【感想・ネタバレ】名ばかり大学生~日本型教育制度の終焉~のレビュー

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ネタバレ

名ばかり大学生~日本型教育制度の終焉~ (光文社新書)
問題は学力論ではなく大学論なのである
2020年6月7日記述

河本敏浩(かわもととしひろ)氏による著作。
2009年12月20日初版1刷発行。

名古屋市立向陽高校卒業後、同志社大学法学部政治学科を経て、
同志社大学文学研究科新聞学専攻修士課程修了。
大学在学中から現代文講師として活躍し、1994年から2012年まで東進ハイスクール講師(2000~01年、河合塾講師兼任)。
現在、医学部予備校The Independent代表、学研「MyGAK」統括リーダー、
映像講義「学研医学部ゼミ・スタンダード」統括リーダー、
保護者対象講座担当。他に教員、講師、保護者、
生徒を対象とする講演を毎年50回以上で行っている。
主な著書に『名ばかり大学生』(光文社新書)、
『誰がバカをつくるのか?』(ブックマン社)。
医学部進学志望の受験生を持つ保護者対象のウェブマガジンを配信(医学部予備校The Independentのホームページを参照)。

かつて著者の医学部バブルという本を読み大変参考になった事もあって学力論、大学論としての本書に興味を持った。
2009年末、2010年はじめに世の中に出ている。
当時の民主党政権が推し進めた高校授業料無償化は実現された。
それ以外に関してはほとんど実態として変わっていない。
もしくは有力私大の指定校推薦、AO入試が広がったという所だろう。
首都圏、関関同立の一般入試合格者が大幅に絞り込まれた点などは本書を読むと感慨深いというか、複雑な心境になる。
今の入試体制など所詮同時代の受験生同士の相対評価に過ぎない。
大きく時代を俯瞰して見た時に果たして昔の難関大学は立派な学力を持っていたとは言えないという事実を目の当たりにすると余計にそう思う。

*本書の途中に1970年と2008年の東大英語入試の問題が掲示されている。
1970年のモノは率直に言って文章量も少ないし根本的に難易度は高くない。
私が受験した2003年、2004年の時期の入試英語の方がはるかに難易度が高いと言える。
この1970年前後の入試を受けた世代は池上彰氏などの世代。
でも愚劣なんてことはない。人生学び続ける事がいかに重要かを示している。

学力が低下したという指摘や議論はちょくちょく目にする。
確かに学ばない姿勢はまずい。
しかしそもそも議論の前提となるものが個人の意見や感想、感覚論でしか語っていないものが多いのだ。
結論から言えばヨーロッパのフランスやイタリアのように大学内でも学ばないものは中退させていく体制に変えていく。
(その代わり入学の門戸は広くする)
といった形に切り替えていく事が正しい。
今の方式は上にも書いたその年度ごとの相対評価に過ぎない。
学力論ではなく大学論だ、大学こそを変えないといけないとする
河本敏浩氏の指摘は方向性として正しいと思う。

本書で印象に残った点を列挙していくと

「ゆとり教育」だから「学力が下がった」とはたして言えるだろうか。
もし仮に「ゆとり教育」が学力低下の「主犯」ならば、政策転換した以上、数年後、「子供たちが一斉に勉強を始めた」
「大学の入学が難しくなった」という事態が現れるはずである。
しかしこの楽観的な見通しを容認する人は少ないだろう。
政策一つで子供のモチベーションを操ることができるのならば、子育てに悩む者など存在しない。

現在、日本の大学制度は世界でも類を見ない不思議な境地に達しようとしている。
大学生とは名ばかりの学生を大量に輩出し、卒業させている事態がそれである。
勉強をしない高校生は世界中にたくさん存在する。
また、勉強せずに大学に入ることが許されている者も世界中にはたくさん存在している。
しかし、学ばない、基礎学力がない、といった状況を高校まで放置し、かつ大学への入学を許し、さらに卒業までさせている国は、おそらく日本だけである。

この学力テストから、確実に言えることがある。
それはこの学力であっても十分に大学に入学できるという現実。
また、日本の教育の柱とも言える数学教育が、中間以下の層で完全に崩壊している現実である。

現在、大学進学率は短大も含めて約55%だが、いわゆる偏差値の序列で大学を並べたとき、序列下位の私立大学、ほぼ無試験、あるいは実質無試験で入ることができる。
つまり、前記の学力調査で成績が低迷していても、大学生になることは容易だということだ。
金銭面の問題さえクリアすれば、
誰でも大学生になることができるのである。
仮に、中学初級の英語がわからなくとも、名詞と動詞の区別がつかなくとも
基本的な図形の面積の割り出しができなくとも、文系はおろか、理系の大学や医療専門家の養成課程に進学することすら十分可能なのである。

だが、この現象は決して日本特有のものではない。
まったく勉強しないまま、あるいは基礎学力を欠いたまま大学生になる者は、
世界的に見て珍しい存在ではないのである。
図1はOECD加盟国の大学中退率データである。
このデータからは、勉強せずに大学生になることを許す国は多い一方、大学で勉強をさせるという「壁」は多くの国で用意されていることが
わかる(中退は決してよいことではないが)。
イタリアや米国の一般的な大学に入学する者たちの学力は荒廃しているが、
その半分が中退している点に注目したい。
逆に言えば、現代の日本は、まったく勉強しないまま大学への入学を許可し、かつ基礎学力を欠いたまま(それゆえおそらくは教育効果がないまま)
卒業することを許す、世界史上でも極めて稀有な環境を用意していることになる。
学力中間層に働きかける数学教育の衰退、基礎的な学力すら欠いたまま卒業が許される大学生、これらは私達の社会をどのように導いていくのか。
暗澹たる思いを抱かずにはいられない。

