労働法入門
労働法における各論の記述もさることながら、「なぜそうなっているのか」を歴史的な視点を交えて解説している。非常に満足度の高い入門書であった。本書を読めば、労働というものが歴史上非常に人間の深い部分と密接にかかわってきたことがよくわかる。そして、現代においても労働問題というものが後を絶たな
...続きを読むいのは、それが未だ答えのない哲学的な問いであるからなのだろうと考えるのである。
本書で学んだ労働法における最大原則は、強行法規についてであろう。労働法の世界では、当事者同士の契約の内容を外から規律する法律が多く存在し、当事者の自由な意思を制約する役割を果たしている。それは労働契約に内在する人間的性格・経済的格差・自由の欠如という3つの特徴に由来しており、人間そのものを対象とし、当事者間に経済的な力関係の差があることが多く、また契約を履行する上で人間の自由が奪われている労働契約を、当事者の自由な決定にゆだねてしまうと、労働者が人間としてではなく、モノとして扱われてきてしまう社会的な弊害が生じるからである。
労働法の発達は、20世紀初頭の社会権の発達に密接にかかわっている。19世紀はまさに自由の時代であった。各国で市民革命が起こり、個人の自由というものが歴史上もっとも叫ばれた時代である。しかしながら、自由と資本主義のかけ合わせはまさしく劇薬であった。資本主義の名のもとに、自由な契約が取り交わされることで、今ではあり得ない労働時間やイギリスの炭鉱における児童労働などが跋扈した。それを受け、人々はすべてを自由の名のもとに個人の自由な決定に委ねる危険性に気づき始めたことで、なんでもかんでも自由に契約することを一定レベルで外側から規制する形で考えられたのが、労働法なのである。この流れは、いつぞやの母校の入試問題で、ワイマール憲法の特徴を「社会主義の油を一滴たらす」とオットー・フォンギールケが評した意味を問われた時の回答と同じであり、個人的にも19世紀と20世紀の大まかな思想的な潮流の過渡期をとらえるうえで最も重要な時期であると考える。
さらに、本書では、現代の労働法が一定レベルの画一的な労働や工場のような集団的な場所での労働を前提としている部分があり、現在の多様で複雑な労働市場の変化に対応できていないことを指摘する。そして、それを克服するためにも、国家による統一的な規制に対して、より個別性を高めつつも、やはり個人には委ねない「集団」での労働規制の重要性について提唱している。ここでもやはり、トクヴィルの指摘するアソシエーションの重要性に焦点が当たっている。
最近、労働者をモノとして扱うということの功罪について、個人的には再考する余地があると思う。そもそも、モノであれば、もっと大切に使うのではないのか。工場でさえも、機械にはメンテナンスをし、耐用年数を上げるために使用時間を区切ったりしている。無論、労働者を機械論的にモノ扱いすることの倫理的問題はあるが、むしろモノとして割り切ることで切り開ける未来もあると思う。
昨今のMLBでは球数制限が当たり前になってきている。かつてのように1日に何球も投げさせることで、怪我につながることが球界として常識となってきた。そのため、選手自身が長くキャリアを続けることと、球団側のメリットが一致した形で外部からの規制がなされた。こうした流れは、労働法の図式と近似している。ゴールドマンサックスの1年目の提言も取り上げられているが、究極的には長期的にアウトプットを出し続けることに使用者側がケアすることという点でMLBと一致しているからには、同様の規制がないことの方がおかしいのである。一方で、もはや趣味と判別のつかなくなった労働もある。そうした人々から労働を取り上げる規制であってはならないが、そのような人々がどのようにエンゲージメントを高めているのかということはまたしても哲学的な袋小路にはまりそうな予感がする。今後もこの問題について深く考えていきたい。