。 父と陸軍の深い関係から、藤田は戦争画を描くようになる。それにより画壇での地位を固めていく。当時は戦争に協力するのが当たり前。横山大観などの大御所も戦争画に挑戦するが、朦朧体ではそれらしい絵は描けず、代わりに戦闘機4機を寄付した。だから戦争画を描いてないからといって、戦争に協力しなかったというわけではない。 戦争画を芸術の域まで高められたのは藤田だけだった。アッツ島玉砕やサイパン島陥落の絵など、それまでの藤田のイメージとはまるで反対の、一面暗い色で覆われている。反戦の意味を込めているわけではない。徹底したリアリズム表現で、おそらく殉教の絵として描いている。 藤田は自分の絵の前で手を合わせて祈る老婦人の姿を見て、感動する。ベラスケスやドラクロワの境地に近づけたと感じたのかもしれない。 しかし戦後は、GHQによる戦犯指名に恐れをなした画壇から、藤田は人身御供として差し出されることとなる。確かに藤田は戦争に協力した。しかしそれは誰も彼もだ。なのに画壇は責任の一切を藤田だけに押し付けようとした。藤田の戦争画が見事で目立ったためもあるだろうが、そこにはやはり藤田を純粋に日本人として認めず、西洋かぶれ扱いにする卑怯な意識が働いていたと思う。 結局は美術界からは誰も戦犯指名されなかった。逆にパリ時代の藤田のファンのGHQの将校が藤田を訪ね、戦争画の収集の協力要請までしている(藤田の戦争画がいまもアメリカからの無期限貸与なのはそのため)くらいなので、はなからGHQにそんな意図はなかった。びくびくと怯えていた画家たちの先走りでしかなかった。戦争画を描けなかった技量の拙さを棚にあげ、俺は戦争に協力しなかったと吹聴した厚顔無恥な画家もいた。 結局、藤田は日本を捨てるしかなかった。だが、藤田を裏切り追い込んだのは日本である。 「絵描きは絵だけ描いてください。仲間喧嘩をしないでください」 藤田はそう言い残し、フランスに旅立った。そして再び日本の土を踏むことはなかった。 その後藤田は日本国籍を捨て、フランス国籍を取得する。 フランスに帰化してからの作品は子どもたちの絵や、童話に材をとったものなどが多い。 晩年はフレスコ画に挑戦して、死ぬまで美術に対する意欲を失わかなった。 彼は一途に美術の道を突き進んだと思う。 ブレていたのは彼に捨てられた日本という国だった
こんなに偏見と誤解に翻弄された人生は、感受性の強い芸術家にはさぞかし辛かっただろう。また、国立近代美術館に戦争画が展示されるようになったのは画期的な事なのだと知った。藤田嗣治か晩年の穏やかな暮らしの中で作った様々な小物も見てみたいと思った。
今まであまり明かされなかった画家・藤田の誤解を解き明かすという意味で、意義深く、かつとてもわかりやすいドキュメンタリーだと思う。戦争画に関わった詳細やその後のことも丁寧に描いてあったのでとても満足。同時にこの本を、藤田を誤解したままの多くの人たちに読んでもらいたい、と痛切に思う。
藤田嗣治の人生の軌跡を辿ったノンフィクション。 予備知識の無い状態で読んだため、最後まで非常に興味深く読めた。 藤田のモンパルナスでの著名な画家との交流や活躍を知り非常に驚いた。 日本帰国後は第2時世界大戦中に戦争画を描いた事により、同僚の集まりであるはずの日本美術会から戦争犯罪者にリストアップされ...続きを読むる。 その後フランスに帰化し平穏な日々を過ごせた事が救い。終生日本画壇での評価の低さや軋轢に苛まれた人生であり、藤田を批判し続けた当時の日本画壇に苛立ちを感じた。
きっかけは上野で開催されていた、没後50年藤田嗣治展。 時の流れとともに、描く対象がかわり、タッチがかわる様子を見て、藤田嗣治さんの人生や人となりに興味をもった。 日本に捨てられたとかんじながらも、日本を愛していた藤田嗣治さん。遠い人のように感じるが、奥様が最近までご存命だったと知ると、さほど昔の人...続きを読むではないように感じるから不思議。もっと彼のことを知りたいと思った。また違う角度から彼を語る作品も読んでみたい。フランスには興味がなかったけど、彼の愛し迎えてくれたフランスにも少し興味がわいた。ぜひ彼が作った教会や晩年のアトリエにも訪れてみたい。モアフジタ!もっともっと!と思わせてくれる良書。
日本人に生まれながら、晩年フランス人に帰化した藤田。 渡仏して名が売れ出せば、批判され、日本のためにと思って戦争画を書けば、批判され、日本では不遇の扱いを受けた。そんな日本に対して、当てつけのために帰化したと思っていたが、どうやらそうではなさそうだ。 それにしても、当時の日本美術界の人々などの彼に対...続きを読むする扱いは、腹が立つほどである。 嫉妬からなのか、醜いばかりである。 藤田といえば、「乳白色の肌」で有名であるが、あれはキャンバスに細工をしているようだ。 非常に研究熱心であることに驚いた。 以前、藤田の戦争画を見たことがあるが、戦意高揚のために書かされたのだと思っていたが、本書を読み、絵を見返してみると戦意高揚のメッセージを受けることはない。 彼自身が語っているように、それらは政治的色彩を持たず、純粋に芸術として書かれたもののようである。 藤田の絵の良さを最近感じることがあり、本書を手に取ったが、その人となりも、神秘的で魅力的だったのだろう。 本書はとにかく読みやすかった。
