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-昭和36年、木曽川の上流から知多半島の突端まで、120キロの田畑を水が潤していった。構想から13年、総工費423億円の「愛知用水」。長年、干ばつに苦しめられてきた農民達の執念が、日本初の巨大プロジェクトを動かした。 大きな川のない知多半島。雨水を溜めた池が農民達の生活を支えていた。農家の5男に生まれた濱島辰雄。幼い頃、「池番」という見張り役を一日中続けた。池の水を引く順番は厳しく決められ、例え親戚 であっても一滴も渡せなかった。 昭和22年、大干ばつが襲った。その時、農家の久野庄太郎は、木曽川から水を引くことを思い立つ。それを新聞で知った濱島。久野の元に駆けつけ、運命の出会いを果 たす。 久野と共に、ルート作成のため半島全土を歩き、緻密な測量を行った。3ヶ月後、愛知用水の計画図が完成。半島1市25町村の代表が集まり、昭和23年「愛知用水期成会」が結成された。 濱島は高校教師を辞め、末端水路の整備にかけた。久野は親から受け継いだ田畑を全て売り払い活動費にあてた。 最初の課題は莫大な建設費。二人は首相、吉田茂に直談判。国の協力を取り付けた。 昭和32年、工事が始まった。最難関は水源となるダムの建設だった。基礎工事の最中に火山性の有毒ガスが噴出。土砂崩れや落盤など、死傷者が続出した。 「自分達が用水を望まねば、こんなことにはならなかった」 濱島と久野の2人は断腸の思いだった。犠牲者の冥福を祈り続けた。 昭和36年、壮絶な工事が終わりダムと水路が完成。9月30日、愛知用水への放水が始まった。知多半島突端の村では、住民総出で水を迎え、神棚に水を供えた。
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-昭和63年3月。日本初の屋根付き球場・東京ドームが誕生した。雨天中止がなくなったプロ野球、夢の球場に日本中が驚いた。可能にしたのは、テフロンで強化した布製の膜材を屋根に使う「膜構造建築」技術。その陰には、テント一筋に生きてきた技術者達の意地をかけた壮絶な物語があった。 昭和45年の大阪万博で、最も注目を集めた建物があった。世界初のエアドーム「アメリカ館」だった。柱を使わず、空気圧だけで膜屋根を支える。工期が短く、コストも安い。手がけたのは、戦後ミシン一台で出発したテント会社・太陽工業の技術者たちだった。しかし、万博終了後「アメリカ館」は、あえなく燃やされた。当時の建築基準法では、膜屋根は「仮設」扱い。恒久建築物には使えなかった。「所詮、俺たちはテント屋か。」技術者たちは辛酸をなめた。 それから10年。「テント屋」達に再びチャンスが巡ってきた。プロ野球の檜舞台・後楽園球場に代わる、屋根付き球場建設計画が持ち上がったのである。オイルショックによる不況、スター選手の引退。新球場は、低迷する興行成績の挽回策だった。 全体施工を担当する竹中工務店と、太陽工業とのプロジェクトが出来た。法律の壁を突破するため、実験棟を建て、台風の中、安全性を証明するデータを採った。建設省に日参し、やっと建築許可を得たものの、今度は近隣の日照権問題が発生。やむなく屋根を北側に傾斜させる前代未聞の設計となった。一枚一枚異なる布の強度。膜を支えるケーブルの微妙な張り具合。傾斜屋根は、さらに作業を複雑で困難なものにした。 そして迎えた「インフレート(空気圧で屋根を押し上げる最後の作業)」の日。一つ間違えばケーブルが大きく跳ね、膜を破ってしまう。メンバーは、厚さ0.8ミリの膜屋根の上に乗り、命がけで作業に当たった。 今や、全天候型スポーツ施設として、日本中に普及した膜構造建築。そのさきがけとなった東京ドーム誕生に賭けた人々の熱いドラマを描く。