ただし、日本の大学拡充の道は基本的に私立大学の新設に負っている。
米国であれ、EU諸国であれ、大学は「公」のもので基本的に国立あるいは公立である。
しかし日本では、勉強ができない、偏差値が低いとなると必然的に私立大学に収容される。
ここが日本の大学制度の極めて特異な点である。
さらに言えば、日本では全体の大学入学希望者が増えても、それは下位の私立大学に収容されるので、希望者が増え続ける間は、上位の大学での入学者の学力レベル低下という問題は生じない。
大学が新設され、大学生になれる層が下へ下へと広がっていくだけで、上位の大学の学力レベルは保たれているのである。

子供の数が減り、かつ大学の定員が減少しなければ、大学入試でいわば「繰り上げ合格」のような状況が頻発し、子供の数が減った分だけ同一大学の学力は年々低下することになる。

この10年の間、東京大学を始めとする旧帝国大学、あるいは私立上位大学で定員を削減したのは、法科大学院設立による法学部だけで、あとはほぼ定員を維持している。それどころか上位私立大学では学部の新設に動き定員を拡充しているのである。
一方、高等学校はどうだろう。
各都道府県のトップ公立校で、1学年10クラス体制というところは既にない。
つまり、公立学校に関しては定員を削減しているのである。
世代人数に応じて定員を削減すれば、同一学校において、年次推移による大きな学力低下は起こり得ない。逆に、大学のように参加者が減少しているのに定員を削らなければ、レベルは下がって当然である。
こうして考えると、大学の教員が自校の学生の基礎学力の欠如を嘆くのはまったく愚かなことだとわかる。
自分の所属する大学の「生き残り」を考えて新設学部の設立を急ぐと、少子化の中では入学層の低レベル化を招き、大学生の学力低下
(というより自らの教え子たる大学生のレベル低下)を招いてしまうのは自明のことである。
だから大学の教員には高校批判、中学校批判、小学校批判、家庭批判は許されない。
そもそも何人中何番までが合格と定める試験を続けているのは当の大学である。
こういった試験のもとで定員を維持、あるいは拡充すれば、自らの教え子たる大学生のレベルは下がって当然である。
大学の教員がため息まじりに嘆く、目の前の大学生の基礎学力の欠如については、少なくとも自業自得という他ない。

マクロの視点に立つと、問題の深刻さはさらに増す。
四年制大学の入学者数は安定的に推移しているが、子供の数自体がどんどん減少しているので「繰り上げ当選」のような大学生が増えていく。
少子化はゆっくりと、しかし確実に進行していくので、
この当選者は一気にではなく、じわじわ広がっていく。
さらに、この「侵食」は、下位の大学から順に起こるので、私立、地方、新設
といった条件を持つ大学にまず影響が及ぶ。
当然、偏差値下位の大学は定員充足を第一に考えるので、とにかく高校生の気を引くために必死になる、学力試験のない試験を用意するのは大前提である。
同一レベルの下位大学のどこかが、学力試験廃絶の方針を打ち出すと、
他の大学も追随さぜるを得ない。同一レベルの大学に入るのに、一方は学力試験がなく、一方は2月まで勉強にひきずり回されるのであれば、
前者が高校生に選ばれるのは自明である。
こうして学力試験廃絶の波が、下位の大学を襲う。
そういった大学では、今やAOや推薦入試での入学者が半数に上っている。
これについては、今後若干の規制が入るが、それでも青田買いが横行し、試験のために勉強をしようという精神すら持たせない環境を作り出しているのが偏差値下位の大学の現状である。

起こるのは学力試験の廃絶だけではない。
体力のある私立大学はイベント専門業者に依頼し、学校説明会
(いわゆるオープンキャンパス)での好感度上昇に奔走する。
さらに、大学教員の仕事内容は、いわゆる「営業」に比重がかかり、20年前ではあり得なかった高校回りを強いられるようになる。
「営業」とは、自校のパンフレットを携え、先進的だと自負する教育内容を
高校の進路指導担当の教師に直接会って説明し、「御校の生徒をぜひ我が大学に」
と勧誘する仕事である。
中堅以下の大学の教員にとっては、すでにおなじみの仕事だが、こういった営業活動を行う大学が増えたため、高校の進路指導担当教員もいちいち応対する時間がなく、大学教授が高校を訪れて
「名刺だけを置いてそそくさと帰る」という悲哀に満ちた場面が今や一般的になっている。
さすがに伝統を有する大学や偏差値上位の大学では、この「営業活動」は
一般的ではないが、それも風前の灯である。
大学教授が定員を満たすことに奔走している状況では、どういう教育をなすのか
ということが完全に棚上げされてもおかしくない。
とにかく「箱」の維持のみが優先され、その中身はどうでもよい状態になってしまう。
入学者の側も、大学に行きさえすれば卒業させてくれることを知っているので入学後にその精神が大きく変わることもない。

しかし、高校の現場において、教師たちはこういう状況をただ傍観している
わけではない。特に少子化が進むにつれ、公立、私立を問わず、積極的な学力対策の姿勢を見せないことには生徒が集まらず、廃校の危機にさらされる。
さらに多くの自治体では、学力増強を目的とした予算を確保してもいる。
だが、こういった試みの効果は、散発的かつ限定的と言わざるを得ない。
勉強からの離脱の波はあまりにも大規模であり、それに抗することは、底なし沼で戦うような絶望的な試みである。
結局、高校の教師たちは匙を投げ、中学校教育の問題点と文科省のカリキュラム改悪を槍玉に挙げる。
そして、中学校の教師は小学校に、小学校の教師は家庭に、原因を求めるようになる。このように最後は家庭の問題に還元され、問題の焦点はうやむやになり、
「しっかり子供を育てよう」などといった獏とした精神論に陥ってしまう。
これは、問題の焦点を放置したまま、安易な改革論議に走ってきたことによる
「改革疲れ」のなれの果てである。その挙句に、愛国心教育や徴兵制の導入など空想的な極論が語られるようになる始末だ。
大切なことは、現代までい至る歴史的流れと現実を見据え、強固な視線から問題の焦点をあぶりだすことである。
なぜ何の努力もせず大学を卒業できるライフコースが成り立ってしまったのか?
それ以上に、なぜ子供たちは勉強から離脱してしまったのか?
このメカニズムを明らかにすることこそが重要なのではないか。
基礎学力を大きく欠いた大学生の存在をあげつらうことは簡単だが、これを座視せず、いかに有意な政策へと結びつけていくか。
それこそが重要なのではないか。

