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Posted by ブクログ
著者(大学教授)自身のつぶやきが炎上したことを事例として、
ソーシャルメディアの問題を丁寧に分析した良書。マスメディアにも触れている。
曖昧さ、被害者意識、寛容不寛容、
そしてアメリカの共和党と民主党の分断の激しさ。
私もマナーの悪い人、、道をふさいで2人でゆっくり歩く人などにはむかつくが、
果たして私が不寛容なのか?人々のマナーは昔はもっと悪かったともいう。
そして、他人の行動には寛容になりつつある世の中ともいう。
物事をどうとらえるか、それをマスメディア、ソーシャルメディアはどう伝えるか。
自民党の総裁選をゲームのように煽るマスメディアはあほだと思うけどね。
統一教会も裏金も封印して何が総裁なものかね。
選択的夫婦別姓もそうだ。
考えさせられる新書。
第一章 「表現の自由」をめぐる闘争
…アニメの感想を書いたら炎上した実体験
第二章 ソーシャルメディアの曖昧さと「権力」
…メッセージ解釈はいかにしてズレていくか
第三章 エコーチェンバーの崩壊と拡大する被害者意識
…①カテゴリー思考 ②単純化 ③怒りの増幅
第四章 「不寛容な寛容社会」とマスメディア批判
…快適な社会のパラドクス、新たな迷惑行為の発見
第五章 二つの沈黙、二つの分断
…「ヘタなこと言うくらいなら黙っておくか…」という心理
終 章 単純さと複雑さのせめぎ合い
…他者の目に映る世界を眺めてみるということ
Posted by ブクログ
『ネットはなぜいつも揉めているのか』を読み、ネット上の対立は単純な「民度の低さ」ではなく、ソーシャルメディアの構造そのものに原因があるのだと感じた。表現の自由の章では、不快だから規制すべきではないという考えに共感しつつも、ヘイトスピーチがマイノリティに与える影響を考える必要があるという筆者の立場の変化も理解できた。ただ、どこまでを規制するかの線引きは極めて難しい。批判と圧力を分けるべきという主張も理屈としては正しいが、現実には人間はそこまで綺麗に分別できないだろうとも感じた。
Twitter論では、「近所でサッカーしていたら突然満員のスタジアムで試合させられる」という比喩が印象的だった。匿名個人から企業、政治家まで同じ場で発信し、受け手の規模もバラバラで、交通整理する人もいない。これでは揉めるのも当然だと思う。また、SNSは「内容だけで勝負できる場」の理想を持ちながら、実際には肩書きやフォロワー数など社会的属性が強く作用しているとも感じた。
第3章の「偽りの分極化」も興味深い。実際には少数の過激な意見が目立つことで、相手側全体が極端だと誤解してしまう。SNSは多様な意見に触れられる場でありながら、それによってむしろ対立が激化するという指摘は納得感があった。さらに、被害者ポジションが道徳的優位を持つため、その地位争いが起きるという分析も印象に残った。
第4章では、現代社会は個々人の選択には寛容になった一方で、「主体的選択の侵害」には非常に敏感になっているという整理が面白かった。マナーや子育て、結婚に至るまで求められる水準が上がり続け、それがコストや生きづらさにつながっているという指摘にも共感した。
終章の「シニシズム」という言葉も覚えておきたい。他人の動機を金・地位・名誉・性欲だけで説明しようとする態度のことで、SNSではこうした見方が非常に多い気がする。最後の「その言葉はあえて語るに値するのかを自省する」という一文は特に印象的だった。誰かの意見を繰り返すだけなら、本当に自分が言う必要はあるのか。SNSでは発信そのものが目的化しがちだが、発言前に一歩立ち止まる姿勢を持ちたいと思った。
Posted by ブクログ
SNS上でなぜ意見がぶつかりやすく、ネガティブなコメントが気軽に書き込まれてしまうのかについて、その背景にある人の心理や今の社会のあり方を、わかりやすく紐解いている本。
中でも印象に残ったのが、「不寛容な寛容社会」という表現。多様性を大切にしようという空気が広がる一方で、心のどこかで受け入れられないモヤモヤのはけ口としてSNSが使われているという指摘には、納得感がある。
また、人は自らを被害者としての位置づけたいという心理がある。そのため、気に入らない相手を勝手に単純化し「絶対的な悪」として再構築、強く否定することで、自分の立場を守ろうとする。
さらに、「自分にとって世界は不公正だが、他人にとっては公正だ」という歪んだ認知を持つ人ほど、他人責めるような発言につながりやすいという点も自分への反省の意味も込めて納得。
