あらすじ
謎多き天才の人生には、多くの挫折と失敗があった。知られざる天才の光と影を丹念に描き、世界中を魅了する作品を解説した決定版。よりよく理解できる一冊。イタリアでベストセラー!
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2860円
306P
レオナルド・ダ・ヴィンチはチェーザレ・ボルジアが軍事技術者、建築家として仕えてた関係なんだよね。だからマキャベリ君主論読む事もレオナルド・ダ・ヴィンチの歴史背景を知る手がかりになると思った。
レオナルド・ダ・ヴィンチは左利きのホモ
レオナルド・ダ・ヴィンチは器用貧乏
コスタンティーノ・ドラッツィオ
D'Orazio,Costantino
著者プロフィール
1974年生まれ。美術史家、作家。現代美術のインスタレーションも手がける展覧会キュレーター。イタリア国営放送でアート番組を受け持ち、新聞や雑誌への寄稿も多い。『カラヴァッジョの秘密』(2013)、『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』(2014)、『ラファエッロの秘密』(2015)などの画家の秘密シリーズがイタリアでベストセラーとなった。
「それに比べて、パオロ・ジョヴィオの書いたものは異なる。この歴史学者は、ローマで実際にレオナルドと親交があったと思われる。両者とも、教皇レオ一〇世の時代、ヴァティカン宮廷に擁護されていたからだ。彼の記述はレオナルドについての意義深い情報に満ちあふれている。彼がどのようにして絵を描いたか。たとえば作品の出来になかなか満足せず、完璧さを求めるあまり、ついには作品のほとんどを完成させることができなかったことなども記されている。レオナルドに未完の作品が多いのは、実はそう単純なことではなく、複雑な理由が絡みあっている。ジョヴィオは、レオナルドの肖像を初めて文章で表わした人物でもある。「愛想がよく、寛大で、華があり、並外れた美しい容姿をしている。素晴らしき自由人であり、あらゆる優雅さを生み出す。特に劇場演出においての優美さは卓越しており、リラ・ダ・ブラッチョ[ヴァイオリンの前身となる弦楽器]を弾きながら歌うこともできた。それゆえ、当時の王侯貴族のすべてが両手を広げて彼を迎えたのであった」。現在では、過去の記録から、ジョヴィオの語るように、レオナルドの人生のすべてが上手く行ったわけではないことが分かっているが、彼のレオナルドへの称賛の言葉が、それ以降の伝記作家の模範になったことは間違いない。アノニモ・ガッディアーノと呼ばれる詳細不明の伝記作家も、一六世紀初頭の芸術家にまつわる面白い雑記のようなものを書いた。そこにも、レオナルドが、主な傑作、「最後の晩餐」、「聖アンナと聖母子」、「ジネヴラ・デ・ベンチの肖像」、「アンギアーリの戦い」などと共に登場する。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルド・ダ・ヴィンチに興味を持った者は、その迷宮の中で迷子になってしまうリスクにさらされる。彼の傑作に隠された落とし穴のような数々の謎、有名な手稿に残された膨大な量の思索や考察。これらが、何世紀にもわたって抗うことのできない魔力となって私たちの前にある。鏡文字で書かれた考察、覚え書き、デッサン、スケッチ、なぞなぞ、設計図、肖像画、それらがごちゃまぜになって約一三〇〇〇枚の手稿として残っている。手稿は、時には一枚の紙葉が異なる状況で何度も使われている。折りたたんでポケットに入れて、何か良いアイデアが浮かんだ時に取り出してはメモ帳代わりに使っていたものさえある。家計簿のような日々の買い物の記録の中に、カリカチュアの肖像画や驚くような機械の設計図、ユークリッドの図表が混在するものさえある。膨大な資料を私たちに残してくれたレオナルドは、研究者にとって明快で分かりやすい芸術家であるはずだ。しかし、それは違う、真逆である。なぜなら、彼が何かを書く時、伝えるべきことをはっきりと伝えず、矛盾も多いため、真意を間違って解釈する危険性が常に転がっているからだ。レオナルド研究にあたっては、簡単にミスを犯すことが多い。そして、レオナルドの習作や考察の詰まった驚くべき宝ともいえる手稿をきちんと整理しようと考えた者は、誰であれ、失敗に終わっている。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドは徹底した自然観察が子どもの頃から大好きだったが、その自然観察こそが、写真のように正確で詳細な風景を描かせ、植物図鑑に値するほどの正確さで植物や花々を描写させた。また、少なくとも三〇年はとりつかれていた解剖学や人体比率の研究の成果は、レオナルドの名を不朽のものとした数々の肖像画を描く際の貴重な布石となった。彼の飽くなき好奇心は、人間の感情が身体のどこから生まれるのかという疑問にまで発展し、それが、最も有名な傑作「モナ・リザ」を描く上で活かされている。科学と芸術は常に共存するものなのだ。レオナルドを知るためには、彼が残した驚異的な資料を、方向性を見失うことなく上手に扱うことが大切なのである。 レオナルドは私たちを惑わす。彼の考えを理解できたと思った瞬間に、突然全く別の概念が現われ、それをなかったことにしてしまう。少なくとも、その並外れた知的好奇心と強い野心は認める必要がある。彼は、何か課題を見つけると、すぐさま、その問題を解決すべく探究に臨み、より深く徹底的に長い探究を続ける。ジョルジョ・ヴァザーリは、若干想像力の入った有名な著作の中で、レオナルドの性格を「むらがあり不安定で一つのことに集中する能力に欠けている」と述べているが、これは間違っている。