この下位3割のラインをそのまま2003年にスライドすると、強烈なことがわかる。
2003年の学力下層の大学生たちは、かつての暴走族参入組と同等の学力層の者たちであることが、十分ありうるのだ
(前述のように、大学進学と学力はまったく関係ないため)
この学力下層(下位3割)の高校生を大学教育に適合する学力レベルまで
引き上げようとすることは、タイムワープをして1970年代に降り立ち、商業高校や工業高校に在籍する暴走族の構成員や、それを支持する高校生たちに勉強をするよう説得することとほぼ同義なのである。
現代の高校生は、かつての暴走族のように見かけから反抗的ということは少ない。
しかい「勉強をする」ことに対する距離感は、かつての暴走族参入組と何ら変わることがない。
「百マス計算」や「早寝早起き」などのミクロな方法論や
小手先の生活改善スローガンで、この現実に抗することができると考えるのは極めて楽天的である。
それは暴走族の構成員に「百マス計算」や「早寝早起き」の効用を訴えるようなものである。実際、このような表層的な方法論で、全体的な流れを変えることなどまったくできていない。

大学の定員削減は、現代の日本ではさらに負のインパクトをもたらす。ユネスコの宣言にある通り、高等教育がさまざまな発展に寄与するならば
(寄与するから、どこの国も高等教育を充実させようと躍起になる)、
勉強しない者を大学から追い出すよりも、勉強するよう促すことの方が社会によりよい影響を与えるはずだ。
この定員削減論の危うさは、医学部の学生の学力レベルが下がったから定員を削って質を保とう、という議論と同じである。
少子高齢化の中で医学部定員を削減するならば、社会は大混乱に陥るだろう。
実際、深刻な医師不足を招いたことは記憶に新しい。
大学定員の削減はこれと同じである。
定員を削減すれば、医師不足ならぬ深刻な人材不足に見舞われるだろう。
幅広い人材の育成を怠り、ただ定員を絞ることによって矛盾から目を逸らす愚を、私達はすでに医師養成に関する政策で経験している。
定員削減ではなく、拡大させつつ育成する方向に、解決策の軸足を置くべきだ。
さらに言えば、少子化が着々と進む日本でひとたび定員削減が連鎖的に起こり
大学という場の縮小均衡に向かってしまう。
教育を受ける機会を縮小均衡させていくのは、社会全体の可能性を縮小させていくことにもなり、まさに「狂気」の政策と言える。

人材育成の失敗を、定員の削減によって解決しようとすることは、国家や社会の根幹を揺るがしかねない。
問題は、育成の知恵が発揮されていない点にある。

定員の削減が政策として妥当でないのは、この方法がすでに何度も試みられ、すべて失敗しているからである。

学力保持のために、大学の定員を削減せよというのは簡単だが、意図的に門戸を閉ざす政策を実施すると、学生は一体どうなるのか?
収容能力はあるのに、政策によって定員を削減すれば、極めて大きな不公平感を与えることになる
はたして、愛知の「実験」は成功したのだろうか?
答えは「短期的には成功した」ということになる。
ただしその代償は極めて大きかったと言える。
「絞れば荒れる」という仮説に沿うように、愛知県は校内暴力の先進県として名を馳せ、暴れる中学生に手を焼くことになった。
そして、この混乱を沈静化するために、他の自自体には見られない軍隊式の教育方針を採用したのである。

管理教育に暴力と暴言は必須のアイテムである。
ここでは生徒側の暴力を抑止するため、教師の側が(言葉の暴力も含め)
暴力を選択しているのである。
生徒が校内で暴力をふるう現実がある以上、
先制攻撃で殴って制圧しておくことが極めて重要になる。
特に愛知県は、あの「戸塚ヨットスクール」を生み出した管理教育先進県であることを想起してほしい。
「戸塚ヨットスクール」が他ならぬ愛知県にあったということは偶然ではない。
この愛知の空気と地続きのものだったのである。
今なお「子供は殴って教育すべきだ」「昔は子供を殴ったものだ」
という愚論を公にする懐古主義者がいるが、すでにそういった教育は愛知県の特に郡部において「親の理解」とともに実現されていたのである。

教育政策として子供を殴る、管理する、絞り込むことは、おそらく極めてリスクが高い。当たり前のことだが、すべての子供はやがて大人になり、その多くは親になるからである。
管理教育に走った教師、それを容認した親、彼ら彼女らはそれをよかれと思ってやったのだろうが、その成否は近視眼的な大学進学率で測られるものでは決してない。その空気の中で育った子どもたちが大人になり、子供を持った時、自身の子供に何を伝え、どう育てるかということによって測られるべきだ。
少なくとも愛知の虐待死件数、いじめの発生件数は、校内暴力と管理教育の洗礼を受けた世代の、そしてその子供たちの成長の軌跡と重なるものだと言える。
1980年代初頭に殴られて育った子供は今、親となってどのような学校観を持っているのだろう。
あるいは、殴られる級友を見てきた当時の中学生や高校生は、当時の教育をどのように評価しているのだろう。
ここでモンスターペアレンツの存在を想起するのは、あながち間違いではないだろう。
これに関する統計は存在しないが、愛知の教師たちは、他県の教師に比して、モンスターペアレンツの存在により強く頭を悩ませているのではないだろうか。

