趣味で高校生に文学を教えているのだが、そこで、角田光代の「ふたり」という小説を扱うことになった。結婚3年目の若い夫婦が喧嘩する話なのだが、この小説で起きている現象を解釈するのに、「家庭」が一つのヒントになるのではないかと思って買ってみた。
まずもって驚いたのは、「家庭」というワードが現れた明治時代では、当初、この言葉が左派の言説として現れていたということである。素朴な印象として、現代に「家庭」を大切にすると言うと、保守的な言説のイメージがある。ただ、明治時代においては、家父長が大きな権限を持つ、前近代的な「家」制度に対抗する概念として、「ある程度対等な夫婦の情緒的結びつきを軸とした、一夫一妻制の家族(p40)」としての「家庭」が、提唱されたのだった。保守的なイメージとしての「家庭」が出てくるまでには、かなりの時代的な変化を経る必要があった。
本書でこれまでみてきたように、夫婦と子どもを中心とし、また性別役割分業が組み込まれた家族のあり方は、「家庭」という言葉とともに明治期に理念としてあらわれたものだった。こうした「家庭」は、大正期頃から新中間層を中心に広く実践されはじめ、戦後の新憲法の制定と民法改正によって制度的にも保障された。そして高度経済成長を迎え、製造業を主力とした工業化社会が本格的に形成されるなかで、「家庭」を営む層は拡大し、それは日本社会の基盤であると、政治的な立場を超えて認識されるようになった。(p201)
つまり、理念として現れてきた「家庭」が実現するには、産業構造が根本的に変化し、社会の人々の働き方が変わる高度成長期まで待たなくてはならなかった。
逆に言えば、理念としてしかなかったはずの「家庭」は、産業構造の変化に伴って一般的なものとなり、俗化していくなかで、保守の言説の中でも、保守として「家庭」をどう捉えるのかを考えざるを得なくなったということである。このときの「家」に代わる「家庭」の保守的なイメージが、今現在、一般的に思い浮かべられる保守的な「家庭」のイメージになっているのだと思われる。
この「家庭」概念の社会への需要と理念とのギャップという点で面白かったのが、新憲法の制定と民法の改正によって、「夫婦と子どもを中心とし、また性別役割分業が組み込まれた家族」が制度的にも保障されたのにも関わらず、戦後すぐの時代には、一般にそれが認められることがなかったということである。というのも、戦争によって、あらゆる生活基盤が破壊された国民たちが頼りにできたのは、旧来の「家」で結びついた親族であったからだった。そのため、法的な保障とは裏腹には、人々の生活は、旧来の家族、親族関係のなかで維持せざるを得ず、生活基盤として「家」制度が維持されることになった。
要するに、「家庭」のあり方というのは、それが実生活に結びついているがゆえに、理念以上に、現実的な生活に規定されているということである。だからこそ、一夫一妻制を軸にした家族制度としての「家庭」の成立は、国民がある程度裕福になる高度成長期を待たなくてはならなかったのである。
結論からいえば近現代日本の「家庭」とは、明治維新以降の近代化にともなう社会変動のなかで、新たな生活基盤を探るための言葉、概念だった。そしてそれは、近代化によって生じた「近代家族」と連動してあらわれたものだった。
そして本書で打ち出したいのは、近現代日本の「家庭」論は、「家庭はどのようにあるべきか」といったような道徳論、人生論にとどまらず、社会構想に関する議論をしばしばともなっていたことである。(p323)
それにしても、角田光代「ふたり」の中に描かれる夫婦像は、この本で紹介されている様々な論者の「家庭」論には、まったく当てはまらない。小説「ふたり」も、女性誌に掲載された往復書簡を元に書き下ろされたものである点からして、一つの「家庭」の理想像を提示したものである。「家庭」というのは、こうした官民含めて、様々な理想が錯綜する場所としてあるということが、ひとまず、この本を読んでいると分かる。その実践の一つが、「ふたり」を含め、様々な家庭をテーマにした小説群なのだろうと思われる。
この本の中でも、円地文子『女坂』の描写から、明治時代当時の家族生活の様子を伺うところがある(p52)。そこに描かれている夫婦生活は、妾と正妻が同居する家での食事場面と、今では考えられない家庭像だった。自分が経験してきた家庭も、100年経つと、これくらいのギャップがあるとは、とてもじゃないが想像できない。ただ、そうした時代の反映として物語の中に描かれる家庭を見ることは、どんな小説でもできる読解の視点かもしれない。
現代になるほどに、実態としての「家庭」そのものが多様化してしまっていて、その特徴を時代や社会の傾向として捉えることが難しくなっているようである。だからこそ、現代では保守系の論者を中心に語られる「家庭」の理想像なるものが、バカバカしく聞こえるのかもしれない。