彼ほど、あらゆるテーマを頑固に粘り強く徹底的に調査した者はいない。彼の人生を突き動かした唯一の目的は、真実を知るということだった。名声でも富でも信望でもなく、この世に存在するすべてのものを秩序立てる秘密を探ることだったのだ。生命がある場所ならどこにでもレオナルドは目を向けた。なぜ「物体」は下に落ちるのか。どうしたら調和のとれた美しい音を奏でることができるのか。どのようにして子どもの心の中に感情が生まれるのか。どうやったら人間が空を飛び水の上を歩くことができるのか。川の流れを変えるにはどうすればいいのか。遠景を表現する効果的な画法は何なのか。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「信じられないかもしれないが、レオナルドの探究はすべて一つにつながっていて、それらが集まった場所が絵なのだ。彼はこう述べたことがある。「大気を表わす水色は、大気そのものの色ではない。湿気が熱気によって瞬く間に蒸発したことが原因だ」。かの有名な絵画技法スフマート[ぼかし画法]は、他でもない、大気現象の徹底的な観察が生み出したものなのである。これは、レオナルドの思考がどのように機能しているかを最も端的に示す一例であろう。このように、彼の研究はすべて、絵画や素描をとおして語られているのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドは、華やかな色合いの奇抜なファッションでイタリア中を闊歩した。髪の手入れには異常な執着をしており、年を取ってからも胸元までの長い髪を保った。まさにエキセントリックな芸術家で、自分の容姿にも独創性を表現したのである。面倒くさい人を遠ざけたい時、あるいは、あまりやる気のない仕事を注文してきたクライアントを追い払いたい時、そういう時には決まって異様な変人ぶりを見せた。また、レオナルドの世界に魅せられて共に知的冒険をしてくれる若者に囲まれているのが好きだった。彼の摩訶不思議なファミリーは、滅多にいないような面白い人物たちで構成され、サライ、ゾロアストロ、ファントイアという奇妙な愛称で呼ばれていた。そして、彼らは大きな力となる。彼らこそ、レオナルドの最も苦しい時代を支え、世の中がレオナルドの芸術的挑戦を受け入れなかった時も変わらずに支え続けるのである。 レオナルドの芸術家としての活動はいつもバラ色だったわけではない。何度となく屈辱を受け、そのたびに、立ち上がらなければならなかった。その原動力となったのは、リアルさを極めるという思いである。この目的を何よりも優先するあまりに、名声を失うリスクもいとわず、傑作と呼ばれるいくつかの作品を仕上げないまま放棄することもあった。次から次へとパトロンを変え、時には、前のパトロンとはライバル関係にある都市国家に仕えることもあった。報復措置を受けることなど考えもしなかった。まったく予想のつかない人生の選択をすることが多かったのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルド自身も冒険的な探究心について次のように述べている。「偉大な自然が創り上げた様々なもの、驚くべきものや異質のものを見つけたいという欲求に導かれて、海辺の岩壁の間をしばしウロウロとしていたわたしは、とある巨大な洞窟の入り口にたどり着いた。あまりにも驚いたわたしはその前で茫然と立ちつくしていたが、やがて背中を弓なりに折って、疲れた左手を膝の上に立て、右手で眉のあたりに影を作った。そして、洞窟の中に何があるのかよく見るために、内部を右へ左へきょろきょろと見渡したが、洞窟内部を支配する真っ暗闇のせいで、わたしは何も見ることはできなかった。そのまま、しばらくの間そうしているうちに、突然、わたしの中に二つの感情がわき起こってきた。恐怖と探究心である。真っ暗で威嚇的な洞窟への恐怖と、洞窟の中で何か不思議なものが見つかりはしないかという探究心である」。レオナルドにとって、新しいものに対する興味は常に失敗への恐怖が伴うものであり、リスクを冒す勇気は失望という形になることが続いた。しかし、彼は、不屈の精神を持つチャンピオンのように、次から次へと立ちはだかる困難にポジティブに取り組むことができた。抑えきれないほどの内なる衝動があったからこそ、様々な場所を転々としながらも新たな生活を築くことができたのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「唐突に、「カテリーナの埋葬」のための費用が記された手稿が出てくる。最初は「カテリーナの死」と書いていたようだが、あとから、まるで自分の悲しみを取り除くかのように、この不幸な言葉を消している。そして、かかった費用の明細を冷静に書き綴っている。「三秤分のろうそく」に二七ソルディ[各時代で使われた貨幣単位ソルドの複数形]、「十字架の運搬と設置」に四ソルディ、「遺体の運搬」に八ソルディ、「四人の司祭と四人のミサの侍者」に二〇ソルディ、「埋葬人」に一六ソルディ、死亡診断書を書いた医者に二ソルディとさえ書いてある。まさに家計簿としか思えない淡々とした記述で、ここから母親を失った感情は何一つとして見えない。レオナルドは、感情に任せて自分の気持ちを綴らずに、諸々の研究をする時と同じ理性でもって彼女の死を見つめている。苦しみから逃れるために、それについては何も書かず、あたかも母親の葬儀が毎日行なわなければならない日常の仕事の一つのようなものとしている。子どもの頃に母カテリーナから引き離されたことは、レオナルドを我慢強い人間にした。