【感想・ネタバレ】本の読み方 スロー・リーディングの実践(PHP文庫)のレビュー

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Posted by ブクログ

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これまでレビューを書いたことはありませんでしたが、「人に説明することを前提に読む」(93頁以下)ことを意識し、1冊読み通した今感じたことを卑見ながら公にしたいと思いました。

法学部の教授で、問題演習などは一度もせず、基本書一冊だけで司法試験に合格をしたという天才の話を聞いたことがあります。単に「問題集を何冊をやるな」というような話ではなく、一文一文に疑問を持ち、それを解消するためにほかの本にあたるということを繰り返し、そうした読み方をしたために1冊読み切るのに何年もかかり、それだけで終わってしまった、という事情です。

そのような天才には到底なれないことは承知の上で、ここで重要なのは、「どうしてその言葉を選択したのか」「突然この発言をさせたのはなぜだろうか」という違和感をキャッチできるような余裕を持つことだと思います。少なくとも名著として残り続けている文章を残した著者は、言葉の選択、文章のつながり、全体の構造に推敲に推敲を重ねたものだと推測されます。それを読む私は、言葉一つ読み飛ばしてよいはずがありません。人並みに文字を読んできた自負はありましたが、「実践編」で平野氏の感じた違和感には気づけませんでした。

「より「先に」ではなく、より「奥に」」(82頁)は理想的な読み手の姿勢を端的に表した言葉だと感じました。いま隣にある本棚には多くの書籍が並んでいますが、読んだ実績を並べたものではなく、背後の広がりを持った奥行きのある世界となるかは私次第であると確信しました。

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2023年08月23日

Posted by ブクログ

ネタバレ

自分は本を読むスピードが遅い方なのでこの本を読んで、今までは読むスピードを早くして色々な本を読みたいと思っていたが、それよりも本の理解度や深く考える時間に費やしたほうが、より読書を楽しめて為になると思えた。

再読について書かれていたが、これは小説に限った話じゃなくて漫画、ドラマ、映画、アニメにも当てはまることだと思ったので、基本的に1回しか見ないので試してみたいと思う。
この本も再読しようと思う。

「自分だったらどうするだろう」と考えるのは元々、自然とやっていたので良い事だと知って嬉しかった。

「辞書癖」をつける、と書かれているがこれは前から実践してはいるが難しい言葉や読めない漢字が続くと調べることに一生懸命になり、話の内容が入ってこないということがあるので、今後の課題。

後半の実践編は全部を理解するのは難しかったが、できる事から実践しようと思う。

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2023年09月03日

Posted by ブクログ

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スローリーディングを訴える、今の時代にこそ必要な良書。自分自身、早く読まないとと焦って読んでしまったことが何度もあった。それは、速読とか多読といった情報をいかに早く要点だけに絞って取り入れるかという観点のもの。一方で、スローリーディング、とりわけなぜ作者はこの一文を入れたんだろうか、なぜこんな表現なんだろうか、と立ち止まって自分なりの考えと照らし合わせてみたり、思考をさらに深めてみたりしてみてはどうだろうか?というススメである。長い時間をかけてじっくりと読んでいく、量ではなく質こそ大事、その人となりを大きく、豊かにしてくれる。そんな読書をしたいものだと思うから、じっくり腰を据えて本と向き合う。特に内容を、センテンスを選び、色々仕掛けている小説においては。
自分自身、忙しい日々だから、この行為がいかに贅沢で、幸せなんだろうかと思いながら読んでいるのだけれど、改めて平野氏の速読へのアンチテーゼはグッとくるものがあった。読書を無駄にしない、時間の浪費にしない、これは逆をいうと早く読めば読むほど、無駄だと感じてより速読しなければならなくなるのかもしれない。どんなフレーズが、どんな風に感じたが、それは何を意味するのか、筆者の意図を考えながら読み進めていくことが作者との対話そのものなんだという考え方であり、本を先に進めるのではなく奥に進んでいくことで、人生を豊かにしてくれるはずだと説く。
カフカの橋、川端康成、三島由紀夫の作品を通して、スローリーディングを実践していく。5W1Hに気をつけながら、なぜ筆者がこの話を出してきているのかを考えると、橋が示すのは官僚だったりする訳だけど、そして高瀬舟が高い関心を今でも集めるテーマを含むのは、殺人と自殺の正しさか、悪かという問いだからである。これをすっ飛ばして読んで、理解できるのか、それがどういう構成で導かれているか、じっくり読まずして、その奥深さがわかるわけがないではないか、という筆者からのメッセージである。