試験、競争を是認する者は、その勝者だけである。
敗者は黙して語らず、その競争から退場する。
子供の学力が下がったことを「ゆとり」や「甘え」に求め
「もっと締め付けを」と叫ぶのは、学歴争奪競争に勝った者たちだけである。
学力が、塾や金銭、家庭環境を媒介にした競争によって培われるのならば、
そんな戦いには行きたくない、行かせたくない、行かせられないと考える親も決して少なくないだろう。
ただし、彼ら彼女らは黙して語らない。

教育、子育てに関心を持つ親は、最終帰着点である大学入試に、いかに有利に働くかということを主軸にして子供を育てる。
公立を見捨て、私立中学ブームを起こし、低学年、低年齢からの塾通いを一般化させてきたのはまさにこの親たちである。
だが、ここには子供が将来何を学ぶかという視点は一切ない。
高校生の予備校通いならば、ある程度自分の指向というものが露わになっているが、低年齢化した塾では、あたかも鋼鉄の定規のように点数、偏差値が乱れ飛ぶ。
ここにあるのは点数競争だけである。
つまり現代の子供たちは、勉強とは競争のためのものだと、
幼い頃から完全に洗脳されているのである。
考えてみれば、日本の戦後教育は、一貫して学ぶことそのものを求めてきたのではなく、単に競争することを求めてきた。
だから、少子化圧力によって競争的な状況が軽減されると、
まだ競争が残存している上位層のみ局地戦が繰り広げられ、中下位層では続々と競争の旗が降ろされていく。
勉強=競争である以上、競争のないところから学びは次々と消失する。
勉強とは順位を争う競争だと認識していれば、競争から降りた瞬間に勉強から離脱するのは当然である。よって、本書冒頭の学力調査は、競争に参入しなかった者たちの現実を忠実に映したものだと言える。

受験という人生の大きな関門は、時代によって大きく変化していることがわかる。
そして、その要因のほとんどが、「人口」によると言っても過言ではない。
世代人口が、前後の世代に比較して減少していれば受験は簡単になり、逆であれば困難になるのは、上位何番までが合格という相対評価が基本の日本の選別試験では、必然的である。
この観点で、日本の戦後教育の歩みを追っていくと、極めて興味深いことがわかる。
それは、たとえば東大や早慶の合格者の学力水準が一定でないということだ。
逆に言えば、日本の大学入試は、子供の学力そのものに関心を払ったことはなく、
単に子供を序列化してきただけなのだ。
そして、高学歴が人生における甘い果実だと信じられていた状況下では、多くの子供や家庭、学校にとって、学力そのものよりも序列が価値として優先されるのは、これもまた必然であった。

(1970年と2008年の東大英語入試の比較をして)
こうして比較すると、現在の(2008年)問題は1970年の問題に比して合格最低点は
ほぼ同じながら(おそらく6割が合格ラインになりょうな問題を東大は毎年意識して作成している)量も圧倒的に増え、質も圧倒的に上がっていることがわかる。
一体どこが学力低下なのか?
少なくとも1970年代前半に大学生になった者は、現代の子供に対して学力低下云々を言う資格は無い。
18歳のある日、ある時に受けた試験で測られる学力で人を評価するのが、学歴重視社会の基本である。ならばそれに従って、現在の60歳よりやや下の
世代の人々を評価するならば、一言で言って「低劣」ということになる。
もちろん時代が貧しかった、社会全体が困窮していたという「言い訳」はあるだろう。
しかし、現在の日本も先進各国の中で突出した貧困率(相対貧困率)のもとにある。
貧しいがゆえに大学進学などはなから断念している者も数多く存在する。
さらに言えば、現在でも、入学試験において個々の人間の事情などまったく考慮されていない。
個人の事情を考慮せず、ある日、ある時の試験の学力で人を選抜してよいならば、
1970年代初頭に大学に入学した世代は、やはり「低劣」な存在だと言わざるを得ない。
これははたして極論だろうか?

実は大学入試の難度の変動の要因は、人口と進学率にあり、カリキュラムや教育政策、はたまた日教組等の組合活動の興亡とは殆ど関係ない。

学力低下を語る上で注意しなければならないのは、この2008年の問題をみればわかるように、トップ層の大学の試験のレベルは低下していないという点である。
1992年と比較すれば、やや簡単になっているが、1970年と比較した場合、相当に難しくなっている。
少子化が進んでいる以上、学力は低下していくが、その低下は下位の大学から
ゆっくりせり上がるように起こり、それが現在は中堅大学あたりにまで及んでいるだけである。
「子供たち全体の、ある日、ある時に測られる学力(大学入試の結果)が低いと
社会の先行きが不安だ」という発言は、学力低下脅威論に基づいてよく叫ばれる。
それが仮に真であるなら、1970年入学組は、より高い学力を誇る後の
世代にポストを早く譲るべきだということになってしまう。
また、少なくとも1970年の入学試験と比較するならば、現在の難度の高い大学に
通う大学生の学力は、まったく問題ないことになる。
(東大も京大も早慶も、みんな今に比べれば驚くほど入学試験は簡単)
現代の子供に関して彼ら彼女らが難度の高い大学を目指しているならば、
勉強に関して、少なくとも甘えていることなど断じてない。いやむしろ、「ゆとり教育」などとは相反する、その過酷さのなかにこそ、現代の子供をめぐる問題が潜んでいるのである。
1970年代の東京大学の入試では、圧倒的に浪人生が強かった。
最大で、入学者の割合の7割超が浪人生であった。
浪人して学力が逆転するということは、18歳段階での学力差は1年でひっくり返る程度のものであったことを意味する。
この現象は1980年代半ばまで引き継がれたが、1990年代には、現役合格率が浪人合格率を凌駕していく。
今や、国立大学医学部の合格者や東京大学の合格者は、
圧倒的に現役比率が高い(東大で約65%)。
1年の浪人程度で、逆転できる差ではなくなったのだ。
トップとの大きな差が開いた競争、つまり同一世代の中で、
絶望的なほどの学力格差が広がっているのである。
このように、学力低下ではなく、学力格差にこそ深刻な問題があるのではないか。

