【感想・ネタバレ】三浦綾子 電子全集 新約聖書入門 ―心の糧を求める人へのレビュー

550円 (税込)
385円 (税込) 6月27日まで

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 再び、三浦綾子氏の作品だ。著者の作品は、ものすごく深いとこまでを知っているという訳ではないかも知れないが、押し付けがましくも無く、実体験に基づいていたり、読むほうからするとすんなり入りやすい。

 イエスはいつも弱い人々に目を向けていた。イエスのいちばん嫌いなのは、自分を正しいと思っている人間達であった。心の中でいつも「自分は大した者だ。学はある、金はある、そして人に尊敬されている」と数え上げては誇っている人たちである。イエスは誇ることの出来ない人たちには限りなく愛をそそぐが、誇り高ぶる人間には容赦ないきびしさを持っていた。考えてみると、私たちは神の前に立ったとき、本当に誇るべきものをどれだけ持っているのだろう。神の支配する天国に入れてもらうため、私たちは一体どんなものを携えることが出来るだろう。金袋は天国では一文の価も無い。地位があるからといって、先に天国の門を通してもらうわけには行かない。神の前に通用するのは、ただ、心が貧しい、というだけなのである。それは「私には誇れるも何も持っていません」という謙遜だけなのだ。たとえ何ほどかの親切や善行をしたことがあったとしても、それは神の前に何の手柄ともならない。そのいささかの善行や、いささかの親切を誇ることがすなわち高ぶりなのだから。しかも、私たちは、そのささやかな親切や善行の何千何万倍の罪を日々重ねているはずなのだから。人間は所詮、神の目から見れば、罪を犯さずには生きていけない存在に過ぎない。その私たちが神の前に一番に為すべきことは、神よ、私は罪深い者です、という謙遜な思いを持つことだろう。それは簡単に見えて、決して容易ではない。どうしても自分がそれほど悪い人間には思えないのだ。しかし、もし私たちが生まれてこの方、知り合った人々全てに、忌憚の無い自分への批判を聞くとするならば、そこには思いがけないほど多くの自分への悪口雑言があるのではないか。全ての人の批判に耐えうる者は一人もいないだろう。

 「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるだろう」という聖書の言葉がある。この言葉の意味を考えたい。なんで悲しんでいるのが幸いなのか。この世には悲しむべきことがあまりにも多すぎる。親の死、伴侶の死、子供の死、兄弟の死、友人の死、夫の不貞、妻の不貞、離婚、子供の非行、肉親の非行、病気、不和、家業の不振、失恋等あまりにも多すぎる。その悲しみに触れて、私たちは「悲しむべきこと」が何であるかを見失って生きているのではないか。人間として一番悲しむべきことが他にもあるはずだ。それは、自分の不真実、自分の罪、自分の醜さ、弱さ、不貞、狭量、嫉妬等、それらは少なくとも人間である限り、悲しむべき事柄のはずである。ともすれば、悲しみというのは、自分の心の内にあるのである。そして最も重要な悲しみとは、この自分の醜さゆえに、神の国に入るにふさわしくない者であることを悲しむ悲しみではないだろうか。金が無い悲しみは金が与えられれば癒されるであろう。子供の非行は、それが元にもどされればいやされるであろう。病の悲しみは健康になったときにいやされるであろう。肉親との死別の悲しみさえ時間とともにいやされていくものだ。私たちの悲しみというのは、そうした底の浅いところに終わりがちで、自分自身のあり方に対する痛烈な悲しみというのは、あまりにも少ないのではないだろうか。この神の前における自分自身への痛恨を抱くもの、それがイエスの言われた「悲しんでいる者」なのである。つまり、悲しんでいること自体が既に祝福の中にあるということなのだ。すなわちそれは、自分の罪を悲しめないものは、祝福に入れないということでもある。

 一人の人間でも、時と場合によって、良心が変わることがある。人のやった過失は鋭い良心で指摘するが、自分の犯した過失は鈍い良心で弁護する。この世には良心の基準と言うものはない。そして全く同じ良心というのもないであろう。金銭面の良心の高さは同じでも、異性についての良心となるとぐっと差がつくこともある。良心に恥じない、といっても低い良心ゆえに恥じない人もあるし、良心に恥じることをした、といっても、他の人なら痛痒を感じないことを心にかけていることもある。

 罵りや怒りは殺人と同罪である。この世の中で一日中ただの一度も人のことを悪く思わずに生きることの出来る人が一体どのくらいあるだろう。また、人の悪口を言わない人がどのくらいいるだろう。人を殺す罪と、バカと罵る罪は神の前には同罪なのだ。殺人の芽は、実に罵りという種から生えるからだ。怒るとき、人はその相手の顔を二度と見たくないと思うだろう。二度と見たくないということは、突き詰めて言えば、死ねばよいということでもある。私たちは人を悪く思ったり、人を怒ったりするとき、それが実は殺人の芽だということを思ってもみない。思ってもみないが、事実それは殺人なのだ。怒りもせずに人を殺すことは狂人でもない限りありえない。人が人を殺すのは怒るからであり、憎むからである。私たち自身、人に悪口を言われただけで罵られただけで、自殺する人間さえこの世にはたくさんいる。だから舌先三寸で人を殺す、という言葉さえある。いかにイエスが人間という者の実体を見極めていたかに驚嘆せずにはいられない。

 イエスを試すために、姦淫した女を連れてきて、どう裁くか試した愚か者もいる。イエスは、「汝らのうち、罪なき者まづ石をうて」といった。ここでイエスは、人間を裁きうるものは全く罪の無い神のみであることを宣言されたのではないか。と同時に、人間は全て罪人であることを彼らに悟らせようとしたのではあるまいか。決して、イエスは、この姦淫の女を殺す前に、お前達を石で打ち殺すともいわなかった。言えたのに。それが救い主イエスの姿だ。また女にも、再び罪を犯さないように、と新たに生きる道を示された。私たち人間がいかなる過ちを犯しても、その罪におののくとき、イエスはこのようにして私たちをかばい、許してくれることを思わせてくれる。

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2018年05月01日

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