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2023年02月05日

Posted by ブクログ

ネタバレ

⚫︎受け取ったメッセージ
※引用
「一冊の本を価値あるものにするかどうかは、
 読み方次第」

「読者が本を選ぶように、本も読者を選ぶ」



⚫︎あらすじ(本概要より転載)

"本はどう読んだらいいのか? 速読は本当に効果があるのか?
闇雲に活字を追うだけの貧しい読書から、深く感じる豊かな読書へ。
『マチネの終わりに』の平野啓一郎が、自身も実践している、
「速読コンプレックス」から解放される、差がつく読書術を大公開。

「スロー・リーディング」でも、必要な本は十分に読めるし、
少なくとも、生きていく上で使える本が増えることは確かであり、
それは思考や会話に着実に反映される。
決して、私に特別な能力ではない。
ただ、本書で書いたようなことに気をつけながら、
ゆっくり読めば、誰でも自ずとそうなるのである。(中略)
読書は何よりも楽しみであり、慌てることはないのである。



⚫︎感想
夏目漱石のこころ、森鴎外の高瀬舟、三島由紀夫の金閣寺カフカの橋、金原ひとみの蛇にピアスなど、一部分を取り上げて、小説家がどのような工夫やテクニックを凝らして書いているか、いかに気付きながら読むことができるか、実践を交えて丁寧に解説してくれる。

・作中で登場人物が疑問を発した時、
 その答えは特に重要

・成功している比喩は重奏的

・作中の唐突に起きる違和感は注意喚起=主題に関わる
・「不自然さ」は場面転換の印

・「お茶を飲む」という何気ない動作→緊張しているから→この先重要な言葉が語られるかも

・ポリフォニー小説…登場人物がそれぞれに完全に独立した思想を持ち、彼らが対話を通じて対決するタイプの小説

・書き出しの一文に意味がある

・形容詞、形容動詞、副詞に着目する

・間を取るための風景描写や心理描写の挿入。
一般的に、こうした間の後には重要な発言が控えている。



など、たくさんの書く側の配慮を知ることができた。このようなタイプの本は初めて読んだので、このように書く側からのテクニックを知って、もっと深く小説を味わいたいと思った。

(以下引用)
小説というのは、マジックミラーのようなものである。しっかりと目を凝らせば、向こう側に作者が見えるかもしれない。しかし同時に、そこに映し出された自分自身を見てしまうのかもしれない。

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2023年11月25日

Posted by ブクログ

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 読者は、ここまでずっと、この謎のような「先生」に対して疑問を抱き続けている。教師でもなければ、医者でもない。なんで、「先生」なのだろう?
 そうした読者の疑問は、作者も予感してたはずだ。そしてここでは、兄を通じて、その読者の声を作品内に引き込み、それに応じようとしているのである。
 小説を読む場合は、このように、登場人物が「疑問文」で問いを発する場面に出くわした時には要注意だ。作者には、自作に対する読者の疑問や反論に答えたいという欲求があるから、どこかでその場所を設けたいと考えている。会話の中の質疑応答は、その格好の場所であり、小説以外のたとえば、「対話篇」と言うようなジャンルは、ひたすらその質疑応答だけで作品が成立している。