別の視点で考えてみよう。
浪人して上位の大学にステップアップしたとして、幸福になる確証はあるだろうか?
浪人するために差し出すのは、労働年限1年分の賃金と、予備校代など1年分の経費である。これを凌駕する見返りがあるならば、浪人する意義があるだろう。
加えて、さらに上位の大学に合格する保証があれば、喜んで浪人するだろう。
ただ、今の都市部の学力上位の高校生は、決してそのような学力の逆転を許さない(完璧にではないが)
たとえば、桜蔭中学から桜蔭高校に進学した者たちは、東大、国立医学部に進み、
成績中位以下のものが早稲田や慶応などの私学に進学する。
和歌山大学が偏差値54ならば、東大や早稲田、慶応は70前後である。
現代の偏差値70は、12歳で一般的な18歳が解く問題よりも難度の高い問題を
こなすことで、やっと手に入るものである。
18歳で偏差値50周辺をうろうろする者にとっては、明らかに高嶺の花である。
それでも偏差値上昇を希求し、あえて浪人して偏差値60の大学に入ったとしよう。
しかし、そのことで偏差値50の大学では手に入らない人生のパスポートを手にすることができるだろうか?
おそらくそんなことはないだろう。偏差値50と偏差値60で、人生の成果が大きく変わる予感は得られない。ならば無理をしても仕方がない。

では浪人して、偏差値70超の大学に入学することを目指すのはどうだろう。
確かに学歴社会の日本では、偏差値70超の東京大学や慶応大学に入学すれば何かが起こりそうな予感はする。
しかし、これらの大学へのパスポートは、先の桜蔭中学の問題を見ればわかるように、12歳の段階でほぼ配り終えられているのである。
つまり、1970~1980年代ならば、学力格差がそれほど拡大しておらず、逆転の余地もあったが、1990年代を通じて早期教育が貫徹されるにつれて、
学力競争は「負け」が早くから露わになるものとなった。
そして、一度「負け」が確定すると、勉強は序列と格付けのためだけに機能しているので、この競争に参入する意義がなくなってしまうのである。
日本の高校生は、大学受験こそが勉強の最大の動機づけとなっているので、
全国模試を受け、自分の位置がそれほど高くないと思い知ったとき、
さらに勉強を試みても偏差値70などに到達できるはずがないと悟った時、
「そこそこでいい」「AOでいい」「推薦でいい」と考えるようになる。
これは極めて自然なことである。
21世紀に入って以降、勉強は一部の資産家の専有物になりつつある。
ちょっと勉強すればすぐに成績が伸びた1970年代的風景と、勉強しても成果(序列)が上がらない21世紀の風景はまったく異なる。
これでも「ゆとり教育」によって勉強しなくなったなどと言えるだろうか?
断言するが、「ゆとり教育」政策を転換したからといって、子供の学力や受験に対する競争心が活性化することなど決してない。

当然のことだが、全体の学力を上げようとする際、子供に競わせるほど
愚かなことはない。勝ちと負けが生じれば、負けた側は勉強をやめてしまい、
全体の底上げなどできるはずもないからだ。
つまり、全体の学力を上げるための最大の決め手は、全員が同じ教材に取り組み、その結果を集約し、苦手な部分を抽出したうえで改めて教師が指導し直すという、落ちこぼれを作り出さない仕組みである。
現代のように、家庭教育のためのアイテムが豊富に売られ、塾が一般化している環境では学力上位層は学校で何をどうしようと成績を伸ばしていく。
ならば、全体の学力を上げるには底上げを図ることが重要であり、子供のつまづきがどこで起こるのか、またそれに対してどう対処すればいいのかを大人が競って研究することが大切なのである。
つまり、競うのは大人であって、子供ではない。

この秋田の試みを踏まえてあえて言えば、子供の学力低下を抑止することは
「面倒」だが、方法論として困難だということはない。
さらに言えば、小学校や中学校での学習意欲の再構築は、簡単ではないが、決して難しいことではない。
むしろ問題は、小中学校の学力低下を抑止したからといって問題が解決されるわけではない、というところにある。