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-昭和35年、奥飛騨山中で敢行された大木の移植工事に世界中の植物学者の注目が集まった。大木はエドヒガン。繊細で幹が傷ついただけで枯れてしまう老桜。その移植は世界でも例がなかった。「絶対不可能」と囁かれた世紀の工事をやり遂げたのはダムに沈む村を思う男たちの執念だった。 合掌造りで名高い白川郷の近隣、岐阜県荘川村に、かつてその桜はあった。樹齢400年、高さ20メートルの大木。春は村人総出の花見。子供たちは桜吹雪の中で 入学式を迎えた。しかし、42年前、衝撃的な知らせが飛び込んできた。ダムの建設が決定。村は水底に沈むことになったのである。村人たちは桜の木にすがって泣いた。しかし一人あきらめられない男がいた。 高碕達之助。ダムの開発責任者。かつて満州で事業を立ち上げた高碕は敗戦で従業員の故郷を喪失させたと14年にわたり苦しみ続けていた。高碕は桜を見上げる村人を見て思った。「桜を別の場所に移して故郷を残したい」しかし専門家は冷ややかだった。「桜切る馬鹿。梅切らぬ馬鹿」桜の老木は少しでも 根や枝を傷つけただけで枯れる。移植に耐えられるはずがない、というのである。 その時、意外な助っ人が現れた。豊橋の植木職人・丹羽政光(にわまさみつ)。丹羽は弟子の植木職人たちと前代未聞の「桜移植プロジェクト」を立ち上げる。ダムに水をため始めた昭和35年11月15日、世紀の移植工事が始まった。移植先は600メートル離れた国道沿い。運搬はダム工事で使われていた最新鋭のブルドーザー。植木職人、ダム従業員総出の作業が続いた。 日本人にとって特別な花「桜」の移植工事を成し遂げた人々の奇跡の物語を描く。
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5.0不況の中、猛烈な勢いで売り上げを伸ばしている商品がある。デジタルカメラ。通称デジカメ。フイルムも現像も必要なし。撮ったその場ですぐに見られ、インターネットで瞬時に遠く離れた場所に送ることができる夢のカメラである。 1995年、世界で初めてデジカメを大ヒットさせたのは、カシオ計算機の末高弘之率いる若き技術者たち。1987年、最初の製品を発売。しかし、動画の撮れるカメラが流行し始めたため、全く売れなかった。残された大量の在庫と赤字。プロジェクトは解散となり、末高たちも商品に直結しない基礎研究部門に異動となった。 当時はバブルの絶頂期。楽に一攫千金できる財テクがブームとなり、地道な物作りは時代遅れと言われた。理工系の学生が給料の高い金融機関に流れるメーカー離れ現象が発生。製造業は取り残された。 そんななか末高たちは会社トップに秘密のプロジェクトを結成し、ひたむきにデジタルカメラ開発を続ける。しかし、できた試作品は重さ3キロ、特大の弁当箱並み。商品化にはほど遠かった。 苦境を乗り越えるバネになったのは、戦後の日本を支えてきた物作りへの熱い思いだった。地道な開発努力はやがて小型化に結実。パソコン時代到来を見事に読み、大ヒットへとつなげていく。 バブルに翻弄されながら、物作りの夢をあきらめず、デジカメ開発を続けた若者たちの10年におよぶ執念のドラマを描く。
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-昭和28年。日本人の暮らしを大きく変える製品が現れた。 日本初の噴流式洗濯機「SW53」である。頑固な汚れを7分で落とす性能。狭い日本の住宅に適したコンパクトなボディ。価格は従来の外国製洗濯機の半分。家電製品としては初めて、年間6万台を売り上げる大ヒット商品となり、家電時代の扉を開けた。 挑んだのは、三洋電機社長の井植歳男。井植は、14歳から義理の兄・松下幸之助が始めた松下電器を手伝い、大きく成長させた辣腕営業マンだった。しかし、終戦後、GHQの公職追放令で、松下を辞めた。人柄を慕う20人の部下と、自転車の発電ランプを手がける小さな会社「三洋電機」を作った。 井植には、一つの思いがあった。「家電の時代が必ず来る。その第一歩が洗濯機だ。」 当時、女性にとって洗濯は最も過酷な家事だった。道具はたらいと洗濯板だけ。一日数時間かかる過酷な手作業。5人家族で1年間に洗う洗濯物の重さは、象一頭分になった。電気洗濯機は、庶民には高嶺の花だった。 井植は琵琶湖の畔の古びた工場を買い取った。そこは、業績不振で閉鎖された元・松下金属の工場。後片づけをしていた若い技術者がいた。山下友一、27歳だった。山下たち6人の社員は、井植から電気洗濯機の開発を命じられた。 大手メーカー各社も開発にしのぎを削る中、井植は言った。「ライバルは同業他社ではない。お客の心である。」メンバーは、高性能で安価、電力事情の悪い日本の家庭でも使える洗濯機の開発をめざす。新婚の山下は、洗濯で荒れた妻の手を見て奮起した。 しかし、やっと作り上げた洗濯機は売れなかった。世間は「女性の家事に機械はいらない」とあざ笑った。「男性中心」の社会の意識が壁になっていた。その時、「伝説の営業マン」井植が、あの手この手の営業作戦に打って出た。 「お客の心」にこだわり、日本の家電時代を切り開いた男達の熱きドラマを描く。
