【感想・ネタバレ】人生論ノートのレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

このページにはネタバレを含むレビューが表示されています

Posted by ブクログ

ネタバレ

「不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。」(「懐疑について」より)。やっぱり、人の基本部分って「ゆらぎ」であるということを言っていると思いました。僕もずっとそう考えています。どこかひとつの位置に安住するものではない。できるだけ物事をしっかり見つめ、捉えていたいのならば、そうなのです。

懐疑には節度が必要である、と三木清は言う。手順を踏まず、工程を飛ばした懐疑は節度がない、といえると思います。節度のない懐疑は、独断であり、宗教化に陥り、そして情念に基づいて働く、と著者は続ける。また「真の懐疑家は論理を追求する。しかるに独断家はまったく論証しないか、ただ形式的に論証するのみである。」とあります。こういう、ある種のつよさを持って世の中に懐疑をはさむ(意見する)のがベターなんでしょう。

次に「幸福について」のところで、「愛するもののために死んだ故に彼らは幸福であったのではなく、彼らは幸福であった故に愛するもののために死ぬる力を有したのである。」とあります。こうやって逆転して見てみたがための見抜きは素晴らしいと思いました。そうかもしれないなぁ、なんて思いませんか。幸福は人格である、とゲーテを引いて三木清は断言しています。これは、他律性に縛られないことが生きやすさに大切だ、という僕の考えと重なっているものです。自律性という捉え方と、人格(肉体・精神・活動の総合)っていう捉え方ですから、僕の頭の中のイメージとしては符合するんです。

というように、自分の考えの証左を得られるようなところも少しあって、勇気が湧いてくるような読書にもなりました。

また、今日「非認知スキル」と言われているものを「習慣」という言葉で説明し、ベストセラー『サピエンス全史』の要諦である「虚構」についても、「人間の生活はフィクショナルなものである」として明らかにしていました。世代が変わるたびに忘れていくことだから、おんなじようなことを人間はくりかえしくりかえし、再度論じる人が出てくるということなのかなあ。伝承されるにしても人口に膾炙するにしても、情報量が多いし濃いからなのかもしれないです。

こういうのもありました。「自分が優越を示そうとすればするほど相手は更に軽蔑されたのを感じ、その怒は募る。ほんとに自信のある者は自分の優越を示そうなどとはしないであろう」(p63-64) これは現在でいうマウンティングに通じる話。マウンティングは、いまや若者にとってメジャーな行為ですよね。それはたとえば僕らの世代が若者のときにそういった波に席巻されていたなら、やはりマウンティングは定着していたと思うモノ。若者ってのはたいてい自信のない存在だろうから、無理してでも優越を欲しがってマウンティングが始まるということになります。つまり、「マウンティング」≠「自信がないことの告白」。あと、「自慢」っていう優越がありますけれども、マウンティングほど他者を組み伏せようとする力は持っていないのだと思います。発散的というか放出的という感じで。まあ、ノーマルな自慢もあれば、マウンティング的自慢もありそうですが。そして、マウンティングがはびこると、ただの「自慢」やただの「事実」すら、受け取り手によって被マウンティング化されてしまいがち。そんなつもりはないのに、相手が「マウンティングされたぞ!」という表情なり反応なりするというアレ。そして、それがマウンティングではないことが理解されない。そういう人に出合うことはふつうにあるので、それゆえマウンティングの袋小路感があります。だから、これを回避するにはみんなが自信を持つことなのだから少しずつ実力をつけていくといいのになぁと思います。そして実力を褒め合えて認め合えるといいのになぁと。せっかくついた実力を種にマウンティングせずに。再度言いいますけど「マウンティング」≠「自信がないことの告白」です。「君をほめたいから、とにかく少しでも実力をつけてみて!」っていう脱マウンティングにつながるスタンスの拡散を希望しますねえ。マウンティングによってみんな要らないちょっとした怒りを自然に抱えあうのはどうかなぁ、ですから。

