本日の書評は「国連で学んだ 修羅場のリーダーシップ」忍足謙朗です。
現場主義が大好きな国連のWFP(国連食糧企画)で獅子奮闘する日本人国連マンの業績を”リーダーシップの実践例”という形で、われわれに書籍と言う形で提示してくれたものだ。
まず、忍足さんの学歴を軽く紹介すると、日本で小学校から高校ま
...続きを読むでインターナショナル・スクールに通い、卒業するとユニーバーシティ・オブ・ザ・パシフィックとうアメリカの大学へ進学した。
卒業後、スクール・オブ・インターナショナル・トレーニングに進学。修士号をとった。
その後、当時、偶然勤めていた領事館の外務省の方から「国連を受けてみないか」と訊かれたそうだ。
それは各国の政府が給与や経費等負担し、JPO(=Junior Professional Officer)に応募してみないかということ提案だった。
このとき、日本は好景気で、なにも海外までいって働こうという人は少なかった。そんな中で、日本政府にはとにかく少しでも多くの日本人を国連にねじこみたいという事情があったのだ。
筆記試験などなどなく、直接ニューヨークの「国連開発計画(UNDP)」の本部に面接に呼び出ばれる。ほどなく採用された忍足さん、リビアのトリポリへ赴任するというオファーを貰うことができた。
リビアでの数年後の勤務を経て、とにかく現場に出たかった忍足さんはWFP(国連食糧計画)に門をたたいた。すると面接後の夕方に同所から「こいつを雇え(Hire Him)」と手書きの紙を見せられたのだ。
そこで今回のコピペブログだが、一番白眉な点である忍足さんのご活躍のうち、比較的穏便でかつ、日本の皆さんも知りたいであろう、「北朝鮮支援(WFPの)」について述べる。
そもそも、なぜWFPが北朝鮮支援を行ったかについてだが、その端緒は1995年に始まる。それ以前は北朝鮮政府が、かろうじてではあるが自力で食糧供給を行っていた。しかし1994年と1995年にかけて立て続けに起こった洪水などの自然災害によって、この供給システムが破綻してしまった。
その間、餓死者の総数は50~100万人にも達したと言われている。この数字とっても正確ではない。北朝鮮は、それだけ閉じられた国家だった。
北朝鮮の場合、人々は移動を厳しく制限されているため、国外へ逃げ出すことができない。また、国内にも国連やNGOの駐留を認めていなかったので、彼らがアクセスできる支援実施地域が存在しなかった。
こういった事情から、北朝鮮の飢饉は未曽有の人道危機へと発展してしまったのだ。そこでそのような状況を制御できなくなった、北朝鮮政府はWFPの支援を受け入れ、支援活動が始まった。
とにかく大変だったのが、同地での支援作業。なんでも最初はとにかくホテルに缶詰めにされてしまい、食料配給をモニタリング(実際どのように支援が使われたことをちょうさすること)する条件に政府は拒絶した。それならば「それではこちらもできない」と忍足さんの同僚はゼロ回答で帰ってきたという。
当時、北朝鮮には6つのオフィスがあり、インターナショナルスタッフが50人程度、現地採用人数が80人ほどいた。
また平壌のスタッフたちはある程度自由に、市内を自分たちの車で移動することができた。とはいえ、公共交通機関に乗るのは許可がいるし、現地の人間と勝手に接触することは原則的に不可能だ。当時は外国人専用のスーパーマーケットが用意され、外国人は隔離されていた。
北朝鮮に公用で入国した外国人には、必ずやらなければならない通過儀礼が存在する。2001年の冬、平壌につくと政府の役人が三名、WFPの現地統括所長とローカルスタッフが迎えてくれた。
彼らは車に乗せられ、万寿台(マンスデ)へと連れていかれた。金日成の銅像がある丘だ。そこで、現地のWFP所長から花を渡され、「金日成の銅像に献花してください」といわれた。忍足さんは、単なる通過儀礼だと割り切ったようだが、これができない人は仕事に迷惑をかけるそう。ちなみに忍足さんは、都合10回北朝鮮を訪れているが、毎回この儀式に参加するとのことだ
