沈滞している日本の宗教心理学を活気づけるための書籍。沈滞は日本人での宗教・信仰に関わるデータが取りにくいためで,この打開策として,この研究一派は「研究対象を明確化して一定の群に分け(宗教,教派,宗派を細かく分類),その群の特徴的な宗教性を探る」アプローチを採った。
このアプローチによって,確かに宗教に基づいた群間での共通性・相違性が浮上するだろうけど,宗教的群分けに基づく方法は,群の人数の偏りをカバーする従来以上のサンプルサイズでないと,妥当な統計分析が成り立たないことは想像に難くない。とはいえ,それで明らかになる知見もあるだろうから,決して無駄なアプローチだとは思わないが,研究の裾野を広げようとしても,そのコストで手を出しにくいという点では,自分の首を絞めてしまうアプローチを選択してしまっているように感じる。
また,本文では「特定の宗教教団における信仰の有無」を基準にして考えることから一旦離れてみてはどうかと提案している。ん? 上記の群分けは「信仰の有無」をより細かく見ることではないのか?
このあたりの論理的な揺らぎが,実は宗教心理学の足枷だったりするのではないだろうか?
さらに筆者は,多くの日本人は宗教を信仰しているかどうかについて「継続的に信じること」に囚われ過ぎていると指摘し,受験の時だけでも祈ったりすることも信仰の一部であると考えられるという。それは否定しないが,継続性を無視することを要求しても,それでも「無宗教だ」と多くの日本人は答えるだろう。宗教への所属感がないのだからそう答えるしかない。部活なら3日で辞めても「所属していた」と言うだろう。宗教に対しては,多くの日本人は名目すら自覚していないのが実態だろう。
発達の側面から考えるとしても「成人になっても宗教性が未成熟な場合がある」とはどういうことなのか? 宗教的成熟とはそもそも何なのか?
結局,宗教とは世界のありように対する捉え方,すなわち認知の研究と考えれば,よりよく把握されるのではないか。
【第1章】
東日本大震災での死児に卒業証書を授与する「非合理的行為」には,どのような思いが込められているかの分析を扱っている。しかし,このような「非合理的行為」は,例えば,殉職した刑事を2階級昇格したりするのも同じである。震災特有の行動として彩ることは憚られる。
これを,関係者に対する調査によって検討しようとする姿勢は,申し訳ないが,「心のケアお断り」と被災地で臨床心理士派遣(押しつけ?)が結果的に迷惑がられるのと似た側面があると感じてしまう。もちろん,同意した人が調査に回答しているのだろうからデータはそれでいいのだが(回収率4割強),その裏で「この辛さを“メシのタネ”にしようとしている輩がいる」ことに不条理さを感じている人がいただろうと考えるのは,度が過ぎている想像だろうか?
また,「宗教が担ってきたこころのケアから分離・独立した心理学・心理療法は,合理的・科学的であることを志向した。(p.24)」というのはウソも入っていると思う。少なくとも力動系の心理学者には「エビデンスいる?」という科学的とは言えない姿勢が見られる。
さらに,「公立学校での特定宗教に基づく活動の禁止」が「第二次大戦敗戦以前の国家神道への厳しい反省からきている。(p.24)」という記述も,表向きは自由と民主主義のためだが,背後に,「日本という国家が神道を通じた精神の結集によって恐ろしく強固な共同体になり得ることへの警戒心」を持っていたGHQによる「精神的去勢」があった。とはいえ,こんなことを知っている心理学者はほとんどいないだろうし,知っていても踏み込まないだろう。
しかしながら,得られた回答には胸を打つものがあるのも事実だ。死児への卒業証書授与は,慰霊とともに遺族への癒しのための儀礼と言える。
【第2章】
今度は阪神・淡路大震災のその後の行動と心理。筆者らがろうそく法要に参加した時の「フィールドノート」が紹介されているが,これを見て,著者に対する気持ちの悪さを感じた。これは自分自身が阪神・淡路大震災の被災者であることもあるし,まるで盗み聞きしたことを記録しているものに読み取れるからだ。この記録には,マスコミ関係者も出てくるが,この心理学者とは異なり,記者であることを明示していたに違いない。了承の下でのインタビューは問題ないだろうが,心理学者とはこんなにコソコソする部分があるのか。少なくともこんな記録をオープンにする神経が理解できない。
