【感想・ネタバレ】パウロ・フレイレ「被抑圧者の教育学」を読むのレビュー

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Posted by ブクログ

人文知というのは、ことばによって、目の前の世界を意識化すること。意識化すると、状況に埋め込まれ絶対的であったものが、相対化される、そこに抑圧からの解放への道筋が出てくるのだと思う。

以下引用

人は対話する、世界を言葉でとらえるために

★普及の場合は、伝達する側の人間と、伝達される側の人間の立場が固定していて、つねに主体であるだれかが客体であるだれかにたいして普及を行っている。

コミュニケーションの場合は、語り手と利き手、伝える側と伝えられる側が絶えず、入れ替わる。話すものが聞く者となり、聴く者が話すものとなる。そうした相互的な伝えあいを通じて、新しい何かがそこで創造されていく。あらかじめ用意されたものが伝えられるだけでなく、情報の交換と共同の思考をとおして、その場所で新しい内容が生成する。
→あわ居はこれがしたいんだろうな。「世界を直視することばを探究する」ことによる、抑圧からの解放と、新たな世界の創造。そこに重要な働きをするのが「(こおとばを探究することを通した)意識化」ということなんだろうな。

伝達や普及は結局、抑圧の行為。

抑圧の行為としての教育を、解放の行為としての教育に変えていくのが、対話

★★フレイルが対話やコミュニケーションというとき、それは現実を媒介にした対話。自分たちが投げ込まれた世界についての対話。間合いをおいて、世界を見つめ、それに向かって問いを発し、さまざまな考えをおたがいに出し合いながら、考察を不可え、問題解決の行動を模索する「意識化」の実践。

解放の実践としての教育。それをおこなう主体は人々自身であり、すべての主体の行為がそうであるように、それはみずからの経験、世界認識から出発し、それを踏まえつつ、しかしそれを乗り越えていく「学び」の過程として、組織されるものでなければなりません。

厚く閉ざされた現実のとばりの向こうに、ありうべき未然の可能性を探る、知的な長征でなければならない。沈黙の文化に閉ざされた民衆にとって、それは容易なことではない。しかし、自分たちの現実を見つめ、相互の対話を通してその省察を深めるとき、人々はみずからの言葉を発言する。
→つまり、言葉の抑圧や、感覚の隠蔽(意識下からの逃避)が、支配や従属的な生を助力することに働いてしまっているということかな。

真の言葉をいうこと、それはすなわち世界を変える労働であり、実践であるのだが、しかし言葉を発するというそのことは、だれか特定の人間の特権ではなく、すべての人の権利。

対話とは、世界を媒介にして、世界を言葉でとらえるためのもの。

言葉を発し、世界を言葉で表現することによってそれを変えていくのが人間である。

言葉で世界をとらえ、心理を探究するという共同作業。世界を変革し、人間化するための活動と省察

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2021年12月26日

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