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Posted by ブクログ 2015年09月14日
時代の差か、第二バチカン前なのか、
プロテスタントや無教会に対して批判的。
教義によって霊的リアリテイがますます見えなくなる。
というのが率直な感想。
、、、、、
というのが2015年9月の感想
、、、、、、
現在2020年9月の感想
故渡部昇一氏が「無人島に持っていくべき本」の一冊...続きを読むとして挙げておられる本であり、
詩人、若松英輔氏が評伝に書いたのも、哲学者義満義彦と師岩下壮一、
私の知る医学博士は古今東西の霊性に触れ、晩年のゴールとしてタルムードとヒルデガルド女史とこの岩下壮一氏の信仰を挙げています。
くっそ分厚い本でしたが、夢中になって読み通すことができました。
ほとんど、「法戦」「護教論」とも云うべき、妥協なき「カトリック絶対主義」で、エキュメニカルな要素は微塵も感じられません。
当時のプロテスタントや無教会と互いにどのような論争を戦わせていたかが窺い知ることができます。
とはいえ、それは決して戦争や憎しみではない「愛しあいながらの戦い」であり、互いにその意義を認め、感謝し尊敬しあいながらの論戦であったことがわかります。
「聖なるものを守り抜く保守の美しさ」まで感じるものでした。
無論、これは第二バチカン公会議以前の姿勢であり、
現代のエキュメニカル、教会一致の時代においては、この路線を露骨にいくべきではないでしょう。
現代では、とんとそのような論争は耳にしたことがありません。
むしろ、
カテキズムや教理や聖書の原理主義に陥るよりも、
イエスに従う生き方、弱い者に手を差し伸べ、共に歩むことが最も重要な姿勢です。
そして、教科書的な宣教でなく、
「信仰を持っていて良かったこと」を体験として証することが大切なことです。
また異なる立場の人々を尊敬し、耳を傾け、対話すること。
フランシスコに至っては、
教会から出ていくようにとまで促します。
第二バチカン公会議以前と以後で、
閉鎖的で独善的で罪を糾弾し裁く教会は180度転換したと言います。
しかし、
本書にはカトリックがイエス以来大切にして来た、
「信仰の遺産」「聖なる伝承」をしっかりと保持して伝えています。
カトリック教会も秘跡も、イエスが直接、設立し、制定し、守るように伝えたものです。
また、固定化された「教条主義」として批判されがちな言葉による「教義」も、
本当はキリスト教を活ける宗教たらしめているものであると言います。
「、、、キリストは自らの救いの業を恒久的なものとするため、すなわち自らが教え示した信仰の真理が世の終わりまで全く形で保持され、伝えられるために教会を設立した。
教会は既に存在していた信者たちが集まって合意の上で形成したものではなく、我々人類の救いのために人間となった神、キリスト自身の作品である。
教会を成立させているのは信者たちではなく、むしろ今も生きて働き続けるキリスト自身であり、信者たちはむしろキリストの作品である教会が日々生育させる果実なのである。
「教会の外に救いなし」と言う言葉は教会当局の独善的な態度表明ではなく、むしろ協会が授ける信仰によって永遠の生命の道を確かな足取りで進む信者たちの感謝に溢れる宣言なのである。
キリストから託された信仰の真理と言う遺産を忠実に守り、伝え、信者たちを教導する形としての教職制度は「信者をしてより親しく、かつ有効に神、そしてキリストと交わらしめるための、キリストの愛の案出せる機構」であるという岩下神父の議論は大きな説得力を帯びてくる、、」
また、西洋キリスト教は、ギリシャ哲学化したものとして批判されていますが、
それにも否を唱えます。
「岩下神父によると、三位一体の教えは信者の宗教的生活と没交渉的な信条では決してなく、むしろ神が自らの心の底を愛する子らに打ち明けねばやまぬありがたい親心なのである。
神が話してくださらなければ人間には決して知られ得ない自らの生命の秘密を打ち明け、自らの至福に与らせようとの摂理が三位一体の信条に他ならない、と著者はとく。」