 庄兵衛は、高瀬舟で護送している喜助が、罪人であるにもかかわらず、いかにも晴れやかな、「遊山船にでも乗ったような」顔をしていることをずっと不思議に感じている。大抵の罪人は、高瀬舟では「目も当てられぬ気の毒な様子」をしているものである。そこで、庄兵衛はその理由を尋ねてみる。ここから、この一切の状況変化のない小説は、動き始める。『こころ』でも見たように、庄兵衛の問いは読者の疑問を代弁するものである。つまり、この返答が、作品にとって非常に重要なものであることが予測される。

 弟の死が確認されたあとは、喜助の放心の態が描写されている。この場面では、具体的に何をどう感じたか、ということが書かれてはいない。スロー・リーダーは、こうした場面に十分に時間をかけるべきである。これは、作者によって設けられた感情の踊り場である。この空白は、読者自身で埋めなければならない。とりわけ、「近所の婆あさん」に発見され、その後、人が集まってくるまで、「目を半分あいたまま死んでいる弟の顔を見詰めていた」という情景は、象徴的だろう。ここに至って、喜助の愛情を置き去りにしたまま、状況の変化は弟の死によって完結するのである。
 小説にはこうした余白部分が、いろんな形で設けられている。そこは読者によって自由に埋められるべき場所である。『高瀬舟』の場合、周到すぎるほどの周到さで、厳格な通路を定め、読者を導いてゆく。しかし、その果てには、読者が十分に羽を伸ばし、さまざまさ思案や心情を巡らせる場面が、ゆったりと取ってあるのである。
 そういう意味では、小説の空間造形は、建築に喩えられるだろう。鴎外の厳格な言葉の建築は、読者を、エントランスから迷わせることなく、まっすぐに誘導して、最後に十分なスペースに解放し、自由な時間を過ごさせる。ーーそんなイメージではないだろうか。

 小説の中の条件を一つ一つ丁寧に検証していくことは、その作品が内蔵している可能性<知、楽しさ、おかしさ、感動>をできるだけ多く受け取るための重要な手続きである。
 その応用として、今度は自分なりに条件を変えて読み直してみるというのも効果的だ。たとえば、すでに書いたように、兄と弟の他に別の家族がいたとしたら、どうだっただろうか? もし、剃刀で切ったときに、まだ助かりそうな傷であったら、どうすべきだっただろうか? 不治の病というのが、弟の勝手な思い込みだったとしたら? 自殺ではなく、事故だったなら? 第一発見者が、「見なかったことにするから、自殺として届け出よう」と言ったとしたら?
 様々なヴァリエーションの条件を設定することで、一つの小説が、何倍も豊かなものとなる。そしてそれは、読者自身の考える力を着実に伸ばしてくれ、現実にそうした状況に直面したとき、また人からそうした相談を受けたとき、全くの白紙状態とは違った判断をさせてくれるだろう。
 小説を読む理由は、単に教養のため、あるいは娯楽のためだけではない。人間が生きている間に経験できることは限られているし、極限的な状況を経験することは稀かもしれない。小説は、そうした私たちの人生に不意に侵入してくる一種の異物である。それをただ排除するに任せるか、磨き上げて、本物同様の一つの経験とするかは、読者の態度次第である。