なぜ秋田や福井の高校生は、基礎学力の高さを媒介に、大学受験の世界に打ってでないのだろう。
センター試験の得点の都道府県ラインキング(図12)を概観していると、
上位の都道府県は大都市、あるいは大都市への交通の接続のよい都道府県だということに気づく。これらの都道府県は、文科省による学力テストが不振でも、大学入試になると台頭してくる。
都市部は富裕層が多く、塾も豊富など、さまざまな要因が思い浮かぶが、
興味深いのはベスト10に近畿地方の府県が凝集していることである。
なぜ近畿なのか?
仮説として、さまざまな点での大学へのアクセスのよさを挙げることができる。
学力トップ層は、全国一律でトップだから問題ないが、そのすぐ下の層の勉強の意欲を高める点で、近畿の大学は非常にアクセスがよいのだ。
まず、近畿に住んでさえいれば、自宅から通うことのできる、
そこそこのレベルの私立大学が豊富にある。
また近畿の私大は、全国の受験生を集める誘因力に乏しく、その勢力圏は西日本が中心であるため、それほどレベルが上がらない。
つまり、お買い得感がある。
そのため、センター試験で五教科七科目を強いられる国立大学入学をあきらめても三教科の私立大学に自宅から通うことができるので、それが勉強継続の根拠となりうる。
逆に地方の高校生となると、この「そこそこ感」は得られない。
国立大学をあきらめた途端に、選択肢がなくなってしまう。
東京の私立に通うには、下宿代など莫大な経費がかかり、地元の私立は地方ゆえに偏差値序列が低く、よって受験勉強を求めない。
(ほとんどAO・推薦で決まってしまう)
つまり、国立に行かずに地元にとどまると決めた瞬間、受験勉強は必要なくなってしまうのである。
センター試験ランキング下位の県は、地元の国立をあきらめて、なおかつ地元にとどまろうと考えた瞬間、私大進学の選択肢がないところばかりである。
つまり地方の高校では、地区を代表する一番手の高校に属する高校生にしか、勉強をする根拠がないのである。
1980年代までならば、大学進学者自体が少数派だったために、このことはまったく問題視されなかった。また1990年代の高校ならば、学校推薦による高卒就職が一般的であったため、学力下位の高校生でも辛うじて勉強する意義は保たれていた。しかし、高卒就職は求人が激減し、特に地方の疲弊は甚だしい。
それならばと、無理をして大学進学を志すとしても、全国模試を一度受ければ自分の学力の位置は実感できる。
自分の成績が中位以下ならば、選択肢は極めて限られる。
東京の私立は金銭的に無理、まして国立など、人生に大きなメリットを及ぼすほどの学歴には手が届かない、となれば勉強の意義は極めて低くなる。
高校を普通の成績で卒業し、地元の私立大学や専門学校に入学すればいい、と思った瞬間、日本の現行の教育制度においては勉強の熱など冷めて当然なのだ。

大学入試の世界では、この高度に吊り上げられた難問の出来不出来が、大学入学後の成績と相関を持たないとする報告もある。

入学試験の成績よりも大学入学後の初期教育の方が、学生個々のその後の学びに対する影響力が強いということである。
いずれの学部でも同じ結果が出ていることから、これは疑いようのないことだと考えられる。
入学試験よりも大学入学後の初年度教育にポイントがあるならば、試験によって合格と不合格を分断する意味は何なのだろうか?

このように考えると、図1で各国の大学の中退率を挙げたが、
とりあえず入れるが途中で追い出すという欧米の大学の仕組みが極めて合理的だということがわかる。
試験を苛酷にするよりも初年度教育を苛酷にした方が、後の学問探求に極めて良好な結果をもたらすのである。
入学試験を実施しないと、東大や京大にバカがたくさん集まって混乱すると危惧する声もあるだろうが、それは結局、日本の大学の初年度教育の幼稚さを物語っているだけである。

この「分数ができない大学生」シリーズは、随所に錯誤と誤解があふれ完全に日本の教育をミスリードし、過分な荒廃を誘発した。
端的に言えば、「分数ができない大学生」の執筆者たちは、大学自身の失敗を、高校や中学に押し付けたのである。
繰り返し述べるが、1994年の東大3年生は、日本の戦後史において比類なき
受験学力を持つ、受験エリートの体現者である。
このエリート学生たちが、大学入学後にすさまじい勢いで勉強をやめている姿に、日本の教育の問題点が露わになっていると考えるべきである。

私立中学は大学の求めるまま仕組みを作り上げている。
だから、私立の教育が悪いのではなく、そういった仕組みにメリットをもたらす入学試験を延々と続ける大学教授、つまり「自分」が悪いのである。
大学の教員が、大学生に問題を感じるならば、入学後教育と試験制度を見直してみるべきである。

戸瀬教授は「普通に考えれば、経済学を勉強するのに、数学力が必要なのは
当然なのですが」と主張しているが、この問題を解決する任は私たちではなく、
一義的に慶応大学経済学部の教員にある。
実際にやるべきことは恐ろしく単純である。
たとえば、入学試験で数学を必修化する、あるいは大学1年時に基礎数学の必修講座を設定し、試験をする。いや、もしかすると必修講座すら必要ない。
教養課程の最終段階で必修のテストをするだけでも十分に学生は勉強する。
さらに、英語検定と同様に数学検定が存在するので、
その検定結果を専門課程エントリーの条件にするのも一つの手である。
この手法ならば教員に何の手間も必要ない。

高い学歴を誇る大学生がレポートを書けないことも、親子密着が東大教授によって
懸念されることも、断じて「ゆとり教育」が原因ではない。
むしろ「ゆとり教育」を排撃したことによって起こった、
強烈な点数至上主義への反動が原因である。

できる学生は親子密着。下位の私立大学は、学生として何も得なくとも卒業可能。
周囲の大人は大学生の奇妙な生態をすべて「ゆとり教育」批判で片付ける。
ダムは造れど高校の授業料の無償化は長い間拒み、大学生に奨学金をなかなか与えない。
一発勝負の試験を重視する日本型教育システムは、少子化によって今後間違いなく滅びゆくだろう。
この制度は社会が成長過程にある時のみしか機能しない
(そもそも機能したのかという問題すら残る)
急速な人口減によって、各大学の入学学力の基準は続々と下落し、次々と「名ばかり大学生」を量産していく。さらにこれに理系離れというインパクトが加わり、中位私立の理系学部、地方国公立大学の理系学部のレベル低下は想像を絶するほど急である。

1980年の4年制大学の学生数は約40万人。現在の70%に過ぎなかった。
ならば現在の60万人の入学者の下2割の学生は、新たに台頭した勉強しない、できない大学生である。
これらの学生をどんどん入学させる形式だけのAO入試や推薦入試を規制し、最低限の学力を設定して大学入学に壁を設けたとしても、結局機能しないだろう。
なぜなら、何としてでも定員を充足させたい大学は、どこまでも学力の水準を下げるからだ。それをしないと、大学が倒産してしまう。
勉強しない大学生は、そういった「大人の事情」を無意識に理解していると考えるべきである。

