【感想・ネタバレ】功利主義入門 ──はじめての倫理学のレビュー

あらすじ

倫理学とは「倫理について批判的に考える」学問である。すなわち、よりよく生きるために、社会の常識やルールをきちんと考えなおすための技術である。本書では、「功利主義」という理論についてよく考えることで、倫理学を学ぶことの意義と、その使い方を示す。「ルールはどこまで尊重すべきか」や「公共性と自由のあり方」という問いから「幸福とは何か」「理性と感情の関係」まで、自分で考える人の書。

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Posted by ブクログ

ネタバレ

中学の時、生徒会に入り、当時の生徒会会長のK君の提案によって「語る」という企画をやった。追試制度など、生徒にとって嫌な学校のルールについて先生と討論するというものだ。私もパネリストとして参加したが、言いたい放題の参加者を眺めながら終始沈黙し、最後になって結論めいたことをぼそっとつぶやいていいところを持っていくという、おいしい役回りをやっていた。


その時にはたと気がついたのが、ルールや統治というものは、社会の原理として存在しているのではなく、それがあるとみんなが信じているから成立しているだけで、個人的なルール違反そのものは倫理上問題ないということだった。全裸で逆立ちして学校に通おうとも、それはわいせつ罪で警察に捕まるというだけで、その行為自体はなんら自分だけの倫理として問題ない。そう感じた。


その瞬間から目が開けて?、社会の前提を疑ってみるどころか、ありとあらゆるものが気のせいだという考え方で今日まで生きてきてしまったので、客観的な物事の判断というものの客観的な存在に対して、全く信じないようになってしまった。


しかし、やがて科学の道を志すようになるが、自然の摂理を自分の自然な好奇心によって学ぶとはいえ、現代社会においてそれを職業とする場合、究極のところ社会との接点の問題を避けて通れないということに再びぶち当たった(小5の時に一度ぶつかっていたが、理論物理に進めば解決可能だと信じていた)。


現在は、さらに社会と関わるところで生きてしまっている。こうなると、公共の利益とは何かとか、政治に参加するとは何かということを、改めて考えなおさざるを得なくなっている。


さて、本の内容にはいる。素晴らしくわかりやすく面白い。


まず最初の部分で、興味深いデータが紹介されていた


人間が幸福になるためには自然に従わなければならないと考えている人26%(1953年)→19%(1968年)→51%(2008年
自然を制服してゆかなければならないと考えている人23%(1953年)→34%(1968年)→5%(2008年)(統計数理研究所の国民性調査)



このデータが示すように「やっぱり自然がいちばん」というように考える人は、高度成長期を底に現在はかなり増えてきていて、逆に自然を征圧する対象と考えることから遠ざかっていることが分かる。かなり時代精神を反映しているように思われる。1968年の頃といえば、原発の建設がはじまったり万博が開催されたり、まさに科学万能主義がピークだった頃ではないだろうか。


老荘思想が言うような「無為自然」という行動規範は、小賢しい意図を排除する個人の生き方としてとても魅力を感じるが、何をもって自然とするかということは、実はかなり主観的だし、時代によっても異なる。


筆者は、我々がここで自然と呼んでいるものは実は、


(1)自分が慣れ親しんでいること
(2)自然の側面の中から自分が都合がいいこと


にすぎないのではないかと言う。もし人間の行動規範が、「自然が一番」であれば、倫理など考える必要もなくなってしまうが、「自然が一番」では基準にならないということがわかる。



本書で中心的な人物の一人であるベンタムの言うように「最大多数の最大幸福」を理屈で考えると、部分的な不幸や基本的な不正義も正当化される。これはベンタムが、当時他の思想家達が主張していた禁欲主義や共感・反感を重視する傾向に対する批判しようとしていたからだが、確かにちょっと行き過ぎな気もする。
ウィリアム・ゴドウィン(メアリ・シェリーの父):身内びいきを批判




そこから、功利主義の修正として、義務や規則はやっぱり大事だよねとか、家族も大事だよねと、様々な角度から功利主義およびそれに基づいた公共政策をより洗練させるための議論が始まるわけだが、煎じ詰めるとこれは、それぞれの人が(時空的に)どこまでの範囲共感・反感持つかという(動的な)境界の前提と、社会の構成員がどこまで合理的に現在や未来を考えることが出来るという前提に立つかで、決まってくる。



政策面の話では、公共の利益の為にどこまで政府が介入して個人の自由を縛るべきか、うまいやり方はないかという問題にも派生する。例えば、リバタリアン・パターナリズム(自由主義的な父権主義(おせっかい))の考え方によれば、喫煙や飲酒、過度な広告による誘導など、人間は必ずしも社会合理的な行動を取らないので、行動の自由は与えつつ、非合理な行動をとりにくくするためのインセンティブやディスインセンティブなどを設けて、行動を誘導するという考え方などがある。
エドウィン・チャドウィック:パターナリスティックに英国の公衆衛生を改善しようとして反感を買う