他、利己主義者は自意識が強くそして想像力がない、と定義されていたりなど、響いてきてこちらの思索を活発にしてくれるような言葉が多々ありました。以下にいくつか興味深かったものを引用します。


「感傷は、なにについて感傷するにしても、結局自分自身に止まっているのであって、物の中に入ってゆかない。批評といい、懐疑というも、物の中に入ってゆかない限り、一個の感傷に過ぎぬ。」

「感傷は矛盾を知らない。人は愛と憎みとに心が分裂するという。しかしそれが感傷になると、愛も憎みもひとつに解け合う。」

「あらゆる徳が本来自己におけるものであるように、あらゆる悪徳もまた本来自己におけるものである。その自己を忘れて、ただ他の人間、社会のみ相手に考えるところから偽善者というものが生じる。」

「『善く隠れる者は善く生きる』という言葉には、生活における深い智慧が含まれている。隠れるというのは偽善でも偽悪でもない、却って自然のままに生きることである。自然のままに生きることが隠れるということであるほど、世の中は虚栄的にであるということをしっかりと見抜いて生きることである。」

「生活と娯楽とは区別されながら一つのものである。(中略)娯楽が生活になり生活が娯楽にならなければならない。(中略)生活を楽しむということ、従って幸福というものがその際根本の観念でなければならぬ。」

0
2021年04月19日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ハッとさせられるようなフレーズが随所に散りばめられている。
人は言葉を使って考える以上、その言葉の意味をどう理解するかで、見える世界は変わってしまう。
現代人の抱えるあらゆる問題の「根っこ」を見るために、今、このように丁寧に言葉・概念を掘り下げることは、とても有効で重要なことだと感じた。

0
2018年12月06日

Posted by ブクログ

ネタバレ

本書裏表紙の説明文に、著者のことを「ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった」とし、本書については、その著者の肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集」と解説されていた。

本書は文学ではなく、社会評論の要素が少し入った、どちらかというと哲学なのかなという認識で読んだ。そして、確かに肌のぬくもりは感じられたし、現代でもうなづけるような言葉が幾つもちりばめられていて、結構な箇所に傍線を引いた。

自ら選んだ23のテーマについて語っている。かつて「文学界」という出版物に連載されていたもののようだ。

後半のほうでは、例えば次のような定義にイチイチ納得させられた。

「娯楽について」
「娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でなければならぬ。」

「希望について」
「希望に生きるものはつねに若い。いな生命そのものが本質的に若さを意味している」

「旅について」
「人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである。」

「個性について」
「個性は宇宙の生ける鏡であって、一にして一切なる存在である」「個性は自己自身のうちに他との無限の関係を含みつつしかも全体の中において占めるならびなき一によって個性なのである」

そもそも、本書はちょっぱなから「死について」という大きなテーマを扱っている。本書を執筆したとき、自ら書いた「後記」の日付から著者は44歳だったと想像できる。そしてその稿の中で「40代は初老」であると述べていた。また初老に差し掛かった著者は、「死の恐怖」を感じなくなってきたとも言っていた。

恐らく著者は、人生の要素の中で「死」のテーマが最も大事で、「死の恐怖」の克服が最重要事項と考えたのではないだろうか。

そしてその次は、2番目のテーマである「幸福」だったのではないか。また後ろのテーマへ進むほど、前のほうのテーマで述べられたことが前提となっている。

日常で考えさせられるようなテーマにも触れている。
「虚栄心」と「名誉心」はどう違うのか?
これらは最も区別されなければならないのに、もっと混同されているという。これらを明確に区別することは、人生における知恵の半分に当たるとまで述べる。

「怒」と「憎み」とも本質的に異なるのに、混同されていると指摘している。「怒」には名誉心からの「怒」があり、それは人間的であるという。

「嫉妬」は、多忙でしかも不生産的な情念であるという。ベーコンが言った「悪魔」に最もふさわしい属性であると述べている。これは、23のテーマのなかでも最悪のイメージが漂っている。

