あらすじ
ウォルト・ディズニーが創造したエンタテインメントは、米国大衆文化の代名詞であり、世界中を席巻している。姫と動物たちが織りなす夢と魔法の世界はいまなお拡大を続けるいっぽう、巨大資本を投入した反自然的な世界、徹底的に飼いならされた無菌化された世界でもある。ディズニーの物語は、現代の政治、社会、文化、自然に何をもたらしたか。その映像は私たちにどのような影響を及ぼしてきたか。その世界の舞台裏を探る。
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Posted by ブクログ
ウォルトディズニーと聞いて、思い浮かぶのはミッキーマウスだが、オズワルドや、ダンボ、バンビなどのディズニー作品を、実際に観た生徒は少ない。
そんな著者の経験から、ウォルトディズニーがなぜアニメーションを通じて表現をしようとしたのかを、時代背景とともに考察し、ディズニー以後の世界がどう変わっていったかを書いた本である。
ディズニーの作品を単純にエンターテイメントとして消費していた私にとって、戦争と結びつくディズニーは想像できなかった。
また、ディズニーが動物を忠実に描くことで生じる「不自然な矛盾」、
すなわち、音楽と動物の動きを連動させることで、音楽以外の「ノイズ」を消し去ったり、グロテスクな描写を含めた野生的な森を描くのではなく、見栄えが良くなるために「形を整える」ことで、フレームの中へ閉じ込めたことを始めたのも、ディズニーからであることは知らなかった。
今では、ミッキーマウスはディズニーであることのトレードマークであり、映画作品においては、いわゆる1つの「信頼の証」のようになっている。
わかりやすいテーマ性、勧善懲悪の物語。そして、切り取られた自然。
素直に楽しむことは良いことであるが、この本の最後でも書かれているとおり、
『人間と動物という関係性の中で、安易な解釈をしないで、物語を通じて「問い直す」ことが、逆に人間とは何かを問い直すきっかけとなる』という言葉は、ディズニー映画に足を運ぶ際には、頭の片隅においておくべきであると感じた。
ドッグイヤーだらけになる程、読み応えのある一冊でした。
しかしながら、20世紀の哲学史に関して、ある程度知識があった方が、もっと楽しめるのではないかとも感じましたので、勉強し直してきます。
Posted by ブクログ
p.27 「絵をうごす」ではなく「動きを描き出す」こと。動いていたはずのものが途端にただの絵となって静止すること、あるいは消去されてしまうこと。時空を超えて動くものとそれによるナラトロジー。これこそ、過去を呼び起こし、生命のないものに生命を与える魔法として、アニメーションの多くの観客を惹きつけてきた魅力だと考えられてきた。
p.108 イタリアの思想家ジョルジョ・アガンペンは、人間が自ら他の動物と区別して認識するメカニズムを「人間学機械」といった。
p.226 EPCOTの構想にはディズニーランドを手がけたウォルトならではの独創的な特徴がある。ディズニーランドでは、テーマパークの世界観に関係ない裏側の仕掛けはゲストの目に触れないようにバックヤードに覆い隠す配慮がなされれいる。環境を完全にコントロールすることで、テーマパークとして一つの世界観を貫くためだ。ここでいうコントロールは、中心部の気候の制御であり、そして、また人々の出入りの制限だった。
p.274 こうしてプリンセスは目覚ましい変貌を遂げていく。そしてプリンセスが変われば、王子も代わり、自然も変わる。プリンセスの変化は、「女らしさ」の更新のみならず、こじれた「男らしさ」を浮き彫りにし、西欧の男性中心的、人間中心的な物語世界そのもの地殻変動を引き起こした。その変化の背後には、新自由主義/ポストフォーディズム社会に適応する柔軟な主体の要請と労働の女性化がある。
p.280 アリエルにとって「人間になる」ということは、互いに異なる「文明」と「野蛮」のシステムを受け入れ、かつて人魚であった記憶を人間の女として身体をとどめながら、身体を変容させ、脱自然化をしていくことだった。