【感想・ネタバレ】自由か、さもなくば幸福か? ──二一世紀の〈あり得べき社会〉を問うのレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 私たち個人はより幸福になるために生きてるけど、私たちの文明は幸福というよりかは自由を拡大しようとしてない?ミクロとマクロでずれてない?なんて疑問が頭の中を漂っていたのでドンピシャな題の本書を読んでみました。
 一方、頭の中の別の所で「それは自己責任だから 〜」なんてことを安易に言ってるのを見たり聞いたりするたびに感じていた苛立ちがありまして、その苛立ちの理由もなんとなくわかりました。ですが著者は法哲学の専門家で、抽象と具象を行ったり来たりしてなかなかの難しさです。

 自己責任論の前段階には「自由=幸福」という巧妙で複雑なリベラリズムの理論があるらしく、このリベラリズムの理論は、19世紀に生まれたもので、それ以前にはなかったらしいです。つまりは国民の総意で国家を形成するという、自民の自己統治原理を有効にするために作られたイデオロギーです。自由意志による自己決定の集合が国家であるという今の形です。
 ですが、時代が進むにつれて、人間にはちゃんと自己決定できるような能力なんてないんじゃないという状況が出てきました。そんな現実に対応する形で作られたのが消費者保護法とか労働基準法という弱者保護の制度です。
 こんな風に、機能不全になっている「自由=幸福」というイデオロギーの上でしか了解されえない自己決定論に正当性なんてあるのでしょうか。これが私の感じていた苛立ちの正体でした。

 「自由=幸福」とされてきた時代では、「不自由=幸福」というパターンは顧みられることはありませんでした。ですが、井の中の蛙のほうが幸せなんじゃないかという疑問が、会社員とかブータンの人とかを見てるとふと頭をよぎります。そして実際「不自由=幸福」の社会に進みつつあります。例えば、有害サイトを表示させないgoogleとかゲーテッドコミュニティとか。

『「法」が、制裁の予告によって我々の自由を奪っていくのに対して、「アーキテクチャ」のもとでは行為の自由が最初から与えられていないのである。』

 初めから与えられていないのだから、制約されていることさえ気づかずに幸福な生活を送れるんでしょうけど、どうなんでしょうか、自由を求めて抗ってきた人々は骨折り損のくたびれもうけだったのでしょうか、やはり違和感があります。

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2015年04月03日

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