先日、釜ヶ崎のドヤに滞在したとき、友人に紹介された本。毎日新聞論説委員が、大阪市西成区あいりん地区、通称釜ヶ崎について取材し、新聞連載した記事を基に書かれた本。釜ヶ崎には日雇い労働者が集まり、多くの路上生活者がいるが、それを支える人たちが様々な支援をしていることがわかった。普通に生活していた人たちが何らかの理由で貧困状態に陥り、釜ヶ崎に来ることになった人が多い。何より仕事が欲しいという人がほとんどで、思ったいたよりも真面目な人たちが多い。勉強になった。
「釜ヶ崎という地名は現在の地図には載っていない。大正時代に消えた地名だからだ。大阪市や国などの行政機関は、「あいりん地域」の呼称を使っている。1966年6月の大阪府警察の要請以降、役所の文書から「釜ヶ崎」の呼称は消え、新聞やテレビも通常、「あいりん」を使うようになった。「愛隣」という偽善のにおいを嫌ってか、お仕着せの官製地名を使う地元の人はほとんどいない」p7
「この街に日雇い労働の「寄せ場」が形成されたのは、日本の高度成長が始まった1950年代のことだ。1900年代初頭から低料金で泊まれる木賃宿が集中するようになったといわれる。それが戦後、焼け野原にバラックが建ち並び、都市スラムの様相を呈するようになった。そこに業者が集まって「寄せ場」が形成されていった。すると「寄せ場」が吸引装置となって、全国から仕事を求める人たちが集まる街になっていった」p16
「「きのうの夜は、死ぬほど寒くてひと晩中歩いてた」釜ヶ崎では1年間で300人近くが路上で亡くなってしまう」p26
「釜ヶ崎の現状を理解してもらおうと、路上生活経験のある元労働者らが街を案内する「おっちゃんガイド釜ヶ崎ツアー」の活動も続いている。1999年から毎月開催し続けている「定例まちづくり広場」は、2011年春には150回目を迎えた」p40
「派遣労働の「解禁」により非正規労働という働き方が社会全体に広がり、ありむらは、そんな状況を「日本列島総釜ヶ崎化」と呼ぶ」p41
「友人に会っても『どないしたんや、おまえ、臭うぞ』と言われるようになりました。どこから見てもホームレスですから。でも自分の臭いですから、自分にはわからないんです」p60
「小学校の先生がよく言っていたんですよ。「ちゃんと勉強せえへんと、釜ヶ崎にしか住まれへんようになるぞ」って」p61
「釜ヶ崎で暮らしてみると、怖いところだと思い込んでいた釜ヶ崎で出会う人たちは、思っていたよりずっと親切で温かかった。露天商をしている野宿者は、100円のコップ酒を分けてくれた。釜ヶ崎にある公園でボーッとしていると、「食べてないんとちゃうか」といってパンとコーヒー牛乳をおごってくれる労働者がいた」p64
「世間から怠け者と見られている野宿者が実は「働き者」であることも知った。夜が明ける前から、リアカーを引いて段ボールを回収したり、自転車でアルミ缶を集めて回ったりして、日々の最低限の糧にするのだ」p64
「3年あまり釜ヶ崎で暮らしてみて、ある意味、この街の人たちは、外の世界の人たちと比べて、よっぽど心がきれいなんじゃないか、と思ったことは何度もあります。どん底の生活をしているから、助け合ったり、人のつらさがわかったりする」p67
「釜ヶ崎は、身ひとつ、腕一本で生きていく場所やから、どんな素性で何をしていたのか、誰も聞かない。過去を問わない街には、ありとあらゆる人間が集まってきていました。九州の炭鉱労働者がいる。在日の人がいる。新左翼の活動家も大勢まぎれ込んでいた。あのころの釜ヶ崎には一種、しがらみから解き放たれた雰囲気がありました(1970年代)」p83
「釜ヶ崎の労働者は、たとえ日雇いであっても、仕事のなかで熟練の過程を経験する。たとえば建設現場で働くと、コンクリートを練ったり、型枠を組んだり、簡単な足場を組んだりする。経験を積むなかで身につけたそうした技術の蓄積は、どこの現場に行っても通用する。それに比べると派遣で働く若者たちの労働は、さらに細分化、単純化されていた。派遣先が変われば、それまでのノウハウはいっさい通用しない。だから派遣で長く働いても、いつまでも「代替可能な労働力」でしかない。そのことが、彼らから感じる「あきらめに似たひ弱さ」につながっているのではないか」p103
「(若者の意見)ネットカフェはいいけど、釜ヶ崎には行きたくない。若者の釜ヶ崎に対する抵抗感は強い」p106
「(本田哲郎神父)上智大学を卒業した本田は、フランシスコ会に入会。さらに上智大学神学部修士課程を修了し、1974年から4年半、ローマ教皇庁聖書研究所に派遣され、聖書学の研究に明け暮れた。世界中から聖書学のライセンスを取るために学生が集まってくる、カトリックで唯一の、そして最高峰の研究所だ」p175
「(浮浪者による紙芝居劇)老人ホームに行ったとき、紙芝居劇をやってると、見てくれてるお年寄りの人が泣いてはるん。あっ、泣いてくれる人がおるんや、よかったーと思うと、ぼくまで涙がボロボロ出てきて止まらんかった」p247
「旅館業法は、ホテル、旅館、下宿、そして簡易宿所の4つの業態を設けている。ドヤはこの簡易宿所に当たる」p264
「ドヤはホテルに比べて部屋は狭く、釜ヶ崎では平均が3畳だ。1泊の宿代は高いところでも二千数百円。安ければ600円くらいですむ。その代わり、もちろん風呂、トイレは共用のところがほとんどだ。ピークだった1960年代、釜ヶ崎にはこうしたドヤが200軒を超えていた。1軒の収容数は100人ほどだったというから、約2万人が寝泊まりしていた計算になる。日本最大の日雇い労働者の街・釜ヶ崎は日本最大の「ドヤ街」でもあるのだ」p264
「なめられたらしまいや、という気持ちはずっとあったな。相手が二度と手を出す気にならんくらい、ボコボコにせんとあかん。ケンカは結局、どれだけ場数を踏んだか、それと先手必勝やね」p271
「一般の社会の方が、平気で人を裏切る。ちゃんと接していれば、釜ヶ崎の人の方が裏切る人は少ないんや」p273
「入れ墨を見せながら、すごむヤクザには言い返した。「おまえ、遠山の金さんか?この街で入れ墨出して、どうこういうやつは大したことないんじゃ」。西口は、入れ墨やチンピラの脅しなど平気だった」p274
「やがてカマの労働者の間で評判が広まった。元気なにいちゃんがいて、面倒な客を叩き出してくれるドヤがある。誰だって静かに眠りたい。面倒な人と、関わりたくない。西口のドヤはしだいに繁盛するようになる」p275
「かつて日雇い労働は、非正規労働の代名詞だった。その労働形態は「寄せ場」のある釜ヶ崎や東京・三谷、横浜・寿町といった特別な地域だけに囲い込まれていた。しかし、その状況は、派遣労働の解禁によって一変する。非正規労働という不安定な働き方は急速に全国に拡大した」p342