余談だが、ニッコロ・マキァヴェッリの思惑とはおそらく異なり、不届きにも寝ころんで読書する習慣の自分にはいささか腕が疲れた・・・。(笑)
原題は『ティトゥス・リウィウスの初篇十章にもとづく論考』とのことで、リウィウスの著作『ローマ史』から読み取った古代ローマ史よりの事例に加え、マキァヴェッリの生きた現代イタリアの状況から得た事例をふんだんに教訓として盛り込んで、国家のあるべき姿やどのような時に国家は栄え、そして滅亡するかを論述する。
各章の論述はそれほど長くなく読みやすくなっており、スタイルとしては章頭で、「人間は、悪党になりきることも善良になりきることも、まずはできないものである」とか「同盟を結ぶのには、共和国と君主のいずれに信頼をおけるか」とか「いつも幸運に恵まれたければ時代とともに自分を変えなければならない」などと自ら課題を立てた上で、それに対してギリシャやローマ史、現代イタリア史における事例を根拠に論理を展開してマキァヴェッリなりの結論を下す、というものである。
当初は君主制と共和制の2本立てで、そのメリット/デメリットを含めた考察を行っていたはずではあったが、途中で『君主論』の執筆を行い完成させたこともあり、また、古代ローマの繁栄は共和制によりもたらされたとの考えから、かつての都市国家フィレンツェの政治形態と比較する上でも次第に共和制国家としての視点に力点を移しているようだ。
訳者解説によれば、本書は古代ローマなどを理想国家と位置づけた上で、その倫理観などをどうすれば人間行為へ適用できるかということを課題とした当時流行の人文主義の思想に基づいているというが、そのため理想を追求するあまり、歴史事例からの結論を急ぎ過ぎ、現実的ではない議論もたびたび繰り返されているという。確かに今日ではもはやビジネス書の類くらいでしかお目にかかれないような無批判のテキスト解釈や人物視点の称揚と反省としての教訓化に彩られており、あまりにもストレート過ぎる「歴史から学ぶ」姿勢にはかなり戸惑いも感じるのだが、マキァヴェッリは歴史は同じ人間であるからこそ繰り返されていくものであるとの考えに立ち、人間によって繰り返される歴史をどう現実に活かせるかというマキァヴェッリなりの冷徹な政治思想としてよく昇華されているともいえる。マキァヴェッリの冷徹な政治思想といえば、パワーポリティクスに重点を置いた有名なマキャヴェリズムが真っ先に思い浮かぶのであるが、国家や政治運営に対する厳しく冷酷無比なその考え方は本書にもよくあらわれていて、これから国家を興し世界征服を企む人にはもちろんお薦めの古典テキストには違いないのだが(笑)、そのようなわけで理想化された政治思想を追う一方で、現実のイタリアやフィレンツェの国際政治状況との狭間で、いささかの矛盾や迷いも感じられるともいう。
今回本書では、単なる歴史事象だけではなく、人間心理や宗教や社会の内面にまで踏み込み洞察することで「力の法則」の適用を訴えかけるものになっているが、その底流に流れる思想の原点は、本文中に繰り返されることになるヴィルトゥ(実力、手腕、武勇、美徳、才能、活力、繁栄)であり、その一方でのフォルトウナ(運、幸運)であるだろう。あるいはフォルトウナ(運)はヴィルトゥ(力)を持つ者だけに微笑むとも言い、結果が全てで手段を問わないとするマキャヴェリズム全開の論述には思わず笑みがこぼれてしまうが(笑)、さらに人間を突き動かすのはネチェシタ(必要)に迫られた時であるといい、人間の行動パターンを見極めた対策の数々の基本思考はなかなか興味深かった。
このような一貫した考えに基づく本書は、例えば、複数の敵対国家の効率的な潰し方や、敗戦国を合併することなく同盟国として使いぱしりにせよとか(我が国だ!)、軍隊は国民皆兵でどんな恥辱を受けても生き延びさせろとか、最も長い章である「謀略について」での謀略の方法論など、今日でも立派に通用する話も数多く(笑)、特に謀略の仕方などは今後の参考にしたいと思う。うそ!(笑)