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-昭和46年。20世紀の食生活を劇的に変えた一つの食品が登場した。お湯を注いで3分、いつでもどこでも食べられる「魔法のラーメン」、カップめんである。高度経済成長のもと、寸暇を惜しんで働く日本人の胃袋を満たしただけでなく、世界中の飢餓や災害の現場に欠かせない貴重な食料となった。年間消費量は世界で82億食。メイドインジャパンの代表格である。 開発したのは、日清食品の若手技術者たち。当時、会社は「ラーメン戦争」と呼ばれる他社との熾烈な価格競争で業績が悪化していた。社長の思いがけない発想をもとに、自らの命運をかけたカップめん開発が始まる。 開発は困難を極めた。カップの形に合わせためんは、中まで火が通らない。一日20回にも及ぶ試食で、メンバーの体重は10キロも減った。ようやく作った試作品も、問屋から「食べ物ではない」と拒絶された。 逆境の中、食品加工技術の限界に挑んだ若者とアイデア社長の熱き闘いを描く。
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-警察の信頼を揺るがせた東芝府中三億円強奪事件。それから18年後、再び起きた三億円事件に、鑑識課指紋係の男達が立ち上がった。昭和43年12月10日、府中市で三億円強奪事件が発生。鑑識課に配属されたばかりの塚本宇兵は、うんざりしながら指紋採取にあたっていた。その頃は物証よりも、自供に頼る捜査が優先。現場に入るのは捜査一課が一番、指紋係はニの次だった。警視庁はのべ17万人を越える捜査員を投入。しかし犯人はつかまらなかった。そして昭和50年、時効を迎えた。昭和61年11月25日、有楽町で悪夢がよみがえった。3億3千万円が4人組の男に強奪された。その時、塚本は鑑識課のキャップになっていた。捜査一課の指揮官は塚本の3つ先輩の緒方保範。最初に配属された派出所で共に「腕利きの刑事になろう」と熱く語った仲だった。その後、緒方は捜査一課のエースに。塚本は夢敗れ鑑識課に。「どっちが早く犯人をあげるか」因縁の勝負が始まった。緒方は遺留品を徹底的にあらい犯人の足取りを追う。塚本は500万件を越える膨大な指紋との照合を進めていく。長引く捜査に世間からは非難にさらされた。そして妹の死。苦難の末、浮かび上がったのは意外な犯人像だった。日の当たらない鑑識という仕事に誇りをかけ、リベンジを果たした男達のドラマ。
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-大阪のシンボル、通天閣。戦時中に一度焼失したこの塔を、昭和31年に再建したのは、行政でも企業でもなく、古着屋、写真屋、ウナギ屋など、地元・新世界の商店主たちだった。 戦後、焼け野原だった大阪・新世界に、闇市が生まれた。集まったのは、裸一貫同然の男たち。意地としたたかさだけで、焼け跡を生き抜いていた。 復員して麻雀屋を始めた知里正雄。父の末吉から「焼失した通天閣を再建したい」と、夢を託された。明治45年に「東洋一のタワー」として建設された通 天閣の再建は、新世界の復興をかけた人々の願いだった。 末吉が作らせた原図をもとに、7人の商店主が立ち上がった。その挑戦は、素人ならではの大胆なもの。公園を勝手に用地に選び、口八丁で市の許可をとった。設計者には、日本一の大御所・内藤多仲を口説いた。「もし再建できたらうどんで首をつったる」とあざ笑う街の人々を説得し、資金を集めた。 焼け跡から立ち上がった庶民が、行政、専門家を巻き込み、後に大阪のシンボルとなる一本の塔を建てるまでの、意地と執念のドラマを描く。
