昭和32年の紀州地方での炭焼きをめぐる物語である。江戸時代の元禄期に始まる。備中屋長左衛門がウバメガシを使った白炭窯を完成させ、「備長炭」と名付けたことである。この白炭窯は、1000度前後の高温を生成し、その結果、硬質で日持ちの良い炭が作られた。この時代の炭焼き名人は、2メートルほどの備長炭を手がけたと言われている。この伝統を受け継ぐ物語だ。
物語の中心は、昭和32年の紀州、和歌山県西牟婁郡西ノ谷に住む20歳の若者が炭づくりに挑戦する姿である。作者の画風は非常に正確でありながら、マンガとしての気品を持ち、その画力が自然の厳しさを見事に表現している。物語の中で、この若者は日置川の支流である谷川を利用し、伐った木を炭窯の近くまで運ぶ。彼が活動する雑木林には、約十家族の炭焼き師たちがそれぞれ独自の窯と小屋を設けて働いている。青年はカシの木を伐っており、備長炭の原料となるウバメガシは非常に硬く、曲がりくねった木が多い。
青年の父親は、村の区長や議員の職務で忙しく、焼子を雇って炭を焼いている。青年は自身の窯で、40俵(1俵は15kg)の炭を焼くことができるが、炭焼きはただの労働ではなく、山を育てるという精神を持った技術である。そのため、炭焼き師たちは1200年もの間、紀州の森を守り、育ててきた。
備長炭は美しい光沢を持ち、金属的な音がするほどに引き締まって硬い。出来上がった炭を窯からかき出す作業は暑くて重労働であるが、窯出しが終わるとすぐに「窯くべ」という新しい原木を入れる作業が待っている。良質な炭を作るには、窯ができるだけ熱いうちに次の木を入れることが重要であり、1.8メートルの炭木を窯に入れるという方法は、備長炭の伝統を受け継いでいる。
炭窯の暑さをさますために、冷たい谷川に飛び込んで、心臓麻痺で死んだものもいる。とにかく、窯作業は暑さとの闘いだ。
紀伊半島には、標高数百メートルから最高峰の1700メートルの森林があり、そこにニホンカモシカが生息している。昭和30年には特別天然記念物に指定されたニホンカモシカの孤高の姿も描かれている。青年の子ども時代の思い出には、焼子の武藤さんが茹でたヒメガニを食べていた場面もあり、なぜその頃に食べなかったのかと、今食べてみると実に美味しいという感慨を持っている。
季節の移り変わりの中で、山々が変化し、トラツグミの鳴き声が響く。山が生きているように感じる瞬間であり、さらにイノシシ刈りやマタギ生活を楽しむ様子も描かれている。みんなで食べるイノシシ鍋や、雪の中での生活体験、雪女が来るような神秘的な自然も存在する。これらの描写を通じて、一途に炭焼きに励む青年の孤独と情熱が強く印象に残る。
この物語は、炭焼きという伝統的な技術を通じて、人間と自然の関係、そして地域社会の絆を描き出している。青年の成長と共に、炭焼きの精神が受け継がれてゆく姿は、ひとつの時代の物語であると同時に、現代に生きる我々へのメッセージも含まれているのである。炭焼きは日本の伝統的技術であり、絶やしてはならない。宇江敏勝の『炭焼日記』が原作で、読んでみたい。
この本が作られた2000(平成12年)度は、和歌山県内に180戸が従事して、9万5000箱(1箱15kg)を生産した。備長炭の生産量は現在、全国で約4,000トン、そのうち紀州が35%、日向が20%、土佐が15%である。