離れている間もずっと心の中に母は存在していたが、いつの間にか強固な自己防衛を作り上げていた。悲しみや苦しみ、困難に出会った時に、それらを否定するというものである。レオナルドは基本的に孤独な人間で、自分が「普通の」家庭を築き上げることなど一度も考えることはない。あるいは、描く作品の中に母を呼び起こすことで、彼女の欠乏を埋めようとしたのかもしれない。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「「レオナルドはホモセクシュアルだったか?」 正式な結婚、そしてそれが政略結婚で愛情のないものだったら、そこに生まれる子どもは、「無能で臆病者」である。しかし、「両者の大いなる愛と熱望から愛の営みを行なえば、そこには、知的で元気な愛情深い子どもが生まれる」。このレオナルドの言葉から、彼がこのような性愛を通して自分が生まれたのだと想像していることが分かる。情熱と熱望に突き動かされて両親ピエロとカテリーナは結ばれたと信じたいのだ。レオナルドは、自分が入るべくカテゴリーを擁護しているかのように、次のように考える。たとえそれが秘密の関係だとしても、強い熱望から生まれた愛の結晶は、より優れている。 複雑な生い立ちが、人生の選択や作品に影響を与えたかどうかを理解するために、いったいどれだけの本が書かれてきたことだろう。最初にそれを書き、最も権威があるのは、ジークムント・フロイトである。彼は一九一〇年にレオナルドについて論文を書いている。その中で、母親の不在がレオナルドの性的傾向と彼の傑作と呼ばれる作品にどのように影響を与えたかが述べられている。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「「レオナルドはホモセクシュアルだったか?」 正式な結婚、そしてそれが政略結婚で愛情のないものだったら、そこに生まれる子どもは、「無能で臆病者」である。しかし、「両者の大いなる愛と熱望から愛の営みを行なえば、そこには、知的で元気な愛情深い子どもが生まれる」。このレオナルドの言葉から、彼がこのような性愛を通して自分が生まれたのだと想像していることが分かる。情熱と熱望に突き動かされて両親ピエロとカテリーナは結ばれたと信じたいのだ。レオナルドは、自分が入るべくカテゴリーを擁護しているかのように、次のように考える。たとえそれが秘密の関係だとしても、強い熱望から生まれた愛の結晶は、より優れている。 複雑な生い立ちが、人生の選択や作品に影響を与えたかどうかを理解するために、いったいどれだけの本が書かれてきたことだろう。最初にそれを書き、最も権威があるのは、ジークムント・フロイトである。彼は一九一〇年にレオナルドについて論文を書いている。その中で、母親の不在がレオナルドの性的傾向と彼の傑作と呼ばれる作品にどのように影響を与えたかが述べられている。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「しかし、優秀な精神分析医だったフロイトは、このような説明に飽き足らず、思い出話をさらにエロチックな方面から考察する。レオナルドは比喩的方法でフェラチオ行為を解き放ったというのだ。「フェラチオとは、性行為において、関係している相手の口の中に男性性器を入れることである」。この推論は、はっきり言ってかなり奇抜なものに思えるが、精神分析に訪れる患者がよく見る夢の一つであり、統計から出されたものである。「」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「 当時書かれた彼の伝記を信じるなら、レオナルド・ダ・ヴィンチの探究はただひとえに彼の強情なまでの執着心と知性の賜物である。事実、私たちは彼を独学者と呼ぶことができる。学びたいという意欲がレオナルドの中で燃え上がり、それが、生まれながらに持っていた規格外の才能を開花させたのだ。ヴァザーリは語る。「……若い頃、レオナルドは多くのことを学び取ろうとした。算術……」。当時の社会では、算術を使って計算することは、どんな職業に就くにしても必要なことだった。織物屋でも、金細工工房でも、薬局でも、仕事に就いたばかりの新人は、布の長さを測り、金属の重さを量り、薬剤の服用量を計算しなければならなかった。レオナルドは一つの分野だけでなくすべてにおいて素晴らしい能力を示す。ヴァザーリは続ける。「……小さい頃から数学から幾何学、植物学から音楽まで、何でもそつなくこなすことができた」。その頃には誰も想像できなかったことだが、まさに、この音楽の才能で、レオナルドの人生が変わる日がやってくるのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「息子に絵の才能があることに気がついたセル・ピエロは、それを本気で考えるようになった。ヴァザーリは次のように語っている。「この一件のあと、セル・ピエロはこの才能を高めることを考慮した。ある日、レオナルドが描いたいくつかのデッサンをつかむと、それをアンドレア・デル・ヴェロッキオのもとへ持って行った。ヴェロッキオはピエロの仲の良い友人で、もしレオナルドが絵を描くことに専念したらものになるかどうかをしっかりと判断して欲しいと頼んだのであった」。当然ながら、それは仕事になり得るかという興味であって、有名な画家になれるかという意味ではない。息子に安定した将来を保証するために、自分の持つコネを利用したのだ。ヴェロッキオは、独学ですべて学んだというレオナルドのデッサンの束を見て啞然とした。そして、自分の工房に迎えるのである。