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-昭和34年、信州の人口6000人の小さな村・八千穂村で、日本の医療を変えた画期的な試みが始まった。全住民を対象にした「集団検診」である。 高度成長に向かう日本の中で、農村医療は取り残されていた。過酷な暮らしで、脳卒中や結核が絶えなかった山間の村々。しかし、現金収入のない農民たちは「病気は恥だ」と我慢した。医者にかかるのは手遅れになってから。死亡診断書を書いてもらうためだった。 「農民たちを救いたい。」立ち上がった一人の医師がいた。佐久病院院長・若月俊一。信州の赤ひげと呼ばれた男だった。新米医師や看護婦、そして村人の代表も集まった。 「手遅れの患者を減らすには、病気を未然に防ぐことが必要だ。」若月たちが始めたのは、前代未聞の「全村集団検診」。農閑期の冬、医師たちは集落の公民館を回った。 しかし、幾多の困難が待ち受けていた。問診で衣食住を聞かれることに、村人は抵抗した。村議会でも不要論が出た。医師たちは、皆に足を運んでもらえるよう、手作りの芝居を上演した。検診会場で高血圧を減らすための味噌汁も作って見せた。 やがて集団検診がきっかけで、一人の糖尿病の男性の命が救われ、人々の見る目が変わった。昭和41年、ついに八千穂村の一人あたりの医療費は全国平均を大きく下回った。集団検診はその後全国に広まってゆく。 医師たちの熱い思いと、農民たちとの交流を通して、農村医療の基礎を作った姿を描く。
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5.010年に及ぶ内戦が続いたカンボジア。世界遺産アンコールワットは、無残に破壊、放置された。35人いた遺跡保存官はポルポト派によって虐殺され、生き残ったのはわずか3人だった。アジアの宝は崩壊を待つばかりだった。 「亡くなった友のために、そして民族の誇りを取り戻すために、アンコールワットを修復したい。」生き残った保存官の一人、ピッ・ケオさんは、助けを日本の友に求めた。その男は戦前、カンボジアの技術者と共に、アンコールで修復に汗を流した鹿児島大学の教授(現上智大)・石澤良昭だった。 「金だけの支援はしない。一から修復技術者を育て、彼らの手でアンコールワットを蘇らせる。」石澤は、アンコール遺跡国際調査団を組織し、「石の心を読む」といわれたベテラン石職人、小杉孝行の協力を得てカンボジアへ渡った。 集まった現地の若者は20人。しかし修復への道のりは、困難を極めた。「伝統的な石職人の技を全て伝えたい。」小杉は、日本と同様、厳しい修行を始めた。しかし、生活のためと割り切って働くカンボジアの若者達に、職人の心は伝わらなかった。重い石に負けない体力を付けさせようと米や肉を持たせても、家族に食べさせてしまう貧しさが立ちはだかった。「一人前の石職人になって欲しい。」時には、手が出るほどの厳しさに耐えられず、辞めていく者が相次いだ。「アンコールワットを作り上げた君たちの祖先の仕事はいかにすごいか。」団長の石澤は、歴史を知らない若者達に必死に説き、懸命に皆をまとめた。 7年に及ぶ修行期間が終わり、今年ようやく本格的な修復作業に入ったアンコールワットの西参道。日本人とカンボジア人が、激しくぶつかり合う中で心を通わせ、一人前の石職人が誕生するまでのドラマを描く。
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-昭和47年、日本への復帰に沸く沖縄で、人々を震撼させる出来事が起きた。東南アジアから恐るべき害虫が飛来したのである。 「ウリミバエ」。体長わずか8ミリのこの虫は、カボチャ、ピーマンなどの野菜に寄生し卵を産み付ける。野菜には瞬く間にウジが沸き、腐ってしまう。世界各地で猛威を震い恐れられていた、史上最悪の害虫「8ミリの悪魔」だった。 天敵のいない沖縄の島々で、ウリミバエは大繁殖。次第に北上した。もし、本土に上陸すれば、日本の野菜全体が壊滅的な被害を受ける。日本政府は「植物防疫法」により、沖縄県からの野菜の持ち出しを厳禁した。 「沖縄全域からウリミバエを根絶しよう」沖縄県農業試験場の研究者を中心に、プロ ジェ クトチームが結成された。リーダーは与儀喜雄。農家の息子の植物防疫官だった。農家の苦しみを目の当たりにしてきた男の、必死の根絶作戦が始まった。しかし、農薬を持ってしても根絶出来ない最強の害虫を前に、プロジェクトは行き詰まった。ウリミバエは沖縄本島を席巻し、九州上陸は時間の問題となった。 