 ロシアの文芸批評家パフチンは、ドストエフスキーの小説を論じて、登場人物がそれぞれに完全に独立した思想を持ち、彼らが対話を通じて対決するタイプの小説をポリフォニー小説と呼んだ。そして、ドストエフスキーの小説が、冒険小説風の異常な出来事に次々と登場人物を巻き込んでいくのは、「人物たちを挑発し、苛立たせ、試練にかけ、対話に誘うような言葉とプロットを設定し捜し求めた」(『ドストエフスキーの詩学』ちくま学芸文庫))からだとしている、私たちも、普段の会話では、友人と意見が合わなくても、適当に折り合いをつけるが、たとえば無実の罪で容疑をかけられたとなると、「そうじゃない、自分はそんな人間じゃない!」と、必死の抗弁を試みるだろう。
 三島の作品を、パフチンのいう意味で厳密にポリフォニー小説と呼んで良いかは異論もあろうが、少なくともこの『金閣寺』や『鏡子の家』は、ドストエフスキーやトーマス・マンの長編小説の影響下で書かれている。小説の劇的効果という観点からも、内面の葛藤の描写よりも、その対立がそれぞれの人物に委ねられて、派手な議論を戦わす方が華やかだ。ここで取り上げた部分も、禅海を出さずに、主人公の内面の思案として描き、一種の悟りを得させて、金閣放火につないでもよかったのかもしれないが、あえて過去の二人の父性と対比させた人物を連れてきて、対話という形を採用することで、論点が鮮明になっている。

 先の例文では、主人公が「私の本心を見抜いてください」と詰め寄ったあとに、「和尚の盃を含んで、私をじっと見た。雨に濡れた鹿苑寺の大きな黒い瓦屋根のような沈黙の重みが私の上に在った。私は戦慄した。急に和尚が、世にも晴朗な笑い声を立てたのである」という文章が挿入されている。これは、内容同様に、間としての効果を発揮している。
 一般的に、こうした間の後には、重要な発言が控えていることが多い。作者としては、ここぞという発言を読者にサラッと読み流してもらいたくない。そのために、一旦会話を切って、注意を促すわけである。実際に、この例文中、最も重要な発言は、これに続く「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」である。

 ここでは、書き込めるだけの補助線を書き込んだが、たとえば主語と代名詞とを結んだりする線は、わかるのであれば必要ないだろう。
 一見してどうだろうか? 難解な文章だと感じていたものが、基本的には、◇を中心に挟んだ「(一般論)vs.フーコーの自論」という一セットになっていて、そのパターンが繰り返されていることが視覚的に分かる。もし、これをもっと鮮明にしたいなら、一般論を青、フーコーの理論を赤に色分けする。そして、この本一冊をその方針でチャート化していくと、非常に鮮明に、全体が「(一般論)vs.フーコーの自論」の形で色分けされていくだろう。これは、『金閣寺』で見た、対話による思想対決の方法であり、青で囲まれた部分と赤とで囲まれた部分とをそれぞれ擬人化して、会話にすれば、白熱した議論の場面になるだろう。同時にこの「一般論」とは、読者の声の引き込みであり、この青対赤の対決は、社会の「常識」に対する筆者の挑戦を視覚化したものである。

 スロー・リーディングによって、こうした議論の組み立てを見ておけば、当然に、自分が文章を書くときの参考になる。例文で見た「一般論→否定→自分の意見」という型は、説得術の典型的なパターンであり、友人や両親との会話の中でも、ビジネス場面でも、どこでもすぐに使えるだろう。「一般論」の場所に、相手の主張を当てはめれば、様々な局面で応用可能である。次いで、その否定と自説の展開だ。そのためにも、まず相手の言わんとするところを正確に理解する能力を備えていなければならない。

 実は、この技術は、少しズルい活用の仕方もある。フーコーにも、若干そのきらいがなきにしもあらずだが、「一般論(相手の主張)→反論」の「一般論」の部分に、一般論に見せかけた、こちらの主張で容易に論駁できる主張を忍ばせておく、というものである。同様に、「あなたのおっしゃりたいことはこうでしょう? 分かります。でも〜」と、実際にはそうではない見解に相手を引っ張り込んでしまうという手である。もちろん、まったくかけ離れていては、「いや、そうじゃない」と否定されるだろうが、目眩しのような巧みな表現や難しい言い回しを用いられると、なんとなく同意して、しかもその自説ではない説への論駁に説得されてしまう、というおかしなことになってしまう。こうした方法を活用することはおすすめしないが、むしろその説得術に巻き込まれそうになったときの警戒のために、頭の隅にでも置いていてもらいたい。

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2022年11月13日

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