【感想・ネタバレ】落語の国からのぞいてみればのレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

江戸時代の価値観で現在を見直してみると、意外に面白い。

落語を聞いていて、どうしても現代の感覚からするとピンと来ない場合があります。
ちょっとしたことだと移動の距離感や貨幣価値、労働環境など。
そうしたこのと知識も得られて楽しいのですが、
中でもおもしろいのは「公」と「個」に関する観念の違いでした

例えば「左利きの侍はいない」という話。
現代の我々の感覚では当然左利きの武士だっていただろうと思ってしまいます。
しかし、いない。日本刀の扱いはすべて右利きを前提に定められており、例外は認められないのです。
なぜなら生存をかけた争いが激しかった時代においては、少数派の存在を考慮する余裕がない。有無をいわさずその型に嵌めた方が効率が良い。ましてや侍とは「さぶらう」つまり貴人の側にいてそれを護る役割であり、あくまでも「公」の存在。個人の好みや個性などという「個」の要素とは最も遠い存在であったのです。
したがって左利きの侍は存在せず、左利きの落語家も、扇子を刀や箸に見立てるときは右利きとして演じる訳です。
ちなみに現代の剣道においても左利きであろうが右利きと同じ構えで教えられます。

あるいは結婚についての話。
庶民にとって結婚はああだこうだ言わないで勧められたらするもの。それ以上でもそれ以下でもない。恋愛なんてのはあるにはあったけれど、閑で金のある人間がするもの。まぁ吉原やら川崎やらでお金を払ってそれらしい遊びをするのがせいぜいで。ここでも「共同体の存続」を「個人の生き方」よりも優先するのが合理的であった時代であることが窺えます。

まぁそんな感じで、現代人からみたら堅っ苦しくて不自由で耐えられないと思いますが、なにしろそんな自由なんて概念すらなかった時代です。でもその中でけっこう泣いたり笑ったり、貧しいながらも人間らしく暮らしていたようにも見えますね。

けっして「江戸時代に戻りたい」という訳じゃなくて、こうした「200年前の今とは全く違う価値観の社会」での出来事がこうして落語というかたちで現在も語り継がれ、しかもその人間性に充分共感しうるという事実に驚き、なかなか素敵なことだなぁと思うのです。寄席に行ってみたくなりますね。

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2013年04月28日

Posted by ブクログ

ネタバレ

堀井氏の著書は、他に『若者殺しの時代』を読んだことがあります。『若者殺しの時代』は、雑誌やテレビ番組の分析を通じて、80年代とはどういう時代だったのかを検証するユニークな一冊でしたが、今回ご紹介する『落語の国からのぞいてみれば』も手法は一緒。落語の作品を分析することを通じて、江戸時代とはどんな時代であったのかが検証されます。

堀井氏の真骨頂は、メディアの中身に分け入りながら、自らの身体感覚を通じて、その時代の空気感を浮かび上がらせていくことにあります。本書でも、縦横無尽に落語の作品世界に分け入っていきながら、同時に、実際に京都まで徒歩旅行を試みるといった身体を張った検証作業を通じて、江戸時代の人々の身体感覚や時間感覚、そして精神世界に迫っていきます。

私達は、ともすれば、今生きている時代の常識でしかものをみません。しかし、200年くらいさかのぼってみた時、同じ日本であっても、そこには随分と違う風景が広がっていることに気づかされます。昔は、もっと人の死が身近で、個性は今ほど重視されず、好き嫌いを言う前に結婚させられ、夏と冬とで一時間の長さが違い、日付はそのまま月の形を表していたのです。

本書を読むと、人が人である限り時代を越えて共通するものがある一方で、人の感情や感覚のあり方は、かなり時代の空気に左右されるものなのだなということに気づかされます。そして、ちょっと前の日本人はこんなふうに考え、生きていた、と思うと、現代の個人の生き方や社会のあり方が、それほど根拠のないものなのだな、ということにも思い至るのです。海外を見るのも大事ですが、こうやってちょっと前の日本人の姿を眺めてみるのも、自らを相対化し、客観視する上で有用な作業なのですね。

「落語は近代をすっと越えてくれる」というのは著者の言ですが、落語の世界に浸りつつ、気づくと今の生き方や社会のあり方を考えさせらている、そんな内容の一冊です。是非、読んでみてください。

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▽ 心に残った文章達(本書からの引用文)

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日本にはかつて誕生日はなかった。少なくとも誕生日の祝いななかった。

1950年に「年齢のとなえ方に関する法律」が定められ、満年齢で数えることになった。昭和二十五年のことだ。その時代から庶民にもお誕生日祝いがリアルに存在しはじめたのであろう。個人の時代、自由の時代が始まった。それは子供中心の時代の始まりでもあったわけだ。