「沖縄でウリミバエをくい止めろ」政府は、ウリミバエ根絶のため、思いも寄らぬ 方法を沖縄県に提案した。それは、放射線「コバルト60」をハエに照射して、生殖細胞を破壊。繁殖力を失ったハエを増殖させることで、何十年もかけて撲滅するという、気の遠くなるような作戦だった。 全てが手探りの中、沖縄の男たちと虫との壮絶な戦いが始まった。作戦が始まって 一年、二年と過ぎる中、ハエが減り始めた。 「これで、ついに撲滅出来る」プロジェクトが、そう確信した時、その行く手に、とんでもない壁が立ちはだかった。それは、沖縄在留アメリカ軍基地。「内なる国境」だった。 21年に渡る闘いの末、ウリミバエの根絶に成功。日本の食糧を守り抜いた沖縄の男たちのドラマを描く。
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5.0昭和34年、東京オリンピックの開催決定に日本中が沸いていた。しかし、大きな問題が起きていた。選手村の食事作りである。世界90カ国以上の国々から集まる選手たち。その数、実に7000人。世界中の料理、2千種類、延べ60万食という、空前の規模の食事を作らなくてはならなかった。しかし、当時、日本の料理界の力は世界に未知数。世界各国から不安の声が挙がった。 料理作りに挑んだのが、帝国ホテルの料理人、村上信夫をリーダーとする一流ホテルのシェフたちだった。戦前から厳しい料理修行を積み、パリにも留学、最高のフランス料理を極めようとしていた村上。このプロジェクトに、料理人の誇りをかけて挑むことになった。 村上らは、世界各国の料理メニューを作るべく奮闘する。問題は、知識の全くない、アジア・アフリカ・中南米などの料理。村上は、在日大使館に赴き、大使の妻などに、料理法を学び続けた。更に大きな問題が立ちはだかった。膨大な量となる食材の確保である。唯一の対策方法は冷凍食材を使うこと。しかし、当時の料理界の常識は「冷凍食材は味が落ちる」。村上たちは、冷凍食材をものにしようと、懸命な努力を続ける。 そしてオリンピックの開幕。膨大な食事を作るため、村上の元に、300人の若手料理人が全国から集められる。街の大衆食堂からやってきた者もいた。北海道からは23人の若者が集まった。札幌、釧路、稚内などからやってきた彼らは、「ふるさとの代表として恥ずかしくない仕事をしよう」と誓い合う。 しかし、その時、各国選手団が連れてきた自国のエリートシェフたちが厨房に登場。更に、オリンピック開催中、料理人たちの身に、事件が襲いかかる。果たして、日本人料理人の食事を世界の選手は満足してくれるのか。東京オリンピックを支えた料理人たちの、知られざる料理作りを描く。
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-北海道夕張市。農協の耐火金庫に、大切に保管されているものがある。メロンの種である。品種名「夕張キング」。美しいネット、甘く香り高い、赤い果肉。夕張のメロンは、今や高級ブランドの代名詞である。その誕生の裏には、地域の生き残りをかけた農家の壮絶な格闘があった。 昭和25年、夕張は燃えていた。朝鮮戦争の特需をうけ、第2次石炭ブームに沸いていた。人口10万人、町には人があふれ、豊かな町の中心部は、夜でも明かりが消えることはなかった。一方、中心街から10キロ離れた沼ノ沢地区。農家は貧しさの極致にあった。周囲を夕張山系に囲まれた盆地で、寒暖の差が激しい。さらにやせた火山灰の土。穫れる作物は、長いも、アスパラとわずかな夏野菜だけだった。 このままでは夕張の農家は全滅する。その時、農業改良普及員の杉目直行が言った。「メロンはどうか」。夕張でわずかに生産されていたスパイシー・カンタローブ。香りがよく、赤肉が特徴のメロンだった。しかし甘みがなく、砂糖をかけて食べなければならない代物だった。「これを改良して、新たな品種を作れないか」昭和35年、17戸の農家が立ち上がった。 農家の豊田祐一たちは、交配するための種子を求め、全国を飛び回った。他のメロン産地の農家に土下座して、やっと手に入れた別品種と交配。しかし、栽培は困難を極めた。季節はずれの大雪に、突風。ビニルハウスを壊した。温度管理を間違うと、たちまち枯れた。農家はハウスに寝泊まりし、苗を見守り続けた。 昭和45年、やっと育て上げたメロンを東京市場に出荷。しかし重大な問題があった。赤肉のメロンに、市場関係者は言い放った。「こんなカボチャメロンは売れない」。さらにメロンは、日持ちしなかった。東京に着いたコンテナから出されたメロンは、腐っていた。トラック、鉄道、空輸。あの手この手の輸送作戦を試みた。そして昭和54年、産地直送システムを確立。夕張のメロンは全国の家庭で味わえるようになった。 徹底した品質管理と「産地直送」の先駆けとなった農業技術。地域の存亡をかけてメロン作りに執念を燃やした農民たちのプロジェクトを描く。