カトリック教会は、生きたキリストを伝え続けています。
360度、ありとあらゆる方面から、カトリック教会に対する批判を聞かない時はありません。
というか、二十代の頃は、私自身、積極的に批判をしていました。
勿論、聖職者や信徒に恨みのある人は一人もいませんでしたが。
無神論者、唯物論者、一般市民は勿論、
仏教者、スピリチュアル界隈、ラディカルなプロテスタント教会から、無教会まで、
ほとんど世界の悪の全てはカトリックなどという宗教あるからだと言わんばかりの勢いです。
しかも、その多くが、全く正確ではない思い込みや単なる植え付けられた印象に過ぎないことなのです。
フランスでは、カトリックを公言することは、同性愛者であることをカミングアウトすることより大変なことだと友人曰く。
例えるなら、
カトリックとその秘跡は、二千年にわたり保存されてきた最も高価なダイヤモンドです。
しかし、それを伝えるのは罪人である人間ですので、その箱には当然、数え切れないほどの煤や埃がつき、その輝きが見えなくなります。
植民地支配や、ユダヤ人差別や、人類のありとあらゆる悪がそこにへばりついています。
だからといって、そのダイヤモンドがダミーものであるわけではありません。
一方、
キリストは教会という檻の中に捕らえられて所有させられているわけでもなく、
むしろ、常にそのベクトルは教会の外の街外れに向けられているのです。
それぞれの教派や立場の人々が、
自分のキリストこそは本物だ、あっちは偽物だと、
互いに批判しあっているのを見るのは本当に忍びないことで心が痛みます。
私は、原理主義的なカトリックの時代を知りません。
第二バチカン公会議以後の、開かれた普遍的な教会しか知りません。
しかし、
若者のいない、高齢者ばかりで、
信仰に関する分かち合いや、冒険のないあり方に魂が満たされていたかといえば、
何か不完全燃焼のもどかしさを感じていました。
本当はもっと素晴らしいものを、教会は奥に持っているのに、
それに繋がっていない、気がついていない人が多いのではないか、と。
ある意味、
保守的、絶対主義的な時に保持されていた、信仰のパトスが弛緩されて蒸発してしまったのではないかと。
「それでいいのか」「生き生きとした実在の神様に出会いたい」と
私は、さまざまな霊性との交流に飛び込んでいきました。
そこで、求めていた聖霊、生きる実在に出逢うことができましたが、
不思議なことか幸いなことか皮肉なことか、
その聖霊の生きた光は、
私が「意味わかんねー」と退屈がっていた、あの教会が保持してきた秘跡をありありと照らし出すようになったのです。
私は、毎日のミサに
生きた神の現存と出逢います。
ミサは、
それまでの私にとって、意味のわからない授業のような単なる意味のない退屈な儀式にしか過ぎず、
なぜこんなつまらない儀式に信者たちはありがたがってわざわざ出てくるのかわかりませんでした。
ところが、
毎日、早起きしてミサで生きたイエスと出逢うことが楽しみでなりません。
諸宗教対話の時、問われたことが、
「さまざまな優れた宗教を見て、交流し対話してきた。
その上で、なぜあなたはカトリックなのか」
「全ての宗教は結局一つ」「どこも同じことを言っている」
という安易な相対化はできないということも分かってきました。
それでも、私たちは、「宗教」を超えていかねばなりません。
それでもやはり足がかりとして、具体的な地上での形や伝承から飛躍していく以外にない。
いい意味での「保守」的な理解、そこに根を張ることなくして、
「普遍」への飛躍はできないのではないでしょうか。
「普遍」に向かう弓矢は、「保守」の弦をしっかりと引いて初めて遠くにまで飛ぶことができます。
原理主義的に弦を引きすぎてしまうと、弦は千切れるか暴発するかです。
一方、自らの信仰の弦をほとんど引くことないでいると、どこか無難な霊性のない単なる一人間の交流会です。
普遍に飛躍していく上で、
岩下壮一神父の保守的なカトリック理解は私たちの弦を深く正確に引いてくれるものです。