ちなみに、セル・ピエロがヴェロッキオのもとに向かったのは、両者とも仕事でメディチ家に出入りしており、単に彼が自分の良く知る職人だったからだ。しかし、これ以上の素晴らしい偶然は起こり得なかった。なぜなら、ヴェロッキオの工房は、その頃のフィレンツェで最も先端を行くものだったからだ。ここで、レオナルドは、それまで自然のなりゆきに任せていた二つのこと、つまり、生まれ持った画家としての才能を試して、あらゆる好奇心を満たしていくことになる。ついに、自分をとりまく世界を表現する生来の才能を向上させる手段を手に入れることになるのだ。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドがヴィンチ村で受けた教育は程度の低いものだったが、フィレンツェに来て最初の数年の間に、古典美の研究や革新的な絵を描く実習、自然観察から表現技術を磨くという、当時としては先端を行くような探究を重ねて、急激に学んでいく。ヴェロッキオは古典美のテーマを熟知しており、同時に異例とも思えるほど多くの専門性を持っていたため、それらが新しいことを実践していく原動力となった。彼は、画家であり彫刻家であり、修復家で装飾家、舞台装置家でもあり、金細工師、金細工の裁断師、冶金学の金工技術に長けた鍛冶屋の顔も持ち、さらに技師であり建築家でもあった。当時のフィレンツェでは、ヴェロッキオを古代ギリシャの彫刻家リュシッポスや謎に包まれた錬金術師にたとえる者もいたほどで、「火の神ヘルメスの息子」とさえ呼ばれた。ヴェロッキオは、古典から得た知識を工房の若い弟子たち(レオナルドの他に、ペルジーノ、シニョレッリ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディなどがいた)と共有する。若い弟子たちは、クライアントの要望に応えられるように、数々の実験や試みをとおしてあらゆる仮説を実証する課題を持っていたのだ。ちなみに、多くの弟子たちの中で、師匠のバラエティあふれる様々な興味や専門性を受け継いだのは、レオナルドただ一人である。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「ロレンツォ・デ・メディチは本当のところレオナルドを評価していなかった。事実、ロレンツォが彼に直接作品の依頼をした形跡はない。レオナルドのスタイルには、古典からの引用がなく、古代ローマの建築を思わせるものや保守的で安心感のある表現が欠けており、たとえば、ポッライオーロが細かい部分にこだわって究極の丁寧さで彫った小さなブロンズ像や、ヴェロッキオの繊細で両性具有的な英雄のブロンズ像のような、装飾的要素の高い芸術品を求めるロレンツォの好みにはマッチしなかった。そして何よりも、レオナルドには教養がなかったので、ロレンツォの古典文学や古代ギリシャ哲学への嗜好を共有できず、知的議論をすることができなかった。おそらくレオナルドが少年の頃に受けた素人まがいの教養では、その時代で最も尊敬を集めたパトロンと親密で深い関係を作り上げることには限界があったのだろう。絞首刑の罪人を壁画に描く仕事を得たのがボッティチェッリだったのも偶然ではない。その時点ではレオナルドよりもはるかに教養深く洗練されていたからだ。ボッティチェッリはロレンツォ・デ・メディチ主催の文化教養人サークルの一員であり、謎に包まれたメディチ・アカデミーの大立者だった。彼こそがメディチ家の宮殿を飾る大作をたくさん描いていくのである。その調和のとれたスタイルは分かりやすく、フィレンツェの知識階級が望むべく、作品としては完璧だった。ボッティチェッリは人文主義者の学者たちと親しい関係だった画家で、すでにロレンツォの弟ジュリアーノの在りし日の肖像画を描いていた。彼こそがルネッサンスの変革の中で最も信頼度の高い継承者となるのである。古典的な美の基準をひっくり返すことはない画家だったが、えも言われぬ完璧さで描いた神秘的で魅惑的な人物の表情は、ロレンツォの注意を引きつけるに十分だった。レオナルドは型どおりの芸術家ではなく、妙な考えにとりつかれている。絞首刑の罪人の一件は、レオナルドがこれから先、メディチ家支配下のフィレンツェで受けることになる数多くの失望の最初の一つに過ぎなかった。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「こぼれ話「伝説の技法」 油彩画の歴史について書かれた本はたくさんある。歴史的根拠には欠けるが、色素と麻の実の油を混ぜ合わせるアイデアを得たのは、一五世紀初頭のフランドル派の偉大な画家ヤン・ファン・エイクだと伝統的に言われている。実際にこの革命的な技法はオランダで世に出ている。では、いつフィレンツェに入ってきたのだろう? ここで油彩画伝説はいくぶん凄惨なトーンを帯びる。ヴァザーリが語るところによると、フィレンツェに油彩画の技法をもたらしたのはドメニコ・ヴェネツィアーノだという。ヴェネツィアの地で、フランドル地方から帰ってきたばかりの画家アントネッロ・ダ・メッシーナから教わったらしい。フィレンツェのサンタ・マリア・ヌオヴァ聖堂後陣のフレスコ画を描いていたヴェネツィアーノは、ついうっかりと画家仲間のアンドレア・デル・カスターニョに油彩画の秘密を漏らしてしまう。カスターニョは、ライバルを葬って貴重な油彩画の情報を自分だけのものにしたいと考える。有利な立場に立つためだ。そして、ある夏の夜、鉄のかんぬきでヴェネツィアーノをなぐり殺してしまうのだ。カスターニョが自分の犯した罪を告白する勇気を持ったのは、その死の直前だったという。