実にオモシロかったです。そして、帰国子女体験がある人には、ちょこっと身につまされる、人生の物語。 藤田嗣治さんというと、パリでフランス人化してしまった、「猫」の画で有名なヒト。…という以上の知識は無かったのですが、衝動買い。 買ってから、作者がNHKのドキュメンタリーのディレクターさんである、とい...続きを読むうことを知りました。 藤田嗣治さんの「一般的に知られている像」を検証して覆す訳です。 ただ、僕もそうですが「一般的に知られている像」を知らない人が読んでも面白いように書かれています。 戦前の人です。それなりに裕福な家に育ち、画家を志す。若くして渡仏。 1920年代、「ベル・エポック」と呼ばれた、二つの世界大戦の間の幸せな時期のパリで大活躍。 ※ウディ・アレン監督の映画「ミッドナイト・イン・パリ」の世界ですね。 ヘミングウェイやらマン・レイやらと、パリの社交界の寵児に。 モデルをはべらせ、和服で奇行の数々。東洋趣味でゴシップ記事に。 一部(特に日本人)からは、やっかみ半分、「日本の恥」と。 戦前戦時中に日本に帰国。「戦争画」と呼ばれる絵を大量に描く。 従軍したり、情報を聴いて、基本線として「日本軍、かく勝った」という画を描いて戦意高揚に努める。 戦後はGHQと仲良くする。 「戦犯」「戦争責任」「恥知らず」と言われる。 晩年はまたパリに移住。フランス国籍を取って、日本国籍を破棄。 そのままそれなりの巨匠として死亡。 …というのが、「一般的に知られている像」であるわけです。 これを、検証していく。 戦前、1910年代に渡仏して、画家になる苦労。まず画家の社交界に認められる苦労。 目立つための奇行は確かにあった。だがそれ以上に、物凄い画家としての研鑽。技術力。 想像を絶する貧しい20代の日々。その中で培われた友情や交流。 何より絵画にオリジナリティを追求する姿勢。西洋のど真ん中で、日本人としての独自性を探っていく。 そしてたどり着いた、日本画でも西洋のマネでも無い、フジタの画、の技法。 そして、最晩年まで拘束された、「軍医の息子」としての血の重み。父への想い。母への想い。 結果論ではなく、同時代で想像していくと、ごくごく自然に戦争画へと向かって行く。 そしてその戦争画も、必ずしも戦争という行為を賛美している訳ではない。 「ノモンハンの画」が実は2枚あった。もう1枚は戦争の悲惨を描いていた、というミステリー。 戦争画、というジャンルすら結果論であって、日本の人々の励みになる、日本の人々に影響を及ぼしたい、という、日本人としての意識。 そして戦後。価値観がひっくり返る中での、政治的すぎる批判。 フランスに戻ってからの、ベル・エポックの慣れの果ての風情と、キリスト教に帰依しての晩年。 そして最後までの複雑な日本への想い。 書き残した、自分の生涯の告白。 日本でも、フランスでも、所詮は異邦人であったという。これ、帰国子女にはちょこっと共感しやすい内容(笑)。 いやあ、これは実に面白い本でした。ある種の20世紀という歴史に記録でもあり、昭和時代という時代の裏面史です。もちろん、ベル・エポックってどういう時代?というナルホドも楽しめます。 そして、電子書籍で読んだのですが。 見たことない絵画を、題名で検索してネットで画像で見れる(笑)。これ、実はモノスゴい愉しさでした。
1920年代のエコール・ド・パリの代表格、藤田嗣治。その実像に迫ったノンフィクション。著者はNHKのディレクターで、「NHKスペシャル」として取材した中身を書籍化した。 藤田は東京生まれ。「嗣治」という名前は「平和という意味だよ」と言っていたそうだが、同時期の日本人と同様、戦争に翻弄され続けた人生...続きを読むだった。 1913年に仏渡し、世界大戦下のパリでモディリアーニ、スーチンらと交流。当初は貧乏暮らしで苦労するが、1921年に「私の部屋、目覚まし時計のある静物」や「寝室の裸婦キキ」が高い評価を受け、「巴里の寵児」に躍り出る。 第二次大戦中は、「アッツ島玉砕」など戦争画を発表。敗戦後は、これがもとで日本美術界から追われ、再びフランスへ。55年にはフランス国籍を取得し、日本国籍を抹消し、レオナルド・フジタと名乗る。 副題に合わせて言うのならば、藤田はパリだけではなく、母国・日本でも「異邦人」だった。 藤田はパリで暮らしていたからこそ、余計に「日本人であること」を意識し続けただろう。戦争画を描いたのも、純粋な愛国心だった。しかし、その思いは敗戦というドラスティックな変化によって、非難へと変わる。このショックはいかばかりか。 フジタは日本を離れる思いをこう言った。 「私が日本を捨てたのではない。日本に捨てられたのだ」 このノンフィクションの最後、著者はフジタが大切にしていた未整理の箱を見せてもらう機会を得る。中に入っていた、という物が印象的だ。 ネタバレになるので、具体的には書かないが、「市民ケーン」の「Rose Bud」を思い起こさせた。
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藤田嗣治「異邦人」の生涯
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