結局、日本という国は、勉強を進路選択から切り離し、単に受験の成果とだけ結びつけてしまったために、受験をしないなら勉強をしないという、
壮大な無気力空間を構築してしまった。
そうならないように、他の先進国は一部のエリートを除いて、大学入学資格を他人と争う形にせず、大学に入った後、選別をするという道を選んでいる。

敷居の問題は、学費という側面からもうかがえる。
日本国内では当たり前だが、ごく普通の常識からかけ離れているのが日本の高額な学費である。
どこの国でも学費は国費か奨学金によって支えられている。
中位の大学が私立であり、かつ高額な授業料を徴収し、さらに奨学金の資格取得に厳しい制限を設けている先進国は日本だけである。
これでは社会人の足も遠のくはずである。
日本の大学のアクセスの悪さは天下一品である。
また高校も同様である。高校の授業料の無償化を宣言していない国は、国連加盟国において日本とマダガスカルとルワンダだけである。
この3ヶ国だけが(実際に無償化する・しないでなく)
無償化が望ましいと宣言することすら拒んでいるのだ。
絶対に高校の授業料は免除しない、徴収すると決然と言い放つ国はこの3ヶ国だけなのである。

その理由は、義務教育ではないから、自己責任だからといったところだろうが、
それで学力が問題だの、理系離れだの、「ゆとり」批判だのと騒ぐのは一体どういうことだろう。
日本は大学ばかりでなく、今や高校への接続性も極めて低い。
学費滞納をしている高校生は近年激増しているが、高校生活が続けられるかどうかわからない、アルバイトに忙殺される、では勉強どころではないだろう。
それにもかかわらず、政権が代わり、高校授業料の無償化が政策の俎上に載った瞬間、財源はどうするんだの大合唱である。
ダムの必要性は血眼になって語り、首長が勢ぞろいで陳情するが、子供の学費はマダガスカル政府、ルワンダ政府同様、絶対徴収するというスタンスである。
もうすでに日本は先進国ですらない。
日本国の終焉を予感させるには十分な大人たちのふるまいである。
学費に充てる予算がないとしても、どうあっても作り出すのが本来の大人の役割なのではないか。

入った後のことを考えさせたうえで、それをも含めた学力を要求する。
これは一つのアイディアである。
定員の削減を突如行えば子供は暴れるが、アクセスを高めたうえで
学力を要求すれば、おそらく反発は生まれない。
たとえば学費を社会が負担するということも、子供たち総体の大学教育への結びつきを強め、間違いなく子供の進学にまつわる心理に良好な影響を及ぼす。
そして、「負担するから勉強しろ」と言っても、おそらく大きな反発は生じない。
面倒だと思う子供もいるだろうが、間違いなく粛々と勉強する。
他人と競わせることなく、自分の学びの道を内面化させるプロセスを踏めば  間違いなく子供は応える。

公費で高校生の学費を負担するならば、ぜひ義務教育修了の資格試験を実施してもらいたい。他と競うのではない、資格試験の形での実施を強く要望したい。

読書は自由になされるものだという意見もあるが、読書しか娯楽の無かった時代と異なり、放っておいたら現代の子供が古典名作を読むわけがない。
実際に読ませてみれば、子供は「面白い」と言うが、読者は自由になされるものだという
自己責任論に翻弄され、今の教育環境では古典名作とのアクセスが著しく悪い。
大学受験の現代文では奇妙な問題が頻繁に出題されたり、小学生に難度の高い問題を
とくことを要求したりするが、これは読書にはつながらず、問題を解く技術が磨かれるだけである。

小手先の勉強法や既成の方法論では、この問題を「解決」することはできない。
1990年代後半以降、私達の社会では、勉強から離脱する子供たちが圧倒的に増えており、大人の側もそれに抗する処方箋を持てずにいる。
ならば、求められているのは、新しい試みではなく、別の制度設計なのではないだろうか。
つまり、問題は学力論ではなく大学論なのである。
まず議論の出発点を大学教育、あるいは選抜試験のありようから始めるべき
なのではないか。小学校や中学校、高校を「改革」しても誰も踊らないが、大学入試が変われば、教育熱心な家庭は一斉に変化する。
だから、小学校や中学校、高校の小手先の改革はすべてやめた方がいい。
改革など何もせず、勉強をしない子供に大人が一生懸命教えるということだけを念頭に置いて行動するべきである。
高校卒業時に中学レベルの学力を問う資格試験を実施し、それに向けて大人が競い、
より多くの子供が目標を達成するべく奔走する。
塾にはできないが、小学校や中学校、高校にできることは学力の底上げである。
これは目立たないが、極めて重要なことである。
なぜならそういう手厚い教育を受けた子供は、学校を信じ、社会を信じ、そして大人になったときに子供を学校や勉強に積極的に関与させるだろうから。

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2021年12月10日

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タイトルだけ見ると、「今どきの大学生はダメだ」というような大学生批判の内容なのかと思う。しかし中身はむしろ今どきの大学生を擁護している。ゆとり教育批判に対する批判や現在の大学入試に対する苦言など、一読するのにふさわしい一冊。

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2013年01月03日

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日本型教育制度への真摯で切実な問いかけ。切り口も鋭いし、ほとんどの論考(虐待や援助交際に関してはいただけぬ)が的確に問題の本質を捉えている。しかし、返す返すもうすら寒くなるような内容、多くの示唆を受けた。

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2012年10月28日

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ネタバレ

現代の大学生に、ではなく日本の教育制度に危機感をもった。
現状への憤りをあらわにし、先入観やメディアに囚われずに分析して、今後の大学生の在り方や周りの大人達の態度に指針を示す著者の姿勢に好感が持てる。