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドの絵は、すべての要素がしかるべき位置にあるように見える。それにもかかわらず、何かがおかしいと思わせる。 ベアト・アンジェリコはサン・マルコ修道院に受胎告知をいくつものパターンで描いた。主に絵の中の建築物を変えることで別バージョンを描いたのだ。フィリッポ・リッピはムラーテ修道院やメディチ家の宮殿に受胎告知を描く時、古典についての教養を形にするため、マリアの家を古代建築に変えた。ヴェロッキオもまた、この主題でもう一つの絵を描く時、整然とした屋上テラスを作り上げた。それに比べて、レオナルドは建物を必要最小限におさえ、美しい自然の風景を展開することに力を注ぐ。マリアの家より花々、木々、背景に見える入り江を描くことにいっそう力を入れている。そのせいで、場面の構成において大きな間違いを犯している。マリアが本を置いてページをめくっている書見台は、透視図法で描かれた外壁や床に比べると軸を外れている。絵全体は古典的な一点透視図法[任意の一点、消失点が絵全体の指標となる遠近法]で組み立てられており、すべての線は背景の山の間にある消失点に向かって収束している。それなのに、マリアの足元にある大理石の台座は同じ遠近法では描かれていない。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「だが、レオナルドは、この典型的モデルをひっくり返す(口絵 5を参照)。彼の作品には穏やかさや晴れやかさのかけらもない。 まず、聖母マリアと幼子イエスが場面の中央に配置されている。この方法だと、遠くから祭壇画を見る信者たちはすぐに堂々と絵が収まる祭壇にひきつけられ、ちょうどマリアの顔に位置する透視図法の消失点を中心に見ることになる。そしてレオナルドは、救世主イエスの誕生を歓迎して熱狂する群衆が、ユダヤの王を賛美するために押し寄せることをイメージする。レオナルドはまたしても三博士の慄きが語られている聖書の物語から出発したのである。岩場に集まった群衆の顔にどうしようもないほどの感動の波がうねる。右側には「荒野の聖ヒエロニムス」で描かれたのと同じ顔があるようだ。その横の髭の老人は自分の目を信じられない様子だ。三博士はすでにひざまずいている。バルタザールが金杯をキリストに捧げ、メルキオールが捧げた乳香の入った壺はすでにマリアのうしろにいるヨセフが手にしている。前景少し離れて没薬[植物の樹脂で香料の原料となる]の入った容器を持つ若きカスパールがいる。誰かが空を指さす。おそらく救世主として生まれた子どもを知らせる流れ星を見つけたのだろう。この手ぶりは、それ以降のレオナルドの作品の中で何度も繰り返されることになる。真面目で権威のある顔つきをした幼子イエスが高潔無私な客たちを祝福する間に、群衆は堰を切ったように熱狂する。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「もしレオナルドが絵の細部をこのあたりでやめていたなら、アウグスチノ修道会は、この絵を受け入れたことだろう。しかし、この絵の画面には謎が隠れており、研究者でさえいまだに解決できていない。群衆の両端、画面の右端に若者、左端に老人の姿がある[口絵では老人の姿は見切れている]。いわゆる「注釈者」であるが、二人は、大きな喜ばしいイベントに感情的に参加していない唯一の存在で、まったくよそを向いている。老人は手であごを触り何やら考え事をしている様子で、若者はなんと絵の外側を見つめている。彼らは何かを象徴するような人物像ではなく、物語に何の意味をもたらすこともなく、ただ、画面のそでを引き締めて群衆たちを一体化させるために必要な人物像である。彼らの役割は、絵を見る者の視線を中央の一番大事な場面に導くことだ。当時の絵画では、古代ローマの石棺の装飾から影響を受けて、このような工夫がされることが多かった。しかし、レオナルドは二人の人物像をこれまでに見たこともないような姿、つまり年齢の違う正反対の人物像で描くのである。レオナルドの手稿には次のような言葉が残っている。「物語の中には真逆のものを混ぜ合わせなければならない。二つのものを対比させるためである。……つまり、醜い者を美しい者のそばに、巨人を小人のそばに、〈老人を若者のそばに〉、強き者を弱き者のそばに」。老人は場面の中で瞑想に耽っているようで、若者は聖母子から目をそらしている。おそらく、そこにある母性愛を見るのが耐えられないのだろう、まさにレオナルドのように。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「それより数年前の一四七六年、レオナルドは恥ずべき男色行為の罪で告発されていた。匿名の密告者が、レオナルドと他三名の若者がわずか一六歳の少年ヤコポ・サルタレッリとわいせつ行為を行なったと告訴したのだ。ヤコポは多くの工房で絵や彫刻のモデルをしていたが、仕事はモデルだけではなかったという。告訴状によると、レオナルドと友人たちは、モデルの仕事が終わったヤコポと肉体関係を持ち……。現実には、当時のフィレンツェでは同性愛はよくあることで、容認されていた。たとえばドイツ人は Florenzer[フィレンツェ人という意味のドイツ語]という言葉を同性愛者という意味で使っていたほどである。男色行為に対する処罰は大変厳しいものが定められており、大人の場合は去勢、若者は手か足を切断することになっていたが、それが実際に施行されることはごく稀であった。事実、裁判官は、明確な証拠がなかったため告発には信憑性がないとし、最終判決で全員無罪とした。しかし、おそらくその判決には裏でセル・ピエロが介入していたのだろう。