また,インタビューでの協力者のコメントは,新聞記者にも聞かれた時に答える内容とほぼ変わりないと思われる。新聞とは違い,発言のママ掲載できる利点はあるが,それ以外の「心理学的」と言えそうなところもまた,常識的な新聞記事でも見られるような内容に過ぎないようにも思う。
新聞記者ではなく心理学者でないと分からなかった部分はあるのだろうか? かつて,岸田秀は「心理学はプロのレベルが低いのではなく,アマのレベルが高い」と言った。本章は,社会記事を超えていないと思う。宗教心理学の停滞の一旦は,マスコミでも取り扱っている質的なアプローチとの差別化やそこからの飛躍が停滞しているところにあるのではないか。マスコミも書ける宗教心理論ではなく,宗教心理学になるには方法論がポイントになる。
【第3章】
特定の宗教への信仰の有無を尋ねたデータが紹介されている。神道と答えると,その協力者はさらに出雲大社系か天理教系かと下位区分を答えさせられるらしい。その結果,4割くらいが信仰者で,そのうち6割弱がキリスト教だったという。下位区分が答えられない人の中には面倒になって「信仰なし」と回答した人もいるのではないだろうか。サンプリングに宗教教団も入れていたり,量的調査の試みとしては違和感がある。但し,これは日本の宗教分布を見るものではなく,説明概念としての群分けを目的としているものであるならば,これはこれでよいとは思う。しかし,「日本人の」という場合の研究対象としては,宗教教団に関与していない方がほとんどであることを思うと,適切なアプローチとは考えにくいのではないか。
数量的な分析を紹介しているが,初っ端の性別×信仰の有無のカイ二乗検定・残差分析の解釈が間違っている。残差分析の有意性は「期待度数」とのズレ方に関するものなのに,「女性については,信仰をもたないとする人よりも信仰をもつとする人が多い。(p.68)」と無頓着に書いている。度数は前者が2,348名,後者が1,652名である。小学生が見ても,「信仰をもたない人の方が多い」と分かるデータである。著者の統計の無理解だけでなく,編者の仕事が疑われる。第3節は1ヶ所を除き,全てカイ二乗検定による分析を提示しており,解釈はもはや絶望的である。
第4節では宗教観尺度得点の群間差を調べている。3つの下位尺度のうち加護観念は,「観音さん」「お不動さん」「神社の境内」などが使われ,キリスト教信者の得点が低くなるのは無理もない。霊魂観念(この命名はどうかと思う)もキリスト教の考え方とそぐわないので得点が低くなって当たり前(むしろ,高くあってはいけない)。特定の宗教に有利/不利,あるいは該当/非該当という項目は,所属宗教で群分けした結果を分析する際にはトートロジーになり(例:キリスト教徒は「神社の境内で落ち着かない」だろうし,「神社の境内で落ち着かない」のは群の中ではキリスト教徒だろう),知見としてはあまり価値がない。
【第4章】
健やかに,よりよく生きるために宗教は必要かがテーマの章。そのためにwell-beingの定義について検討しているが,ここでの説明から,well-beingは調査に向いていない可能性を感じた。というのも,最高の健康がwell-beingとされているためである。つまり,「病気でない,虚弱でないというだけでなく,身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態(well-being)」だからだ。
もしwell-being得点を測定する尺度があるとすると,まず病気の人はもはやwell-being得点は最低点にならざるを得ない。もしその得点が最低点にならないとしたら,それは定義に反する。また,測定の結果,well-begin得点が低いというのは,病気だから低いのか,健康であっても「最高の健康」ではないから得点が低いのかが分からない。実証的宗教心理学にとっては本来は厄介な概念ではないだろうか。例えば,交通事故で車椅子生活になった人が何らかの宗教に入信した時,well-being測定に意味があるのか?
