自我と無意識の隣にあった…
科学以前の錬金術が求めていたものは自己であり、魂であった。ことば以前、存在以前を求めた、ギリシアの最初の哲学と同様に。万物は水、火、水銀だのと言う時、それは、現象としての物質ではない。哲学者は魂や自己と呼ぶが、錬金術師はそれを賢者の石・卑俗ならざる金と呼んだに過ぎない。
...続きを読むユングは、その意識でも無意識でもない自己を語ろうとして、歴史にその答えを探し、個性・自己に気付いた人のことばの中からそれを語りだそうとした。どうやってそのひとたちが自己を探究したか、不思議にもそのプロセスは似通っていた。そして、そのプロセスの萌芽は集合的無意識という形で、今もわたしの中に在る。意識はそれに意味を与えようとするから、不可思議な象徴として夢に現れる。フロイト主義の狭さは、この意味を与える(還元する)ところばかりに注目して、なぜ、そういう意味を与えてしまうのか、無意識の探究をしなかったことにある。ユングが、超常現象や錬金術の探究をするのは、どうに自己を言いえたのかを知るためである。これを患者に示し気付かせることで、彼は治療を試みたのだ。
無意識が投げかける、この途方もない、宇宙のようなイメージは卑小な意識にとてつもない苦しみを与える。吐き気であり、自同律の不快。これがもっとひどくなると、自我肥大や神経症へと落ち込んでしまう。
無意識の投げかける莫大なイメージから、無意識でも意識でもない自己・個性の分離をユングは訴える。そのための、アクティブ・イマジネーション、考えるという行為なのだ。
存在しない、わからないと言う時、存在するもの。礼拝堂に移った錬金術師たちは、その途方もない存在に打ちのめされた。一方、現象としての物質を探究し続けた錬金術師たちから、科学が生まれた。そこには、ユングが嘆くように魂、存在が忘れ去られている。