「感傷」というのもよくない。「偽善」もよくない。「感傷」も「偽善」も、それらは「虚栄心」によるものであるとの指摘である。

「虚栄心」の本質を理解し、「名誉心」との区別がつけられるということは、確かに人生に大きく影響を及ぼしそうだなと実感している。

0
2019年11月03日

Posted by ブクログ

ネタバレ

健康は個性である、健康は不健康によって認知される。この言葉がすごく心に刻まれている。きっと読まなかったら、この本に出てくる感情を混同し認識つづけていたと思う。
比較的難解な言い回しもなく、じっくり噛み締めるように読んだ。何度も見返していきたい。

0
2017年07月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

死、幸福、懐疑、習慣、虚栄、名誉心、怒、人間の条件、孤独、嫉妬、成功、瞑想、噂、利己主義、健康、秩序、感傷、仮説、偽善、娯楽、希望、旅、個性という23のテーマについて書かれています。

こうした系統の本にしては、言葉が率直であり比較的読みやすい方だと思います。
どちらかというと軽快な文章で、読み物として読めるのではないでしょうか。

ネットのレビューを見るとわかりくいと言う方や
内容がぴんとこないという方もいらっしゃるようで
賛否両論の様子ですが、
私は大変わかりやすく、また内容もしっくりくるものばかりでした。

筆者の三木清は、ドイツに留学してハイデッガーに師事し、
昭和初期に活躍した哲学者です。
かと言って平成の現代においても古さを感じる内容ではありません。
これは、人は変わらないということの証左であるとも言えます。

健康は不健康によって認知されること、信仰の根源は他者にあることなど
読んでいて思わず強く頷くことが多いです。

紙幣はフィクショナルなものであるということ、幼少期にとても疑問に思ったことがあるので、こうして書かれているのをみてどこか安心しました。
"人生はフィクション(小説)である。だからどのような人でも一つだけは小説を書くことができる。"
というのは面白い言い回しだなと思います。

他の人に対して自分が良い存在であろうとする為の虚栄は、確かに良いことであると言えます。
名誉心と虚栄心は違う。区別して後者に誘惑されないのがストイックである。
という記述にはっとさせられました。
この2つは、とかく混同されがちであると感じます。
人は環境と直接に融合して生きることができず、むしろ対立し戦うことで生きるものであり、
だからこそ名誉心とは戦士の心でありまた武士道であります。


世間の評判はアノニムであり、それを気にするのは虚栄心。
匿名と抽象は違うものということも、見逃されがちな事実のように思います。

すべての名誉心は何らかの仕方で永遠を考えていて、
名は個人の品位の意識で抽象的なものとしての永遠である。
翻って虚栄心は時間的なものであるという記述に、腑に落ちたものがあります。

武士道を語るとき、名誉のため、お家のために命を捨てることを
現代の感覚のままに浅墓だと言われることに納得がいかないのですが、
名を残す、体面を重んじることは永遠だからこそ、大切にしたのだと思いました。

"抽象的なものに対する情熱によって個人という最も現実的なものの意識が成立する"
宗教は永遠とか人類だとかの抽象的なものを具体的にし、名誉心の限界を明瞭にするものだという描写もしっくりきました。

具体的な社会では抽象的な情熱である名誉心は一つの大きな徳であることができたのに、
社会が抽象的になった為に名誉心も抽象的になり過ぎて根底がなくなり、
虚栄心と見分け難くなった。
これが先程あげた武士の名誉心が現代では理解されにくいどころか
馬鹿にされることすらある理由なのではないでしょうか。

同様に怒りも良くないことのように近代では捉えられがちですが、
怒りそれ自体は悪いものではないはずです。
避けるべきは怒りでは無く憎しみ。混同されるのは怒りの意味が忘れられているからだという記述に、なるほどと思いました。
確かに神は怒りを表しますが、憎いからやっているわけではありません。"神の怒を忘れた多くの愛の説は神の愛をも人間的なものにしてしまった。"という部分が、確かにある気がします。