破廉恥な私生児の息子のせいで自分の名声に泥が塗られることを避けるために。いずれにしても、レオナルドは大きな恐怖を感じたに違いない。その時期に書いた手稿の中に「牢獄の鍵を内側から開ける道具」という奇妙なプロジェクトが素描と共に残っている。幸運にもその道具は必要にはならなかったが、彼の名前の上に落ちた黒い影から解放されることはなかった。そして、画家たちを外交団としてローマに派遣するロレンツォ・デ・メディチは、男色家の疑惑があったような人物をシクストゥス四世のような完全無欠の信心深い教皇のいるヴァティカン宮殿に送り込むわけにはいかなかった。用心深さから、とりあえず今のところはレオナルドを動かさずフィレンツェ宮廷に置いておくことにしたのであった。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「ヴェロッキオ工房の仕事仲間たちがローマに出発すると、レオナルドは実質的にフィレンツェで一人となる。誰であろうとこの状況を思いがけない幸運と捉えることだろう。ついにライバルはいなくなり、画家としてのキャリアがつまるところまだ始まっているとは言えない状況を打破するためにはもってこいの機会である。ちょうどこの頃、だしぬけに運が開ける。ロレンツォ・デ・メディチは同盟国に贈り物として芸術家や詩人、文化人を派遣することが好きだったが、その歯車の中についにレオナルドも組み込まれるのである。フレスコ画でもなくモニュメントでもなかったが、一四八二年、ロレンツォはレオナルドをミラノのルドヴィーコ・スフォルツァの宮廷[当時のミラノ公はルドヴィーコの幼い甥だったが、ルドヴィーコが実質的な支配者で、一四九四年に名実共にミラノ公となる]へ派遣する。ダ・ヴィンチは楽器を献上することになっていた。それは銀製のリラ・ダ・ブラッチョで、これまでに見たこともないような馬の頭蓋骨の形をしていた。「それは珍妙で新奇な形をしていたが、いかなる音も、より深く調和させて響かせるためであった」。確かにその楽器は貴重な宝石のような代物だったが、おそらくレオナルドが望む仕事ではなかっただろう。はっきりとした確証があるわけではないが、彼がこの楽器をデザインして制作したのは事実のようだ。誘惑に責めさいなまれる聖ヒエロニムスを描いたことはまったく役に立たなかった。東方三博士の礼拝を熱狂する人々の様子で表現した能力もまったく無駄だった。メディチ家の目には、レオナルドは優秀な金細工師かつ音楽家としてしか映っていなかったのだ。だが、レオナルドは動揺することもなく、この任務を自分の芸術活動を飛躍させるチャンスと捉える。さて、フィレンツェの三倍もあり芸術家の数が少ないミラノのような大都会で、レオナルドはいったいどのような傑作を生みだしていくのだろうか。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「「岩窟の聖母」でレオナルドが特に力を入れたことは、人物のポーズや表情ではなく、その裏に隠れているこれまでしっかりと学んできた幾何学的構図の構築である。四人の人物は五角形を作り、その中でマリアの身体が二等辺三角形となっている。これは、まさに古代ギリシャのピタゴラス学派の哲学者たちが黄金比の研究で見つけた形そのものだ。黄金比は最も安定する美しい比率で、自然界のあらゆるものを支配する比例関係とされる。いっぽう一見自然に見える人物の動作は数学的均衡をベースにしている。ミラノに来て以来ダ・ヴィンチは、フィレンツェ時代にはできなかった理論の勉強と、自然界の秘めたる調和を数学的に表わすことに夢中になっていた。「岩窟の聖母」の計算しつくされた構図は、間違いなくその研究の最初の成果である。しかも、人物が正確な構図の内側に収まっているにもかかわらず、動きが固定されてしまうというリスクを回避している。ダ・ヴィンチは、フィレンツェ時代の「受胎告知」に見る不確かさに比べると大きな進歩を遂げた。そして、「東方三博士の礼拝」で見せた統制不能の混乱極まる感情表現や場面もまた、遠い昔の思い出となっていた。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「ダ・ヴィンチは三〇歳にして、まだ自分が本当にやりたいことができていなかった。何でも器用にこなすことができたので、自分でもいったい何がやりたいのか分からなかったのかもしれない。画家、音楽家、金細工師、詩人、技術者、科学者、もしくは、これらを全部一つにまとめたようなものだろうか。ミラノ宮廷と接触するにあたってレオナルドが取った戦略は、この時期の悩みをまさに裏付けるものだ。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「カメレオンのようにその時々で新しい状況に適応して、危険な選択をすることを避ける。もしミラノで軍事技術者としての仕事を見つけるほうが容易であるなら、戦闘の世界に飛び込んで機械工学への情熱を使って全力を尽くそうではないか。その頃のレオナルドは、デ・プレディス兄弟と祭壇画の制作中でイル・モーロには仕えていなかったが、多くの軍事装置や兵器の素描を残しており、それらは、かつて花や衣服のドレープを描いた時と同じ繊細さで描かれている。ただ、これらの習作が板絵を描くためではなかっただけだ。まるで本物の軍事技術者であるかのように、レオナルドは、ねじや車輪、ボルトなどを極めて詳細に分析したものを拡大してあらゆる角度から描いている。光と影を豊かにつけて注意深く描いた素描は、ほとんど立体的な彫刻のように見える。