そして、SNSが持つ「対等性(誰でも対等に発信できる)」という特徴。本来であれば社会的に立場の違う相手にも、気軽に言葉を届けられるという環境が普段は抑えている感情を表に出しやすくしている。
SNS上で対立や炎上が起こるのは、SNSそのものの構造云々ではなく、人間の認知や社会構造が大きく影響するからだと理解した。SNS時代を生きる私たちにとって学びの多い本だと思った。
Posted by ブクログ
【感想要約】
誰もが抱く疑問を起点に、ネット上の対立を社会構造から読み解く理論は示唆的。ただ射程が広く入門書としては通読しにくく、関心分野を見定めるための出発点として有益だと感じた。そして何よりネットが本来持つ"多様性を肯定する力"への想いに強く共感する。
【内容】
著者自身の炎上経験を導入に、ネットにおける炎上の実態と炎上を誘発する背景を示す。それは、現代社会にもともと存在していた承認欲求の競争、道徳的優位をめぐる葛藤、注意経済と結びついた感情動員といった力学がソーシャルメディアによって可視化・増幅された結果、より過激な対立や分断が生じやすくなっている、というものである。本書ではネットの多元的影響を示す数々の興味深いテーマが提示され、対象とする範囲もメディア論にとどまらず政治論、社会論、道徳哲学論と幅広い。
印象に残ったのは下記6点。
1.道徳的権力を巡る、"被害者"になろうとする競争
2.メディアの意見産業化("怒り"の資本主義化)
3.対立意見同士で「レッテル貼り」を繰り返すことによる建設的な議論環境の崩壊
4.「不寛容な寛容社会」化(過度に快適化された社会において迷惑行為が過度に否定され忌避される社会)、それによるマスメディア批判とマスメディア側の変化
5.過激な反対意見によりかえって思想が先鋭化する逆説的エコーチェンバー効果とそれを補強するフィルターバブル
6. 多数派が批判回避のため沈黙することで議論空間が可視的少数者に占有され、その少数派内部でも"沈黙の螺旋"が働き意見が先鋭化する「二つの沈黙」
ソーシャルメディアにおいては、世界を単純化してしまう圧力とそれに抗する多様で複雑な世界の側面を見せる力の両者がせめぎ合っていると筆者は指摘し、後者の力の可能性への期待を示している。そのためには、ネット上において個々人が単純化の圧力に流されて否定的意見や感情の増幅に加担するのではなく、今その人にしか出来ない体験や実感を発信することの重要性を説く。
【感想】
「ネットはなぜいつも揉めているのか」という誰しもが思う疑問を起点に、日常感じる疑問や矛盾に対する納得性の高い数々の示唆に富む理論を筆者は提示する。筆者の豊富な知識と構成力により文章的繋がりは保たれているものの、あまりにも対象とする範囲が広いためややとっ散らかっている感は否めず、入門書としては通読理解がやや難しく感じられた。本書一冊を通してメディア論の入門書として理解するよりは、興味深い数々の理論の中から特に理解を深めたいテーマを見つける、政治学、社会学まで含めた"興味のあるテーマを見つけるカタログ"と位置付けるのが適切に思われた。
本来ネットは従来の権力者中心の政治、歴史著述やマスメディアでは拾いきれない個々の多様な意見や想いを可視化できる、すなわち複雑な世界を複雑なままに記録し保存できる可能性のあるツールである。本書で示されるように、そこには分断や感情的対立といった負の作用も確かに存在する。しかし、それでも本来ネットが持っている「多元性を肯定する可能性」を信じる筆者の楽観を、私もまた信ずるものである。
Posted by ブクログ
ネットやSNSという言論空間の持つ特性や人の思考行動の傾向に基づいて、ネットの弊害と思われるような現象がなぜ起きやすいのかを構造的に分析している。
個別の事案についての善悪などの価値判断については時代の変化や読み手の考え方にも依るので、著者の意見とピッタリ合うとは限りません。
ですが、問題を構造的に捉えて切り口を示してくれているので、問題の読み解き方を身に付けられる=ネットリテラシー本という位置付けかと思います。
ちくまプリマー新書から出ているのとそういう事ですかね。
以下メモ。
被害者になりたがる。
相手は公正な世界にいて自分は不当に不利益を被っていると捉える人は、相手側の人間が被害者であることを認めたがらない
→「差別はたいてい悪意のない人がする」(キム・ジヘ)にも似た視点。
エコーチェンバーにより自身の考えに凝り固まっていく、は誤り?という主張。
異なる立場の極端な意見に触れたときに、自身の意見も先鋭化するという研究あり。
↑
バックファイア効果には否定的な研究も、あるんだっけ?