人間が怒る時というのは名誉心からくる怒りであり、名誉心と虚栄心の区別が曖昧になった現代では、怒りすら曖昧になってしまいます。
無性格な人間が多くなったということであり、怒る人は少なくとも性格的だということになります。

昔の人間、具体的にはこの場合、江戸時代後期から明治あたりでしょうか。人間は限定された世界に生きていたというのは非常に頷くところです。
地域が見通せていて、相手が何処の誰でどんな人か、
道具ひとつとっても誰が作ったものかわかっていました。
つまり人間に性格があったといえます。
しかしながら現代は無限定な世界で、全てがアノニム(無名)でアモルフ(無定形)になってしまっています。


以前、現代の仕事がつまらないのは当たり前だという意見を目にしたことがあります。
昔なら、ある品物があったとして、これは自分が作った、隣の職人が作ったものであり、
どういうところがどんなに素晴らしいかよくわかっています。
だから、本当に良いと自分が思うものを、良いところをありったけ事実だけ述べて
人に広め、対価をもらうことができます。
翻って、現代は顔の見えないどこかの誰かが管理して作った工業製品で、
知識としてしか品物の良さも知らず、それをまた顔の見えない誰かに売るのが
営業おちう仕事になっているからだ、というものです。
これも、全てがアノニムでアモルフになってしまったということでしょう。

現代は全てが薄まり混ざりつつあるのかもしれません。

現代は成功=幸福と捉えられがちな気がします。
幸福は現代的では無く成功は現代的だから、この2つが相反する意味にとられてしまうのです。
人の幸せを羨ましいと思うのはまだしも、妬むのが理解できなかったのですが、
そういう人は幸福=成功と見ているから、というので納得がいきました。

幸福の基準は飽く迄も個人であり人それぞれですが、
成功は一般的な基準があり嫉妬がされやすいというのです。

幸福は存在に関わり、成功は過程に関わることから、
他人から成功しているといわれてもピンとこない人もいるというのも
なるほどと思いました。
自分にとっては、まだゴールを目指して進んでいる最中で、
それを成功していると羨まれても、
当人からすればゴールを目指して頑張っているだけでしょう。
でもそのスタンスがまた、嫉妬する人にとっては
謙遜であったり不遜であるように感じてしまい、
余計マイナス感情を持ってしまうのではないでしょうか。

成功と幸福を混同してしまえば、不成功=不幸になってしまい、
幸せを自覚することが難しくなります。
現代の人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった、ということです。

成功は幸福とは別個のものであり、ここを切り分けて
成功することを一種のスポーツとして追求するというのは
自分にとっては目新しい表現ではありましたが、
成功している人を見るとそういった側面があるように思いました。
自分の幸福を揺るがすものとして捉えるよりも、
スポーツで勝利を目指すように成功を追い求める方が確かに健全です。

近代の成功主義型は型として明瞭ではありますが、
現代は個性を重んじると言いつつも、実態としては
個性ではない個人意識が発達しています。
型的な人間が増え、謂わば量産型な人間で個性的ではなくなってしまった
という記述に危機感を覚えるところです。

この本の中の現代と私が今この本を読んでいる現代とで差があまり無いように感じるのは、
人間が人間らしく生きていたのは幕末前後であったからではないかと
改めて思ってしまいました。

0
2017年05月31日

Posted by ブクログ

ネタバレ

人生とは?

一文一文噛み締めながら読む。

すると、日常の些細な悩みや不満などから、ぐっと自分をズームアウトし、

宇宙の中に漂いながら、「生きる」、という普遍的なテーマに近づくことができる。

時代が変わっても、あまりにそのテーマと著者の主張が普遍的なのに驚かざるを得ない。

かめばかむほど味が出る、そんな本。 

立ち止まらないとならないと思ったときに読み返す本。

0
2013年10月28日

「ビジネス・経済」ランキング