宿泊しているホテルから、街にでると行きかう人々がだれ一人、忍足さんと視線を合わさないことに気づいた。彼曰く、ダウンジャケットを着ているからどう見ても外国人だ。聞くところによると、一般市民は外国人との接触を禁止されているらしい。
当時のWFPの職場環境は優れており、インターネットがあったり、職員はある程度自由に外出することができた。
2004年の視察は、本格的なものだった。
最初に向かったのは元山(ウオンサン)市という港町だ。
同行していた政府の役人が、ホテルではなく外で晩飯を食べようと提案してくれたので、二つ返事でお願いしたそうだ。
彼らは海辺の役人店に忍足さんを連れってってくれたそうだ。
WFPの海外スタッフは、その焼き肉店をジャパニーズレストランと呼んで、たまに利用しているようだった。なぜジャパニーズかというと、この店を開いたのが、日本からの帰還兵だったからだ。
店には日本のビールやウィスキーも置いてあり、忍足さんを驚かせた。そしてだされた焼き肉は予想以上よりもはるかに美味しかった。
ただ日本と異なる点が一点あり、肉と一緒に大量の松茸を焼くのだ。これが忍足さん以外の皆さんが贔屓にしており、忍足さんは多少面食らったもようだ。
忍足さんは、宴会ばかりしてたのではない。白頭山で観光していた時、北朝鮮の農民の様子を写真に撮ろうとしたら、同行の北朝鮮高官からこう言われたそうだ。
「振り返らず聞いてください。右側、遠目にこちらを見ている男は警察官です」といい、忍足さんのカメラを取り上げた。没収されると思ったが、彼が場所を変えて撮影したら、カメラを返してくれたとのことだ。
忍足さんは言う。仕事とはいえ、毎日一緒に車で旅をし、酒を酌み交わしていれば、自ずと距離は縮まり、緊張関係はほぐれるのだろう、と述懐している。
で、支援活動に戻るが、北朝鮮の様々な小学校を回ったが、本書の写真を見れば分かるように子供たちの体格は小さく痩せており、10歳なのに6歳くらいにしか見えない。
はなしかけると、ちゃんと答えを返してくる。病院の小児科等も視察したが、病室にヒーターが入っておらず、肌寒かった。また訪れた各地方都市には必ず孤児院があったが、驚くほどたくさんの子どもたちがそこに住んでいた。忍足さんはどういう事情で?といろいろと考えてしまったという。
妊婦や乳幼児を抱えた母親の視察も必ず行うので、一般家庭に入ってそこの主婦からいろいろ聞く「昨日は、朝、昼、夕何をたべましたか」とか「最後に、肉、卵を食べたのはいつですか」などかなり突っ込んで聞いた。
やはり、タンパク源が圧倒的に不足しているのは間違いない。地方ではガスもなく、石炭や薪で調理している様子がうかがえる。
忍足さんが、歯痒かったのが北朝鮮政府役人に「支援はポリティクス(政治)でしょ」と言われたことだ。だが、WFPとしても、モニタリングのできないところには支援しないという譲れない原則がある。「ノーアクセス・ノーフード(モニタリングがないと、支援も出来ない)」という考え方だ。
しかし、北朝鮮はこれを逆手にとって「ノーフード・ノーアクセス(支援がないと、モニタリング不可)」というわけだ。このように人道を盾に、物資を獲得しようという姿勢には、正直言って、うんざりする部分もあるという。
ただ、北朝鮮向け支援においてポジティブな部分を指摘すれば、かつては飢えている人々のために何十万トンという食料を支援していたのだが、現在では妊婦や乳幼児を抱えた母親に向けた栄養プログラムにシフトしていることだ。つまり規模は小さいが確実に良い方向へと進展しているのだ。支援の量はかなり減ったが、モニタリング環境は維持されている、。それはWFPが勝ち取った信用に因るものであると、忍足さんは自負している。
とここまで忍足さんの北朝鮮でのご活躍を中心に書いたのだが、彼の真価は戦時下の中での人道支援活動で発揮される。ボスニアヘルツェゴビナやスーダン等での彼の活躍を知りたい方は、ぜひ本著を手に取ってみて欲しい。