堀部さんの建築と、例えば「ぐっとこない」建築の差はなんだろうなぁと思った時に、「すっと中に入れる感じ」があるか否かという点に尽きるのかなぁと思った。「ぐっとこない」建築は、どこか空間の密度が散漫で、吉村順三のいうところの「重心」が感じられない。そうすると、そこに自分がいる時に、どこか空間と自分との間
...続きを読むに「ずれ」が発生してしまって、居心地が悪いのだと思う。一方で堀部さんの部屋を見ていると、空間の密度が高くて、場が引き締まっているように思える。これが何に依拠するのかは、素人の私などでは到底詮索できようもないが、少なくともそうした空間においては、部屋と自分との間が溶けて行く感覚があるんではないだろうか、そしてそういう空間でこそ、人は「いる」ことが出来る、それを一般に「居心地が良い」というんだろうなぁ。
あとは、家っていうのは、「その人のいる世界」を示すもので、極めてアートにおける知覚変容に近い効果を及ぼせるものなんだろう
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設計者として、表現の結果のすべては出来上がった建築の空間にあり、それを様々な人に見た貰いたいという願いはいつももっている。、、、、けれども、出来上がった建物やそこから生まれる人の営みは“自分だけ”の表現ではなく、ましてや自分だけの作品でもない。
私の仕事は指揮者ではなく、作曲者に近い
詩的で静寂を感じさせる空間。
いえ、住宅をつくるということは、これから非常に長いお付き合いをさせて頂くということですから、すぐにお仕事をお請けすることはできません。その前段階として、お互いを理解するための、いわゆるお見合いの期間を設けさせていたぢています。
それもお約束できないんですね。すぐに答えが見つかれば、比較的短期間でつくれることもありますが、その答えが見つからなければ、私はずっと探し続けます。
こんなにフワフワなスケジュール感があろうか!という呆れと、こんなに自分のプロセスに忠実な人がいるのかという感動
途中で、関係が決裂してもおかしくないような齟齬が生じた。
わかりあえる人と出会うことも稀なことだと思いますが、その関係を長く続けていくことはさらに難しい。
建築家と建主を超えて続いている関係を通して、人と人との付き合い方を学ばせてもらっている
魂のすこやかさ、、、建主や世の中に媚することなく、まっすぐに建築の本質を見つめる逞しさや潔さ、心住まいの端正さ