落語をよく聞いていると、どうも「死をそのまま受け入れろ」と繰り返し教えてくれてるようにおもえる。

何が残ろうと、死んだらおしまい。そう送ってあげるのがいいんだよ、と落語は教えてくれています。それは残ってる者がしっかり生きろというメッセージでもあるわけで、動物としてはそういう生き方が正しいと思う。

「生まれたときの名」
「家を継いだときの名」
「隠居したときの名」
生涯に三つの名前を持つ。それぞれが正式な名前で、人は役割によって名前も違うのだという、前近代的な常識に基づいた方式です。

「銭金はおタカラだから大事にしないといけない」
「金銭は不浄のものであるから、固執してはならない」
お金に関しては、人は必ずこの二律背反なイメージを持っている。というか、この二点を子供のころから徹底的に教えこまれるのだ。

お江戸日本橋から、京の三条大橋まで歩いたことがある。21世紀になったばかりの頃だ。若者2人を連れてのべ23日で歩いた。これはちょっとゆっくりだったなとおもって、またそのあと、二年後に日本橋から名古屋まで7日で歩いた。東京から名古屋まで七日で歩くってのは、ほとんど走っているようなスペースである。

歩く旅に慣れると、里という単位がとてもありがたい。一里をだいたい一時間で歩きます。休憩なしですっと歩ける距離が一里です。

相撲とは何かって、興行です。見せ物でしかない。
相撲はむかしから、必ず人が見る前で取り組まれていた。客を選んだり制限したりしたことはあっても必ず客はいた。(…)相撲はスポーツではない。勝ち負けや記録だけ残しても意味はないのだ。

見世物小屋という世界があって、人の世界からはずれてしまうなら、そちらに身を寄せればいい、という知恵があったのだろう。いままでのように人がましくは生きられないが、でも何とか生きていけるという方法である。近代以前の弱者の方策だ。個性と人権を大事に考える世界に生きていると、人がましくなくても何とか生きていくというエリアが認められなくなって、こういう考えかたはできなくなった。

近代というシステムは何故か「すべてをクリーンにしたい」という人間の欲望をすごく刺激する。言い方を変えれば「世界を制服したい」欲望でもあるわけだけど、その欲望につき動かされて、近代の社会は端っこがなくなっていく。

大束に言ってしまえば、近代より前は、人は好き嫌いで生きていけなかった。好き嫌いは前面に押し出されることはなく、また好き嫌いで人生を決めてはいなかったんだろう。それはそれでひとつの見識である。人が人であるかぎり、さほどの横幅を取って生きていけるわけではない。欲張ったところで、自分以上の横幅を取って人生を歩めるわけじゃない。

近代より以前、人は夜になると月を見ていた。すべての人が月の形を意識して生きていたわけですね。そもそも暦が月の満ち欠けで決められていた。(…)大雑把に言ってしまえば、明治五年以前の暦は「その夜が明るいかどうかを示したもの」だったのだ。夜の明るさのカレンダー。

落語のえらいところは、二百年も昔の若い連中の姿を生き生きと見せてくれるところだ。(…)でも落語は遺跡ではなくて、いまでもエンターテイメントなんだな。いまこの瞬間もどこかで人を笑わせている。そのへんがすごい。

息苦しいなあとおもったときには、ちょっと江戸の気分になってみると、少し楽になるかも、ということです。落語は近代をすっと越えてくれる。

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●[2]編集後記

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まだまだ冷えますが、立春を迎え、暦の上では春になりました。

植物達は敏感に春を感じているようで、地べたに張り付くようにして冬を過ごしていた我が家の畑の作物達も、急に力を取り戻し、むくむくと起き上がってきました。

植物というのは、本当に環境の変化に敏感ですね。植物の特徴は、一度根を張ったところからは動けないことですが、動けないからこそ、全身の感覚器官を開いて、環境の微細な変化をキャッチできるようになっているのでしょう。「動けない」というのは、動物に比べると弱点のように見えますが、植物達はその「弱さ」故に、高い感受能力を発達させてきたのだ、とも言えます。

小さな子どもの感応力の高さも、やはりその弱さ故ではないか、と思ったりします。最近、娘は、こちらが何も言わないのに「春が来たね」と盛んに言うのですが、どうも大人にはわからない、微妙な空気や温度の違いに気づくことのできるセンサーが彼女にはあるのでしょう。

いつの間にか面の皮が厚くなって、どんどん鈍感になっているけれど、本来は、植物や幼児が持っているような感受能力というのが僕らにもあるはずです。世界を味わい尽くすためにも、そういう微細な感受能力というものを忘れないようにしたいものですね。

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2011年02月07日

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