扱われる概念とその測定の妥当性が疑わしいことから,この章で扱われている研究は個人的に関心は持てなかった。それだけではなく,「調査と分析を終えた上での筆者の結論だが,宗教がこころの健やかさおよび,健やかな人生・生活を送る上で寄与出来る可能性は多少なりともあるのではないかと思われる。(p.105)」という結論は,研究をせずとも導けることではないかと思う。
【第5章】
初見で,この筆者の宗教定義「宗教とは,様々な生活場面で意識される,有限という人間の存在様式の自覚に基づき,その有限を超えた無限を想起し,かつ,これとの何らかの関係性を認識して,人間の問題の究極的解決を目指そうとする試みである。(p.106)」はなかなか興味深く感じた。というのも,この定義からすれば科学も宗教に分類されそうだからだ。この「宗教」の個人の取り組み度合が「宗教性」ということになる。
しかし,普通「宗教を信じますか?」と問われて,そこに科学を含んで回答する人はほぼいない。一般の人を研究対象にしようとすると,研究者自身の定義よりも,一般の人の認識と整合する定義を優先すべきではないだろうか。この章の著者は,従来的な宗教性(既成宗教への信仰や神仏観念など)から離れ,別の宗教性の指標を求めるという観点に立ち,「宗教的自然観」を日本人の宗教性に対する有効な切り口としようと試みる。これにより宗教文化の基層と関わりつつも,必ずしも既成宗教の枠組みに寄らずともよくなる。
宗教的自然観は「対自然認識」と「対自己認識」の2つの側面が想定されている。紹介されている研究は質的であるため,自由記述が成立する言語スキルの持ち主しか有効な回答として読み取られない可能性があり,得られた回答のまとめ方には若干の恣意性が疑われるものの,制度宗教の観点による束縛から解放された,狙い通りの研究であると言える。量的分析はこれからというところか。
【第6章】
出雲大社の講社であり,神道信徒相手の心理カウンセリングを行う著者の質的研究。クライアントが筆者の語りに納得できない状況から転換が見られたのは,「神様が魂を成長させろ,何かを学び取れということかも」と言う筆者の言葉がきっかけだった。これは「認知の転換」だが,「見方を変えればポジティブになれる」という抽象論よりも「神様」の方が自分に対する「社会構成主義的なナラティブ」を促せた可能性がある。
神道関係者ということもあり,神道思想や「神道ナラティブ」に関する記述は興味深いことは間違いない。しかし,入手データも神道関係者に偏っているため,宗教心理学の停滞を打破するための編者の方策に合致しているとは言い難い。裾野を広げるためには第5章の著者のような考え方の方がよさげ。
【第7章】
医療関係者が用いるスピリチュアリティと宗教研究でのスピリチュアリティ,はたまた日本文化でのスピリチュアリティなど,スピリチュアリティは定義的混乱の様相がある。本章は宗教やスピリチュアリティの捉えられ方を調べるために開発された「宗教イメージ尺度」に関するもの。島薗 (2012) の「宗教とスピリチュアリティの分離は,個人性-システム性軸にあるのではないか」という説に基づく。さらに,日本でのスピリチュアルの扱いからの推測として「軽薄-重厚軸」も追加して検討。
著者たちの分析では,青年期は,成人期や老年期よりもスピリチュアリティを「組織的(システム的)で軽薄」と捉えているとしている。しかし,値としては「個人的の範囲」での結果であり,軽薄さの平均評定値も0.1程度であるように見える(著者たちが行っていなさそうな「ゼロとの検定」をすれば非有意かも)。重厚か軽薄かという軸は「教義性」という軸に置き換えればよりクリアな分布が見えるかもしれないが,「個人性-システム性軸」と相関が高いかもしれず,よく分からない。ただ,イメージ分布などの結果から見て,「個人性-システム性軸」が最も顕著な違いを生む軸であるように思われる。
【第8章】
様々な調査から,日本人には,信仰を持たずに宗教的な心を大切にする民族性があることが示されている。ここには「信仰をもつ」と意識するに至るためのプロセスが関与していると考えられる。