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4.0安全神話が崩壊しつつある日本で、なくてはならない警備産業。市場規模は年間2兆4千億円。約1万社が参入し、40万人の雇用を生んでいる。初めて警備会社が産声を上げたのは、今から40年前。「水と安全はタダ」といわれる中で新たな市場を築くには、若者達の知られざる格闘があった。 昭和36年。酒屋の倉庫で在庫整理に追われる若者がいた。飯田亮、28歳。東京・日本橋の酒屋の五男坊。大学卒業後、老舗を手伝っていたが、仕事は全て兄たちに指図された。大学時代の親友の戸田寿一と酒をくすねては我が身を憂いていた。当時、商店や企業を狙った窃盗が横行。「プロの警備員を養成すればビジネスになる」飯田は、戸田と2人で日本初の警備会社「日本警備保障(現セコム)」を立ち上げる。 しかし、拳銃も逮捕権も無い。許されたのは警棒だけ。「お前達に何が出来る」仕事は取れなかった。転機が訪れたのは、昭和39年の東京オリンピック。選手村の建設現場の警備を依頼された。会社がモデルとなった「ザ・ガードマン」というドラマが大人気。仕事の依頼が殺到し、会社は急成長した。その時、とんでもない事件が起きた。なんとガードマンがデパートを巡回中、600万円の宝石を盗んだ。 会社の信用は地に落ちた。飯田と戸田はガードマンの行動マニュアルを作り、徹底的に研修を実施。更に警備の信頼度を上げようと、社運をかけ日本初の機械警備システムを作り上げた。契約先のドアや窓に取りつけたセンサーが異常を感知すると、管制センターに通報。ガードマンが急行する仕組みだった。しかし、誤報が相次ぎ、ほとんど普及しなかった。 昭和43年10月、衝撃的なニュースが伝わった。東京のホテルで、他社のガードマンがピストルで射殺された。更に、京都でも警備中のガードマンが殺された。そして翌年4月深夜、機械警備システムを導入していた新宿の専門学校からの警報が発せられた。駆けつけたのは新人ガードマンの中谷利美。そこに、あの連続殺人犯がいた・・・ 新しいビジネスを切り開き、命がけで犯罪に立ち向かった男達の熱きドラマ。
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-昭和41年、大阪は万博開催を4年後に控え、道路が拡張。事故の発生率が全国一となり「交通戦争」と呼ばれた。しかし、重症患者を治療できる病院は少なく「たらい回し」が社会問題となった。 大阪府は大阪大学付属病院に24時間重症患者を受け入れる施設の設置を要請。昭和42年8月、日本初の「特殊救急部」が誕生した。リーダーは、34歳の杉本侃(つよし)。メンバーは皆20代から30代若者だった。 第一号の患者は、入れ墨の男。抗争事件で腹を刺されていた。「人殺しを助けるのか」と学内から揶揄(やゆ)された。患者の多くは「指を切った」「目にゴミが入った」など軽傷者。メンバーの気持ちはなえていく。 ある日、交通事故で全身傷だらけになった「多発外傷」の患者が訪れる。メンバーは頭や内臓など懸命に処置。しかし、全く傷のない肺の機能が低下し、患者は亡くなった。理由が分からなかった。以来「多発外傷」との闘いが始まる。 血の海、緊迫した声が飛び交う医療の最前線。修羅場の中で、若き医師達は次第に自分の専門分野を磨いていく。そして、再び「多発外傷」の患者が運び込まれて来た。杉本以下、メンバーは総力を挙げ、消えゆく患者の命と向きあった。そして運命の一瞬。 日本初の救急医療に挑んだ若き医師達の壮絶な闘いのドラマ。