丁寧に描かれた機械の草案を集めて目録のようなものを作り上げたのは、レオナルドだけである。同時代の芸術家にはこのように繊細で凝ったものを描けるような者は誰もいなかった。それらがあまりにも美しく精巧に描かれているので、本当は実用化されたのではないかと疑う者さえいるほどである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「騎馬像制作はまもなく本気で取り組む魅惑の挑戦となり、ダ・ヴィンチは、イル・モーロから授かったコルテ・ヴェッキア[古い宮殿という意味]の新しい工房に本部をおいて指揮することになる。デ・プレディス兄弟の住まいをあとにして、弟子(共同制作者)たちと一緒にドゥオーモ[大聖堂]のそば、かつてはヴィスコンティ家の宮廷だったコルテ・ヴェッキアに居を移す。そこでレオナルドは、両前脚を上げて暴れる馬の上にまたがって攻撃の態勢をとるフランチェスコ・スフォルツァの彫像を実現化するためのアイデアにとりかかるのである(口絵 19を参照)。彫像が後脚だけで立っているのはほぼ不可能と思われるが、ダ・ヴィンチは、安定性はバランス次第だと考える。何年もの間、情熱を持って均衡の研究をしてきたのだ。そして、問題解決のために、馬の前脚の下に盾でむなしく抵抗する敵の姿を置く。天才的なアイデアではあるが、最終的な決定にはならない。まもなくレオナルドは馬の脚を地面につけた構図に返ることになる。なぜなら、この仕事を任せられてからわずか三か月後に、かなり残念なエピソードを考慮せざるを得なくなるからだ。一四八九年七月二二日、イル・モーロは我慢の限界に達する。彼の目には彫像の構想はまったく進んでいないように見える。レオナルドの不可能に近い提案にはもううんざりだ。そこで、イル・モーロは、メディチ家当主のロレンツォに手紙を書いて騎馬像制作の能力を持つ彫刻家の派遣を申し入れる。「予は、レオナルド・ダ・ヴィンチに仕事を任せたが、きちんと実行できるようには思えない」。レオナルドはまたしても依頼者といざこざを起こし、ミラノでの面目をつぶすだけでなく、仕事を失う危機にさらされるのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「こぼれ話「医者、それとも魔術師?」 中世において医学はきわめて魔術に近いものだった。科学と迷信が奇妙に混ざったような最大の例は「奇跡を行なう人」である。彼らはヨーロッパで権力を持ち、病気からの完治を約束した。彼らの医者としての権力は政治的権力とまったく同じで、その力は神から与えられたものと信じられていた。当時、病気を治すためには、正しい治療と一緒に祈りをたくさん捧げることが必要とされており、たとえばペストが流行した時には、予防措置をとるだけでなく、神の慈悲を願うことが必要だった。医者がしばしば異教の聖者や異端分子と混乱されていた長い期間のあと、医者の意味を変えるいくつかの古い文書が再発見される。特に紀元二世紀のローマで活躍した古代ギリシャの医者ガレノスの四体液説が頂点に立つ。その原典が修道院の古文書館から再び世の中に現われて、新しい医学を生み出すことになるのである。ガレノスの学説のベースには四つの体液がある。人間の身体の中には四種類の体液が存在しており、それらは、体内の様々な器官から作り出された黒胆汁、黄胆汁、粘液、血液である。人間が健康であるためには、四つの体液が完全に調和していなければならない。たとえば、咳は粘液の過剰分泌を整えて肺機能を回復させようとする身体の反応だと考えられた。これらの四つの基本要素に、プネウマ[精神・霊]と生命の風[気]が加わる。レオナルドの時代には、医学の世界でこのような考えが流布しており、それは自然哲学と占星術、倫理学と錬金術をミックスさせたようなものだった。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドがとりつかれていた人体への興味はただちに哲学的内省に結びつく。彼は自分の目で観察したことを述べるだけにとどまらず、宇宙での人間の役割について深く考える。この飽くなき考察が、レオナルドの非凡な精神力を作り上げ、数々の障害も気にすることなく、自分の目で確かめた以上のものを求めて先へ進もうとさせる。 この頃、レオナルドの探究の本質的な要素となる出会いがあった。一四九六年、数学と幾何学、経済学に精通した修道士、ルカ・パチョーリがミラノにやって来る。のちにルドヴィーコ・イル・モーロに「神聖比例論」を献呈することになるこの偉大な数学者のおかげで、レオナルドはより知的な科学的探究に近づくことができる。パチョーリのそばでレオナルドは自分に欠けていた一連の教養を埋めていき、当時評価されていた優秀な哲学者にひけをとらないほどの理論を初めてまとめることができるのである。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「これらの作品で並外れた才能を示したレオナルドが、わずか数年のうちにヨーロッパで最も求められる画家の一人になっていくことを想像するのは難しくない。その高名さを最も端的に示す例は、当時最高に洗練されていた女性、イザベッラ・デステ侯妃が暮らすマントヴァ侯国からやって来る。一四九八年四月二六日、イザベッラ侯妃はチェチリア・ガッレラーニにレオナルドに描いてもらった肖像画を貸してほしいという手紙を書く。イザベッラは自分のコレクションにあるヴェネツィアの画家ジョヴァンニ・ベッリーニの描いた肖像画とレオナルドの肖像画を比べてみたかった。侯妃はちょうど破格の規模の一大コレクションを作り上げようとしており、一例を挙げるならアンドレア・マンテーニャやペルジーノのような当時かなり評価の高かった画家にも接触していた。