日本人は国際比較において,宗教への抵抗感が根強い。宗教という社会的なレベルにおいてマクロ寄りのところに身を置く判断には至りにくいが,個人的なメゾレベル,ミクロレベルにおいての宗教的な感覚を醸成するに留まる。宗教ではないがスピリチュアルという状態は,近年のアメリカの層にも増えており,宗教的自然観にも近い。特に日本の場合,ポップスでも宗教色が一切ない「神」に気軽に接触する環境にある点も特徴的である。
世界の意味付け機能として,宗教は,「科学」「自然」に次ぐ解釈システムであり,存在や生・死,苦悩といった哲学的問題に対して,他の解釈システムの守備範囲外とするところに意味を提供できるシステムである。
【第9章】
スピリチュアリティは科学的に扱うには厄介な概念だが,心理学史としてはW.ジェームズにまで遡れる。宗教や教理に全く言及しなかったことで,スピリチュアリティの古典と見なされる。スピリチュアリティは,行動主義の台頭で立ち消え状態となったが,認知革命により再び研究対象の俎上に戻った。
日本では「霊性」「仏性」と訳されたりしたが,カタカナ語の論文も増加傾向にあるが臨床(スピリチュアル・ケア)に寄っているきらいがある。日本人一般としては,ポップカルチャーでのブームとして,占いや前世などオカルト的概念として解釈されるようになった。
仏教,キリスト教,無宗教の3群と年齢段階3群でのスピリチュアリティ分析を行っている。「人生の意味」はキリスト教徒が高く,「因果応報」と「心象の現実化」は仏教徒が高かった。解釈はそれぞれの教義に近いからという平凡なものだった。
【付録】
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心理学の領域では「日本人(全般)の宗教性は捉えにくい」と永きにわたり言われ続けてきた。しかし,捉えにくい研究対象に対してひたすら「日本人(全般)」との広い枠組みから捉えようとしてもやはりそれらを詳細に捉えることは困難なように思われる。加えて,心理学的研究で言われる「問題となる対象・現象における一般化・普遍化」の視点からアプローチすると,さらに捉えようとした研究対象が薄まった形になってしまい,結論もやはり「日本人(全般)の宗教性は捉えにくい」といったものになってしまう。
この悪循環を打破するために,「研究対象を明確化すること」を提案したい。すなわち,自分が調査したい研究対象をできる限り明確にして研究を構築していく必要があると考えるのである。キリスト教,仏教,神道といった宗教教団を研究対象とする場合も,教団,教派,宗派によって様相は大きく異なっていることから,教団,教派,宗派レベルまで明確にすることを意味する。これは,宗教教団の信者以外を対象とする場合でも同様である。自分が調査したいと考える,たとえば「墓参,初詣,神棚や仏壇への参拝(祈願)といった日本人の主たる宗教実践」「スピリチュアルブーム」といった現象に対して,その領域に関わる研究対象をできる限り明確にして研究を構築していくということなのである。このアプローチは,「研究対象」から調査,研究の「軸」を設定するというものである。研究対象を明確にすれば,自ずと研究対象に関わるフィールドも明確になり,捉えようとする現象は必然的に捉えやすくなる。(pp.v-vi)
慰霊とは結局のところ「記憶」と「忘却」という両義的な儀礼なのである。(p.42)
死者を記憶することによって死者を忘れ,遺された者が新たに生きていくことを可能にする。死者は祀られることによって遺された者を守護する存在ともなる。こうした合理的でない死者の受容システムが,人間が「死」という究極の難問を受けとめるために必要とされてきたのである。(p.43)
日本の宗教文化においては,あらゆる自然物,自然現象,自然風景が,神聖性を帯び,畏怖感情を生起させ,礼拝の対象となってきた。このことを少しでも思い起こすならば,「自然体験」への着目は驚くに値しない。そればかりか,このことにより,宗教性の探求を,「既成宗教」という枠組みをいったん外して行なうことができる。既成宗教への信仰や,既成宗教の説く教えから離れ,さらには「神仏」の観念にも縛られることなく,自由に宗教性を探求しうるのである。こうして,自然体験への注目は,①宗教文化の基層と関わりつつも,②必ずしも既成宗教の枠組みに拠らずともよいこと,の二重の意味で有効である,と考えられるのである。(pp.110-111)