Posted by ブクログ
・「自分にとって世界は不公正だが、他人にとっては公正だ」という被害者的な世界観をもつ人は、特に被害者非難を行いがちだ。そのため、相手側の被害を認めたがらない、自業自得、自作自演、あるいは自意識過剰と言ったバッシングへ走る。
・意見が似通った人ばかりが集まると、そのなかでも極端な意見を持つ人の発言力が大きくなる傾向にある。より穏健な意見の人は沈黙するようになり、結果として集団全体が極端な方向へと動いていく。
・民主主義国家でも、外国政府との結託を理由に反体制的な運動が批判されることは珍しくない。例えば日本では、沖縄への米軍基地集中の是正を求める運動について「日本を分断したい中国政府が背後にいる」と言った議論が展開される。このような図式は、沖縄の運動は日本の「国益」に反するという論理をより強固に誘導される。
Posted by ブクログ
SNSが社会的な分断や、多くの人に「自分こそが被害者だ」という意識を生んでいくことを分析した本。
確かに著者のお言葉通り、これを読んだら事態がすっきり分かるというものではないかもしれない。
でも、状況も常に移り変わる世界のことだ。
自分にとって意外なことも多く、勉強になったという思いの方が強く残った。
例えば、「弱者(被害者)」になりたがる風潮の分析。
力を持つものへの不信感と、被害者であれば免罪されるお得感があいまって、「被害者」の地位をめぐる競争が生まれる。
SNSには、一見対等な関係性をもとに、注目度が過剰に評価される土壌があるという。
そこで告発したりする人物が現れると、その人がむしろ特権を持った人、と認識されてしまったりする。
その結果、本当に問題であることがまぎれてしまったり、被害者がバッシングされることにもつながる。
ああ、そういうことなのか、と納得半分。
ああ、そういうことなのか、とため息半分。
もう一つ、意外だったこともある。
SNSで醸成される分断の原因が、これまで言われていたエコーチェンバー効果やフィルターバブル効果ではないという話。
そして、興味深いのはSNS以前にマスコミの動きも関わっているということ。
これはアメリカでの事例を通して多く説明されていた。
アメリカでは「フェアネス・ドクトリン」が廃止され、両論並置での報道の必要がなくなった。
自分たちへの支持を集めるために、相手陣営を攻撃し怒りをかき立てる。
(J・ベリーという研究者が、このようなマスコミのあり方を「激怒産業」と呼んでいるとも紹介されている。)
この対立がSNSに持ち込まれることになる。
エコーチェンバー仮説は、敵がいないエコーチェンバーでは盛り上がりが生まれないことから否定されるとのこと。
日本社会への分析は、「不寛容な寛容社会」というキーワードで集約されそうだ。
現在の日本は、個人化が進み、個々人の主体的な選択を大事にする。
本書では、現在の日本社会はこれまでになくマナーが行き届いた「快適な」社会だとされる。
ところが、そんな社会では、ちょっとした逸脱行為が目立ち、非難を浴びやすくなる。
あるいは、他者への干渉は迷惑行為として批判される。
ここからこの本ではマスコミの立ち位置の分析に入っていく(おや?と思ったが)。
記者は権力者で、一般の人に取材で迷惑を掛けているという(現実とは必ずしも一致しない)イメージがあるという。
取材という行為が、個人への過剰な干渉と捉えられている可能性があるというのだ。
(しかし、日本人のマスコミへの信頼度は他国と比べ高いというのも面白い。)
そういう社会の中に自分もいて、利益を受ける場面もあるのだが、意外なところで困った状況も生み出している。
個人としてはどうするといいのだろうか。
そんなことを考えてみたりする。
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