若林滋作品一覧
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-明治八年五月十六日、旧会津、庄内両藩の屯田兵応募者五十七人とその家族、合わせて二百二十三人の琴似兵村入地第一陣を乗せた開拓使官用船通済丸が小樽に入港する。本書は、そこから始まる。八年前の戊辰戦争では会津藩進撃隊甲長に任ぜられて奮戦した、一八四四年生まれの三沢毅はこの時、三十二歳。老母と弟妹、妻と子の六人家族での北海道移住だった。その才覚が認められて薩摩出身が幹部を占める屯田兵本部では異例の昇進を遂げた。その三沢毅は明治二十四年、惜しくも四十七歳で病没するのだが、本書は三沢毅の生きざまを根幹に据え、幕府崩壊の顛末と戊辰戦争の勃発、あるいは薩長藩閥主導の明治政府、薩閥開拓使、開拓使官有物払い下げなどが詳細な資料をもとに語られている。その裏面を知る立場にあった三沢毅の薩長への怨念ともいえる思いが色濃く書かれているが、それは筆者が三沢毅に成り代わって行った、時の権力への痛烈な告発でもある。
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-豊臣秀吉の天正禁令に始まる日本のキリシタン迫害史は、そのまま殉教史でもあった。 徳川幕府に引き継がれたキリシタン政策は、三代将軍家光の時代に苛烈さを増し、取り締まりと処刑による殉教が本州各地で引き起こされていく。 その弾圧の刃に追われて北へと逃れ、信者たちは津軽海峡を越えて松前へと渡った。 砂金採取に湧き金掘り鉱夫に寛大な松前で、穏やかな信仰生活を得たかにみえた信者たちを待ち受けていたのは、1639(寛永16)年夏、強まる迫害の中で起きた松前藩による信者106人の斬首だった。 幕末から近代にかけての北海道を見つめてきた著者が徳川幕府初期に挑んだ、キリシタン殉教略史。
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-今、教育をめぐる多くの問題が浮上している。もっとも気になるのは、命の軽視の問題だ。文部科学省の学習指導要領や「生命を尊ぶ心を育てる指導」に任せておけば済むのだろうか。市民として、親として何ができるかを考えてみなければならないと思う。そこで北海道の教育歩みを振り返ってみるのも意味のあることと思う。屯田兵村や入植地の「開拓教育」は、北海道教育の源流ともいえる。開拓と子弟教育を両立させる工夫、父母や地域の子どもの教育に対する熱い思い。そこには貧しくとも肌の温もりがあった。学校では農業教育が重視された。北海道農業は後継者不在、国際化など様々な問題を抱えている。また、命を尊ぶ心の涵養や環境問題と農業のかかわりにも目を向ける必要がる。今、屯田学校・開拓教育を取り上げる理由である。
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-明治政府は道庁に囚人の強制労働を命じ、道庁は炭鉱や道路建設で囚人を酷使した。彼らは二人一組で鎖につながれ、重い鉄丸を引きずって仕事に追い立てられて大勢死んだ。遺体が路傍に埋められることも。クリスチャン典獄と白虎隊看守長の囚人保護の努力も空しかった。北海道開拓史上の拭いきれない一大汚点を集治監、監獄をめぐる挿話で明らかにする。