彼女は目新しいものを探すことに熱心で、教養深く、古典を愛する貴婦人だった。会うだけで、その人の才能を見抜く力があった。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「アメリカの小説家ダン・ブラウンがこの仮説を知った時、これを彼の最も有名な作品『ダ・ヴィンチ・コード』のプロットに使うという誘惑に抗うことができなかった。そして、その小説の中で、「最後の晩餐」を暗号化したメッセージに変えてしまう。マグダラのマリアとイエスの恋愛関係(秘密の関係を示すために対照的な色の衣服を着ている)、テーブルの上には二人のグラスがないという疑惑(聖杯の喚起)、ヨハネ =マグダラのマリアとキリストの間に二人の身体の線が作り上げる不思議なアルファベット Vの存在(聖杯あるいは女性の外陰部の形)などを組み合わせた暗号メッセージである。要するに、「最後の晩餐」にマグダラのマリアが描かれたと仮定すれば、それはすなわち、キリストが教会の中で女性に高い地位を与え、女性の司祭を認め、言うまでもなく聖職者が独身である必要はないという意味だと考えるわけだ。もし本当なら、革命的な見解である。」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
「レオナルドはその人生において、突然、計画変更をすることがよくあった。まさに大偉業を成し遂げようと打ち込んでいる時に、突然、まったく異なる活動に関心が移る。レオナルドはそういう人間なのだ。熱中しやすく、情熱に逆らえない人間なのである。そう、まさにそのとおりで、ちょうどフィレンツェで画家としてのキャリアが正しい方向に進みつつあり、人々が彼を敬愛し始める時に、レオナルドは予想もできない申し出を受ける。一五〇二年七月以降、レオナルドはローマ教皇アレクサンデル六世の庶子でヴァレンティーノ公、チェーザレ・ボルジアに従事する。チェーザレは、フランスの支援を受け、北イタリアの侵略と征服を拡大しながら、政治的均衡をかき乱している最中にあった。彼は国際舞台でのスターであり、ニッコロ・マキャヴェッリにインスピレーションを与え、『君主論』のモデルとなったその人であり、彼自身の魅力と戦略で世界を征服する運命にある人間であった。ダ・ヴィンチは彼の呼びかけに抗うことができず、アヌンツィアータ聖堂の工房を棄て、「聖アンナと聖母子」の画稿も途中放棄し、ヴァレンティーノ公(チェーザレ)の軍事技術者として仕事をするために弟子たちを連れてフィレンツェを発つ。フィレンツェとトスカーナ地方全体が動揺していた。なぜなら、すでにピオンビーノを征服して南下しているチェーザレの軍隊を恐れていたからだ。レオナルドがこの勇敢な傭兵隊長に従事したのは、実はフィレンツェ共和国政府に秘密情報を送る任務のためだったのではないかと疑う者もいる。レオナルドはスパイだったのだろうか?」
—『レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密 天才の挫折と輝き』コスタンティーノ・ドラッツィオ著
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ダヴィンチの絵の技術、表現を基調として、歴史的事実や手記を補足して彼の生涯とそれを取り巻くフィレンツェ、ローマの政治芸術環境を描き出している。
ダヴィンチの性格としては凝り性かつ移り気であり、若い時から期日どおおり完成させることは稀であるが、下絵ベースですら(特に聖ヒエロニムス、アンギリアーリの戦い)、全く新しい表現の切り口と技術を表現している。元が私生児であり、正式な古典教育を受けていないため、ロレンツォ・メディチのフィレンツェではボッティチェリのような古典を再解釈した知的な寓意を表現せず、またパトロンと語れなかったため評価はされず、ミラノに軍事家としていき、パーティプランナーをやったる。
ウィトルウィウス的人体図に表現されるように、彼は解剖を繰り返し、人体というものを当時最も理解した一人であり、おそらくは神ではなく人間そのものに世界の秘密があると考えたと思われる。絵画表現はその世界の法則を表現するためであり、スフマートも実際の視覚を表現するために編み出されたものである。
著者はモナリザは個人を書いた人物画を超越した生涯手を入れ続けた作品であり、それが何かにはあまりこだわっていないが、最近の調査ではヴァザーリ説で有力じゃないかと提示している。
Posted by ブクログ
レオナルド・ダ・ヴィンチについては、彼の天才振りが様々な本に書かれていて、世間の常識になっているが、実は大変な苦労人であった。もともと私生児で貴族の養子となったが、当時の教養人の然るべき教育(ラテン語が判らなかったらしい)を受けておらず、絵画工房に弟子入りしてから才能を認められて地位を築く。若い頃から自分の作品に強い拘りがあり、真の芸術家ではあったけれど、ビジネスでは挫折も多かったようだ。原因は依頼された仕事に時間が掛かり過ぎることや約束を守れない、好奇心や興味や関心の分野が広すぎて一つのことに集中できない
など、現在にも通じるビジネスに求められる要件がよく判っていなかったことにあるようだ。
拘りの強さは彼の作品に表現されていて、誰もが驚嘆するものだが、ビジネスマンとしては成功するタイプではなかった。この本には、彼の絵画の謎解きを含めて、あまり知られていないエピソードが紹介されていて大変面白く読めた。
不出世の天才でも見方を変えれば凡人でもあり、とても人間味を感じた。