神武天皇から天武天皇以前の頃まで熊襲や蝦夷の反乱が起きれば、天皇自ら討伐を行い、将軍に任せて座っているだけということはなかった。
天慶の乱から平家が滅びるまで戦乱は12度に及んだ。神武以来14度に過ぎなかった戦乱が非常に増えた時代だった。
東国や仏門の謀反を鎮圧するため源氏平氏が派遣されるようになり
...続きを読む、何れかに不正があれば他方が討伐の命を受けたため、仇敵のような関係が生じた。
源頼朝は乱れた世を平定したが、猜疑心が強く親族を多く殺したため、その子孫は北条氏に滅ぼされた。
北条義時は帝を廃し、源氏一族を多数忙殺した我が国の歴史を通じ、第一の小人物である。
足利尊氏は後醍醐天皇、弟直義と争い天下は乱れた。尊氏が武家の棟梁となれたのは源氏の血筋の良さと建武新政という朝廷政権への世間の悪評があったためである。
信長は残虐な性格であり、一族を誅殺し、妹を政争に巻き込み、臣下に殺された。子孫が絶えたことは当然である。
秀吉が明智を討ったことが評価されているが、実際は信長の子信孝の功績が大きい。自分の功績と宣伝したことはみっともない。