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-今や日本のトイレのほぼ2軒に1軒の割合で設置されている「温水洗浄便座」。心地よいお湯でお尻を洗い温風で乾かす。古来「ご不浄」と呼ばれ、不潔の代名詞だったトイレのイメージを、「快適」で「清潔」な空間へと変えた革命的な製品である。清潔志向の高まりから、不況の中でも売り上げを伸ばすヒット商品でもある。その開発の影には、ひたむきにトイレと向き合い続けた技術者たちの姿があった。 昭和36年、北九州の街に降り立った男がいた。本村久。早稲田大学理工学部を卒業、就職したのは東洋陶器(現TOTO)。戦前から続く国内最大手のトイレメーカーだった。 折からの建築ブームの波に乗る住宅産業界。しかし、当時、まだ下水道整備が行き届いていない日本のトイレは「不浄なもの」の代名詞。水洗トイレの金具を設計する部署に配属された本村も、その技術を甘く見ていた。 しかしある日、本村は上司から一喝される。「トイレは人々の暮らしを豊かにする商品だ。ひとつひとつの商品に魂を打ち込め」。金具の鬼と言われた杉原との出会いによって、本村は技術者の誇りに目覚める。 その矢先だった。二度のオイルショックの波が会社に襲いかかる。「新しい柱となる商品を開発せよ」。本村たち若手技術者に社運を賭けた指令が下る。任されたのは、痔の患者などの医療用に細々と売られていた「洗浄便座」。これを一般向けに全て設計し直し、新しい需要を掘り起こす。 その開発は困難を極めた。人にとって心地よいお湯の温度は何度か。汚れを完全に落とすには水は何リットル必要なのか。男達は自ら実験台となり試作を繰り返す。さらに、微妙な温度を制御するには最新式の電子回路技術が必要だった。しかし、感電の可能性のある電子回路の使用は危険な賭けだった。 そして運命の発売日。「トイレ」「おしり」の文字は当時のメディアでは「タブー」。宣伝もままならないなか、営業マンたちは全国を走り回った。さらに、追い打ちをかけるように殺到したクレームの嵐。プロジェクトは夜を徹して商品の改良に当たる。そして温水洗浄便座「ウォシュレット」が完成。男達は一人の天才コピーライターとともに誇りをかけた、一か八かの大勝負に打って出た。 数々の困難を克服し、「不潔なトイレ」のイメージを覆した「トイレ革命」を成し遂げた男たちの逆転のドラマを描く。
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-日本語。48字のひらがなと5万もの漢字がおりなす世界に冠たる美しい言葉。しかし戦後、日本語はその複雑さゆえ、経済復興の足かせとなった。 昭和40年代、高度成長期の日本は企業間の取引が増大。サラリーマン達は契約書の作成に追われていた。欧米の企業は26文字のアルファベットを駆使、誰もがタイプライターで契約書を作った。一方、日本では数少ない和文タイピストに依頼するしかなかった。誤字があれば、また打ち直し。公の文書を作るコストは、欧米の3倍と言われた。「誰もが使える日本語ワードプロセッサー、ワープロを作ろう」立ち上がったのは、東芝の若き技術者と、どん底にあえいだ工場の男達。ひらがなを漢字に変換する、不可能と言われた技術に挑んだ。しかし、日本語の壁が立ちはだかった。 同音異義語、同じ発音の言葉を機械は区別できない。「貴社の記者は汽車で帰社する」どうやったら正しく変換できるのか。また、変換するのに20秒以上かかる言葉もあった。そして突然、商品化を決定する事業部長から開発中止命令が下った。 絶体絶命に陥ったプロジェクトは、一度限りのワープロの性能テストに全てをかけた。リーダーの森は、機械の操作を一人の女性に託した。タイピストではなく、総務の事務員。「素人でも使えなければ意味が無い」大ばくちに出た。 累計3千万台を売り上げ、国民的商品となったワープロの執念の開発物語を描く。
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3.5開港後、急速に発展し西洋の雰囲気を醸し出す横浜居留地で、深川芭介は西洋骨董店「時韻堂」を営み、怪しいと思いつつ港で働くカンカン虫の貫太郎が持ち込む出所不明の品々を鑑定してあげていた。が、ある日、貫太郎が死んだ。その死に不審を抱く芭介は!? 行方不明の少女の怨念が事件解決へ導く!! 開港一五〇周年の横浜、その開港前後を舞台に、地元で生まれ育った著者が思いをこめて描いた意欲作!