学力低下はゆとり教育のせいだという報道にはじまる責任の押し付け合いや、異常な学費・アクセスの悪さ、学力社会において自身に価値を見出す難しさを述べている。現代の大学生が置かれている環境を知るには良書
もしもこの環境が、学ぶ・生きることへの意志を阻害しているのなら今後改善しなければならないと思う。
「なりたい自分の形成のために何を学びたいか」を問い、自分と向き合っていきたい。

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2013年04月19日

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 大学生が勉強をしない、学力が低下している、と教授らは嘆くが、自分たちが入試制度を変えたり基礎学力をつけるための対策を取ったりしないから、とのこと。
 該当世代かどうかはさておき、比較的若い世代がミスしただけで「ゆとり世代が〜」云々と責められることにずっと違和感を感じていた。原因がゆとり教育にあったとしても、その世代に生まれた人に罪はない。また、生まれた世代の人口により、大学入試の難易度は変わる。センター入試など変わったらしいが、合理的で底上げを図るような制度改革はまだ先なんだろうな。

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2022年02月24日

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現代の大学生には十分な学力を持たない層が含まれるとかそれ以前の中等教育の話など面白かった。
さてさて、このような現状で大学入試や教育はどのようにあるべきか。

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2021年10月31日

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現在の大学入試、ならびに教育のあり方について考えさせられる一冊。

AO入試枠が増えつづける私立大学と、筆記試験の難易度が右肩上がりの国立大学。
「大学で何を学ぶかが大事」なんてきれいごとは、もはや言ってられないレベルにまで、教育格差は広がっている。

現実的な問題点を突きつけるのみでなく、解決策についても検討していて、現状批判にとどまらない点がすばらしい。

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2011年12月06日

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タイトルを見ると安直なゆとり批判の本かと思いきや、大学生およびそれを取り巻く環境の問題点を「ゆとり」の一言で片付けず資料を元にわかりやすく指摘している良本だった。最近の若者の学力が問題なのは「ゆとり世代」だからではなく、少子化・大学増加・AO悪用による「勉強させない環境」にあることがわかった。と同時に日本の教育行政に危機感・末期感・無力感をおぼえた。

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2011年08月02日

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本題とは裏腹に大学生を批判する本ではない。むしろ、そういった状況を作り出した大人たちや批判だけし続ける大人たちへの批判をした本。

予備校の先生であるから多くの大学生・高校生を見てきているのだろう。とても明快ではっきりとした批判をしてくれていて気持ち良い。

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2011年02月25日

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Rメモ:160
2009年12月20日初版。

サブタイトルは「日本型教育制度の終焉」。

日本の大学制度への批判と、教育改革の方向性への提言。

小中学校に問題を求める姿勢では学力のない大学生:「名ばかり大学生」はいなくならない。
彼らにとって大学生はアガリであり、そこで勉強する動機はまったくない

それは社会の側がそういったシステムを作ってしまっているから。

後半に紹介されている東北大学の取り組み:積極的で内容あるオープンキャンパスの事例は非常に興味深い。

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2018年10月09日

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この本は、最近の学生の学力低下を統計などを使ってあれやこれやと謳った内容のものではない。
そうではなく、現状をきちんと認識しなぜ学力低下が起きたのかを提示する。もちろんこれはただゆとり教育がだめだ、などという一般論で終始しているわけではない。

この本を読めばいかに現在行われている方策が実態にそぐわないものであるかわかる。

興味深かったのは、問題であるのは学力論ではなく、大学論である、というところ。

偏差値競争の問題はいったんその競争に脱落してしまったものは生涯勉強しなくなる、ということである。それだけならまだしもそれが子どもに続くからたちが悪い。

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2011年05月25日

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[ 内容 ]
21世紀の大学生は、70年代の暴走族レベル?
入試問題や教育関連の統計データの分析から、新たな視点で教育問題に対する処方箋を提示する。

[ 目次 ]
1章 学力は本当に低下しているのか?(学力の現状;大学生の増員と少子化;二一世紀の大学生は、七〇年代の暴走族レベル;定員を絞ればいい?
2章 競争の激化は何をもたらすか(狭き門の問題;管理教育;荒れる女子高生;いびつな競争のかたち)
3章 「学ぶ意欲」を奪うシステム(受験の現代史;絶望的な学力格差)
4章 学力日本一・秋田の大学進学実績はなぜ伸びないのか?(秋田は成功事例なのか;勉強をやめる高校生;難しい試験の意義は?;奇妙な論理、奇妙な大学生)
5章 日本の大学システムの問題点(名ばかり大学生は今日も行く;まとめと展望)

[ POP ]


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[ 関連図書 ]


[ 参考となる書評 ]

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2011年04月12日

Posted by ブクログ

面白かったです。
タイトルを見たときに、近頃の大学生を嘆き、大学までの教育
(小、中、高)について批判する本なのかと思いました。

しかし、筆者は大学や社会の変化に名ばかり大学生を生む原因があるとし、大学入試制度が変われば、高校、中学、小学校などが変わっていくとしています。

ちょっと言いすぎだな~と思う部分もありますが、勉強になりました。

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2011年03月24日

Posted by ブクログ

現代の大学を取り巻く問題についての本。

日本の上位大学は確かに入るのに比べて出るのは楽に感じる。

下位大学は入るのも出るのも楽らしい。

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2010年02月20日

Posted by ブクログ

今まで読んできた「学力低下」関連本とは異なる視点。

日本の大学は、入るのが一番難しく、中での勉強と出るのは簡単、という統計データは見たことがあるが、これを人口の変化や女子進学率の上昇などと組みあわせて、大学の入試制度と大学教育の問題だと論じている。

大学関係者からは反論もあるだろうが、考え方としては非常に参考になった。

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2010年01月11日

「学術・語学」ランキング