サミュエルソンやフリードマンが活躍した時代背景を学んだり、経済史としても勉強になるが、それ以上にライバル関係だったこの二人のドラマとして楽しんだ。敵対しつつも互いを認め合う関係。時代を築いた天才たちの話だ。宇沢弘文の影響でフリードマンはあまり好きではなかったが、印象が変わったのもこの本の影響だ。
しかし、先に言ってしまうと、特にフリードマンは経済顧問として政策介入しながらも、その成果は煌びやかなものではなく、失敗も多い。結局の所、この天才二人をもってしても、市場を自由に操作する事は不可能であり、それができるなら我先にと利確に動く合理的期待形成が起こるから、実際、経済をコントロールすることは容易ではなく、金融政策、特に利上げの効果を正確に予測するのは困難だ。インフレになるぞ、と思えば、その予感で動くのだから、実際には利下げが効くのか、アメリカ側の発言がキッカケで市場が先に動く事もある。
ー サミュエルソンは「経済学入門的分析」を出版した。同書はただちにベストセラーになり、ほぼ三年ごとに改訂され、サミュエルソンの同僚たちにとって羨望を含んだからかいの種になった。彼の友人ジョージ・スティグラーはかつて彼を「名声を得て、今や富を得ようとしているサミュエルソン」と紹介したことがあったが、「わたしはある国の経済学の教科書さえ書けるなら、その国の法律を誰が書こうがかまわない」と彼は後に述べることになる。
ー ハイエクは使命を感じていた。専制的な枢軸国に対する民主主義国の勝利にもかかわらず、自由が危機にさらされていると、彼は思っていた。経済学のケインズ革命は、政府部門が市場のメッセージを無視して、公共事業への政府支出を通じて経済を直接運営することを正当化し、奨励していた。政府による巨額の建設プログラムはナチズムのトレードマークだった。ナチズムも国家に経済運営を任せたのだ。ハイエクには大きな流れに気づく才覚があった。彼は一九三一年にロンドンに移住して、ケインズを直接止めようとしていた。…自由市場経済学の繁栄を復活させようとしていた。
ー フリードマンとハイエクはオーストリア学派経済学の価値については意見が一致しなかったものの、フリードマンはやがてハイエクの継承権第一位の後継者になった。それは彼の経済学によってというより、進歩的なケインズ主義的コンセンサスを覆し、政府部門を縮小しようとする彼の野心の大きさによるものだった。
ー どのようなテーマについて書いたときでも、二人の考えの根本的な違いは、三〇年前に浮上していたケインズとハイエクの対立に起源を持っていた。彼らの意見の違いの、また経済学の相対立する二つの主な流派、左派と右派の違いの核にあったのは、政府は市場に介入するべきか、また意図した目的を達成できる介入はあるかという問いに関する根本的な違いだった。
ー 連邦政府はアメリカ国民の要請によってインフレの推進力になってきたのである。アメリカ国民は政府が支出を増やし、それでいて増税しないことを望んでおり、それによって政府がインフレという隠れた課税に頼るように仕向けているのである。人々はインフレを嫌う。
ー サミュエルソンはフリードマンに唐突に手紙を書いて、「われわれが初めて会ったのは・・・・ちょうど六二年前だった。わたしは平凡な二年生で、あなたはすでに必ず学者になる人として目立っていた」と、思い出を語った。それは二人が共有した多くのことのほうが二人の違いより重要であることを強調する、親しみのこもった感傷的な手紙だった。「われわれ二人について、将来こう語られたいものだ。二人は多くの点で意見を異にしていたが、互いの論理的、実証的な違いが何に根差しているかを理解していた。そして愛嬌と友情と敬意を生にわたり、かなり上手に保ちつづけた」と、サミュエルソンは書いていた。フリードマンは返信で、自分とローズはサミュエルソンの手紙に「とても感動した」と述べ、シカゴでの若い日々について自分も同じように感じていると記した。「本当にすばらしい日々だった」と述べたうえで、フリードマンは「しかしながら」と続けた。「ひとつ訂正したいことがある。われわれが初めて会ったのは六三年前か六一年前だったはずだ。たぶん六三年前だ」。
生涯をかけた仕事においては、ライバルの存在がある事は幸せなのかも知れない。二人しか分からない領域がある事は素晴らしい。意見の違う敵という存在に対し、見方の変わる本だった。