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3.3かわいらしい顔立ちの天羽陸は宝徳学園大学の学生。ルティア大国大使館でアルバイトをしている。ボスにあたるリヴィエール大使とは最悪の出会いだった。山のような荷物を抱えた陸が、長身の大使とぶつかって弾き飛ばされ、大使とは知らずに文句を言ったのだ。しかし、やがて二人は強烈に惹かれ合い、キスをしてしまうが……。陸の幼馴染みの周防省吾が嫉妬の炎を燃やし……。めくるめくパッショネイトラブ!!
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4.0
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-断り美人? 美人は誘いが多いから断ってばっかりってこと? いいえ、断り美人っていうのは上手に断ることが出来る人のこと。「私って頼まれると嫌と言えないのよねぇ~」と、お嘆きのそこのキミ! 今まで断ることが出来なくて嫌な思いをしたことがあるでしょ?上手に断ることが出来れば人生バラ色、ピンク色。キミもきょうから断り美人を目指しちゃいましょ♪頼まれ事ばかりして損をしている全国6000万人の『断れない症候群』の女性に贈る、あるようでなかった「断る」テクニック本!!
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-独身のキミにあなたに、そこの彼女!「恋愛と結婚は違うの?」「結婚したら毎日Hするの?」「ラブラブはいつまで続くの?」なんて、すっごく知りたいけどカレには聞けない疑問ってあるでしょう?まぁ、思い切って聞いてみたところで、結婚前のカレにはぴんとこなないはず。だ・か・ら!独身オトコの心も、結婚後の気持ちも、男の秘密がわかるcozっち(こずっちと読みます)が赤裸々に、包み隠さず本音トークしちゃいます。あっ、言っておくけど、この話、彼氏や旦那さまには内緒だよ。「ズバリ!読者相談」も参考にしてね。
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-これを実践した筆者 さいとういんこは、ミゴト44歳で12歳年下のダーリンをゲットし、45歳で女の子を出産!!さいとう曰く、「願う」だけじゃなく、「願って的確に行動する」のが、運を上げるコツ!「吉方位」に行けば、恋愛運はもちろん、金運も、仕事運も、勉強運もUP!人生大逆転も夢じゃないんです!!さぁ、あなたはもうフシアワセではいられません!!
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-月間1億PVを超える大人気のケータイ小説サイト「おりおん☆」から生まれたノンフィクション小説。誰もが羨む生活、満たされない心。そんなある日、一人の少女に出会う。一人の身体に複数の人格をもつ彼女との出会いで、主人公の人生が大きく狂いだす。面倒だけど放っておけない、離れられない。自ら壮絶な運命を選んだ少年から目が離せない!
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4.2ファンレターとラブレターは、勢いで出すに限るのだ。――短大に通う十九歳の入江駒子は『ななつのこ』という本を衝動買いし、読了後すぐに作者へファンレターを書こうと思い立つ。先ごろ身辺を騒がせた〈スイカジュース事件〉をまじえて長い手紙を綴ったところ、思いがけなく「お手紙、楽しく拝読致しました」との返事が。さらには、件(くだん)の事件に対する、想像という名の“解決編”が添えられていた! 駒子が語る折節の出来事に打てば響くような絵解きを披露する作家佐伯綾乃、二人の文通めいたやりとりは次第に回を重ねて……。伸びやかな筆致で描かれた、第三回鮎川哲也賞受賞作。
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4.8新宿界隈を取り仕切るヤクザの若頭・桔梗。鋭い双眸に大人の色香を漂わせ、己の美貌と大輪の花に添えた花言葉で落とした女は数知れず。そんな節操なしに、ある誤解から無理やり身体を奪われてしまった花屋のバイト・桃原大輔。桔梗のズレまくった常識に面食らうも、持ち前の正義感から大輔は彼の更生を試みるが…。百戦錬磨のヤクザ相手に教職志望の大学生が挑む、教育的ラブ指導。
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3.9銀縁眼鏡に鋭利な美貌、趣味は怪談。そんな入社五年目の佐藤清司は、人当たりがよく完璧に仕事もこなす新人・坂木康太が大嫌い。坂木の唯一の弱点が”おばけ”だと知った清司は、無理やり怪談を話しまくり、前後不覚になるほど怯える彼の様子に、感じたことのない胸の高鳴りを覚える。だが、怖さのあまりパニックに陥った坂木にキスで口を塞がれて…。
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