つぎに、そもそも「幸福とはなにか」という議論に入っていく。倫理学の世界は20世紀前半の言語哲学の流行を背景に、個人の幸福の問題よりも、「善い」とは何か、などを問うメタ倫理学が盛んに研究されてきた。ジョン・ロールズの登場により、倫理学と密接に関わる政治哲学側からのアプローチが出てきたが、そこでも社会のあり方を問うだけで個人の幸福までは立ち入らなかった(自由主義的な個人の幸福に対する不介入主義)。その為、幸福とは何かという重要な問いは、ラッセルが言うように古代人の議論から殆ど進んでいない。



ここから、ミルの快楽の高級・低級説や、客観的幸福感の話が出る。


大学一年の時、文系科目の単位が取れず、仕方なく心理学の講義を受けた時、レポート課題が「幸せとはなにか」だったので、とても腹がたって書き殴るようにレポートを書いた事がある。そのレポート内容は、本書のこの幸福に関する章とまったく同じ議論をたどっていて驚いた。最終的には、個人の幸福についてどれだけ追求しようと、客観的な視点が入った瞬間にご破算になってしまうという結論だったが、当時のレポートまだ残ってたらまた読み返してみたい。


色々と考えていくと、結局のところ幸福を考えるよりも不幸を考えた方がどちらかというと難しくないということがありそうだが、その考え方にも限界がある。確かに、様々な価値観で異なる幸福よりも、病気や貧困といった不幸は分かりやすい。そこで、社会の不幸を最小化することに政治介入を集中すべきという、カール・ポパーらの積極的功利主義の考え方がある。しかし、民主主義社会においてそうした考えが受け入れられる為には、適度な格差と弱者に対する共感の両方が十分になければならない。また、一部の人に強い負担がかかることに対して、仮にその「一部」が自分が共感しない他者であって、そうした人が大多数の場合、社会的な集団いじめが正当化されてしまう危険がある。スケープゴートもその一例だろう。


また、無神論者の経済学者アマルティア・センは、例えば今米国のテロ事件でも話題のシク教の信者が、非常に厳しい戒律の中の限られた自由の中で幸福を感じている状態を「適応的選好」と呼び、果たしてそれを幸福と呼んでよいのかと問いかけた。これは、「足るを知る」にも繋がるので、必ずしも悪い(誰にとって?)わけではないが、客観的幸福感の問題でもある。ベストセラーにもなった「選択の科学」の著者、シーナ・アイエンガーも、厳格なシク教徒の両親にしつけられながらも、アメリカ人として育つなかで「制約の多い宗教は人をみじめにするのか」という疑問から調査をするが、幸福感が高いのは寧ろ厳しい教えの信仰を持つ人達だったという結果がある。幸福感にとって重要なのは、自分で決定しているという意識だという。


こうなってくると、意思決定としての民主主義のシステムの問題がまた出てきてしまう。自分たちの将来を、自分たちの意志で決めているという意識があれば、多少苦しくとも幸せ、ということもあり得るのだろうが、今の日本や先進国のようにここまで政治不信が進んでしまうと、民主的な意思決定そのものの効用はかなり低そうに思われる。さらに厄介なのは、現在日本で議論されているエネルギー政策の選択においては、安価なエネルギー供給の存在そのものが民主主義体制の根幹であるので、高価なエネルギーを選択すればするほど、民主的な意思決定は不健全な方向に向かってしまうという自己矛盾だ。


また、選択的効用の逆もあり得るだろう。つまり、よりよい選択肢があると事前に信じこまされたのちに、それが虚構であったと知らされた場合の失望という不幸である。民主党のマニフェストはまさにその典型例だったと言ってよいだろう。クリストファー・ノーラン監督の実写版バットマン三部作完結編「ダークナイトライジング」において、悪役のベインが「希望があれば、人はそれを夢見ながら朽ち果てる」と言ったが、長続きしない希望を提示して選択させて幸福感をもってもらう事が民主政治の限界なんだろうか。


様々な問題を議論している時でも、常になにか前向きなことはないのかと探してしまうが、そうした性向が議論を歪めてしまっていないかということによく遭遇する。


最後に直感と認知的判断のジレンマについて述べられている。たとえば、特定された個人の命についてはとても大切に感じるが、統計になった瞬間に感覚が麻痺してしまうという問題。マザーテレサも「群衆を目にしても、私は決して助けようとはしません」と言った。このジレンマを説明する考え方として、スロヴィックの「心理的麻痺」という考え方を紹介している。マサチューセッツ大学のエプスタイン教授の考えによれば、人間の思考には経験的システム(直感的思考)と分析的システム(合理的思考)がある。つまり、個人の命の問題の場合は直感による働きが大きいが、統計になると働きにくいということだ。また、fMRIによる脳の研究によって、直感に反する認知的判断を行う場合、時間がかかるということもわかっている。「道徳的思考における感情の役割はそう簡単には退けられない」のである。


人間の思考をこのような2つのシステムで考えると、現在の反原発デモに参加する多くの人や、そうした動きを批判する方々の思考パターンが異なっている、という説明もできそうだ。例えば、反原発を批判するブロガー藤沢数希は、「恋愛工学」という考え方も提示しているが、経験的システムによる働きが弱く、合理的に物事を考える志向(およびその能力)が強いように想像される。


だからといって、集団における意思決定において、直感的な判断と認知的判断のどちらが優れていると一般的に結論つけることは出来ない。認知的判断が、結果として多くの利益・便益をもたらすとしても、アイエンガーの言う自己決定の幸福を奪ってしまったり、パターナリズムに陥る批判からは逃れられない。


折衷案としてのリバタリアン・パターナリズムの立場をとるとすると、大きくわけて2つのアプローチがある。つまり、指導者側が大衆の直感に訴えることにより結果として道徳として合理的に正しい道に導くというアプローチと、大衆側を教育してより道徳における合理的な判断をできるようにするというアプローチである。しかし、このふたつのアプローチにも問題がある。前者は、情動に訴える手法によって人を倫理的行為へと誘導しようという発想が自体がどこまで受け入れられるかという問題がある。また、あまりに情動に訴えすぎたために「共感づかれ」を引き起こしてしまうという問題もある。後者は道徳における合理的な思考をさせる教育というものがそもそも可能なのかという問題である。これは不可能で、合理的思考は一部の人間にしか無理と考える人もいる。


確かに、自分が考えぬいた結論に社会を導くために、表面的に大衆迎合するポピュリズムも問題だと思う一方、何らかの課題い対し広く関心をもってもらって正しい情報を発信することで、多くの人に合理的判断を期待するというやり方も広くなされており、どちらも限界があるということは明白である。どちらも行き過ぎると逆効果を生み出す。しかし、逆効果が発生する境界を知ることはとても難しい。


倫理学や功利主義がここまで公共政策や政治哲学に関わっているとは知らなかった。巻末のブックガイドの所に、政治哲学は文学部なら倫理学で、政治学科なら政治思想や政治理論で、法学科なら法哲学で研究されているとある。マイケル・サンデル「白熱教室」の人気により、政治哲学にも注目が集まっているが、日本で政治哲学があまり注目されてこなかったり、どこの学部にあるのかすらわからない状態になっているのは、小林正弥千葉大学教授が著書「サンデルの政治哲学」でも触れているように、日本では究極のところ皇室・天皇陛下まで話が行き着いてしまい、正面から取り上げにくいということも影響しているように思う。


こういう理屈を学んでしまうと、物事をすぐに単純化して捉えようとしがちになるという危険性も孕んでいるが、本質的な問題を捉えようとするとどうしてもそうならざるを得ない。今回、この著作を通じてある程度自分の思考の整理が進んだような気がするが、まだわかりかけてわからないことがわかっていないという状態だ。


それでも、あと少しというところまで来ているような気もする。その時は、エネルギーとは離れてまたなにか書いてみたい。

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2012年08月08日

Posted by ブクログ

ネタバレ

思想が誤解されがちな功利主義を改めて入門する本であると同時に倫理学の入門書として本書は位置付けられています。結婚制度に絶対反対の立場であったゴドウィンがウォルストンクラフトと結婚することで転向し、結婚制度に積極的な態度をとるようになったエピソードはとても面白かったです笑

2人から生まれた子供がフランケンシュタインの著者で有名なメアリー・シェリーで近代フェミニズムの先駆けとなった母親の意志を受け継ぎ(当初母国の英国では全く受け入れられなかったけれど)、フランケンシュタインの中で家庭の天使とされた女性を批判し、フェミニズムを見事に描き出しています。

本書中では、倫理学の分野ではもはや忘れ去られている?幸福論についても言及が行われています。幸福とは何かについて再度問いをたて検討を行っています。著者の見解では、政治レベルでは最大幸福原理を追及、個人レベルでは時には己の際限なき欲求を戒めつつも、自分が現に持っている欲求を追及すべきだそうです。
うーん全ての人間の欲望が満たされるのが先か、地球が人類が真っ当な生活を送れる水準を保てなくなるのが先か、もはや地球環境レベルの話もふまえて議論していくべきかなと個人的には思います。
いわゆる先進国における欲望の肥大化を戒め、他の国々・地域に資源の分配を行うのであればすぐにでも達成できそうな話ですが・・・。本書中でも心理的麻痺の話がありましたが、意外とそこまで考えが至る人がまだまだ少ないということですかね。

また本書末のブックガイドが良かったです。次読む本の参考にしたい。

ところでJ美さんは序盤と最後以外全く出てこなかった気がしますが気のせいですか?

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2020年03月28日

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