【感想・ネタバレ】NHK「100分de名著」ブックス ニーチェ ツァラトゥストラのレビュー

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Posted by ブクログ

ネタバレ

 さて、「永遠回帰」の意味するものについて見てきました。でも、「何度も繰り返しの人生を生きることを欲する」なんてことは、本当にできるのでしょうか? 大学でニーチェを講義するとき、ぼくはよこくの質問を学生に投げかけてみました。よくある答えは、「いまの人生を全否定するわけではないが、楽しいことがあっても厄介なことはもあったわけで、まったく同じ人生をもう一度というのは実際には辛いかな。一度ならいいけど」というものでした。そして「何度も繰り返していい、というところまで自分の生を肯定する必要なんてあるんだろうか?」と疑問を呈する人もいました。でもなぜ、ニーチェは「永遠に繰り返せるほどの生の肯定」を求めたのでしょうか?
 それはルサンチマンの克服という問題と深くかかわっていると思います。
 ニーチェは、「こうあった」--たとえば「両親が離婚してしまった」「身体の障害をもって生きていかなくてはいけなくなった」「好きな人から別れを告げられてしまった」というような、ネガティブな過去のできごとーーに対する意思の歯ぎしり、ということをいっていました(第二部「救済」)。たしかにこのようなことを耐えつつ生きていくのは辛いものです。だからこそ、どうすることもできない「無気力」を感じ、そこから何かに心理的に復讐したいという気持ちが生まれます。失恋のばあいなら、自分をふった人に対して「どうせあんな女なんか」と急に欠点を探し出したりするかもしれません(ほんとうは素敵なのに)。人間の心にはそんな動きがあって、無力な復讐心で紛らわそうとするわけです。これがルサンチマンです。
 このような状態から、ふつう人はどうやって抜け出ていくのでしょうか。多くのばあいは、しばらくは呻いたり呪ったりしながら、時間が経つにつれて「しかたがない」と思いはじめて、だんだんと受け入れていくのでしょう。ところが、ニーチェは「しかたなく」受け入れるのではまだだめで、「それを欲した(意欲した)」にしなくてはいけない、すなわち「失恋してよかった」としなければいけないというのです。「すべての『こうあった』を『私がそう欲した』につくりかえることーーこれこそわたしが救済と呼びたいものだ」(第二部「救済」)と。
「しかたなしの受容」というのは、みんなわかると思うのですが、「これ“が”いい。私はこれを欲する」ということになると、多くの方が「それは無理ではないか」と感じるのではないでしょうか。たとえば身体の障害であれば、「障害をもったことは、“しかたがない”ではなく、障害をもったことを“欲する”」、つまり「何度生まれ変わっても障害者であることを欲する」までいかなくてはいけないわけですから、これはとてつもなく厳しい要求です。ぼくも最初にこれを読んだときは「何もそこまでいわなくても」と思いました。
 けれどもあるとき、ふと友人のKさんの言葉を思い出したのです。Kさんは、一九八〇年代の初頭、ぼくがまだ二十代のときに出会った人で、「骨形成不全症」という病気を抱えた女性でした。発育不全で身体は小さく、骨が弱くて脆いために骨折を起こしやすいので、彼女はいつも車イスにのって移動していました。以前は看護体制の整った施設で暮らしていたのですが、そこではさまざまな人たちとつき合う「関係の悦び」が得られにくい。当時は「障害者よ、街へ出よう」という「自立障害者」運動が盛んな時期でしたから、Kさんも公的扶助などを受けながら、ボランティアの人にお願いしてアパート暮らしをするようになったのです。
 しかしトイレ介護を受けないと一人ではできないので、夜眠るときでも必ず誰かが付き添っていなければなりません。彼女は二百人ほどの名前をリストにしたノートをもち、今日はこの人、明日はあの人というように、自分のおなかの上に電話器を置いて電話しながら、介護のスケジュールを埋めていたのを思い出します。
 Kさんはこの「自立障害者」運動のなかで、たくさんの障害者や健常者と出会って友だちになりました。彼女は大学生ではありませんでしたが、車いすを押してもらって大学のゼミにも顔を出し、そこでぼくもゼミ生の一人として彼女と知り合いになったのです。その彼女が、あるときこんなことを話してくれたことがあります。
「障害者の仲間の間では、こんな話があるんですよ。『もし天使が降りてきて“あなたの障害をすっかり治してきれいにしてあげる”といわれたら、そのときはどうする?』って。私は『このままでいい。障害をもって生まれたこの身体をもう一度選ぶ』と。それを聞いた二十代のぼくは、「ほんとかなあ? それはちょっと無理があるんじゃないかな」と思って、彼女にもそういった記憶があります。
 でもだいぶ後になって、あらためてこの「永遠回帰」の思想――マイナスな生の条件に対しても“われ欲す”といえるとすれば、どんなときだろう」と考えてみたとき、彼女の「このままでいい」といった理由がわかる気がしたのです。
 彼女にとっていちばん大切だったのは「関係の悦び」だったのだと思います。障害をもって生まれてきて、施設にいれば安全だけど悦びは少ない。それに対して「外に出る」ことは大変なリスクを伴うとしても、さまざまな人たちと出会える。新しい出会いを通じて生活を作れるのは、彼女にとってとても大きな悦びだったと思うのです。「障害だけを見ればたしかにマイナスだ。でも、この障害とともに自分の人生はあった。苦しみもあったけれど悦びもあった。障害のおかげで、他の障害者や健常者の友だちに出会えた。素敵な出会いがたくさんあった。この人生全体を私は愛す」と彼女は心から思っていたのかもしれません。
 あらためて「マイナスをどうやって欲するか」について考えてみましょう。「しかたがない」という言い方は、たしかに受け入れてはいますが「外から押しつけられた」感を伴っています。ですから、「もしこれがなかったら」と考えてしまう可能性が残っている。でも「このこと(障害)が私の生を作っている」と思えたならば、それは自分の人生の内側を形作っているものとして受け入れていることになります。それはもう自分から切り離せる「外からの」ものではない。苦しみも悦びもつくり出すきっかけにもなっている。そう考えるならば、マイナスを含めて自分の人生を肯定できる。そしてその人生を何度でも繰り返そうと思えるのかもしれません。

 ふたたびルサンチマンについて考えてみましょう。そもそも、なぜルサンチマンは「よくない」のでしょうか? ルサンチマンとは「無力感から生まれる復讐心」のことですが、ぼくなりの言い方をすれば、前向きな力を損なうところが問題なのです。
 まず第一に、それは「自分が人生の主人公であるという感覚」を失わせる。自分の人生を自分でコントロールしていけると思える「能動的」な感覚、これをだめにする。さらにもう一つ、「みずから悦びを求めて汲み取ろうとする力」を失わせる。たとえば、同じ時間で仕事をするときに、嫌々ながらやることもできるし、悦びを得ようとすることもできますよね。ルサンチマンとは「ブーたれ」ですから、自分から動く能動性を失わせてしまい、「文句をいう」という微弱な快感とひきかえに、積極的に悦びを汲み取ろうとする力を損ねてしまうのです。

 さて、いよいよ本題へと入りますが、ニーチェの思想のうち、私たちが現代を生きるうえで大事だなと思うポイントをいくつか拾ってみましょう。
 最初に強調したいのは、ニーチェの思想は、まさに「いま」という時代を生きるさいの「柱」になるものだ、ということです。高度経済成長期のように、「いまは自分たちは貧乏だけど、いずれ豊かになれる」とか「あそこには素晴らしいものがある」という目標が与えられない時代です。
 そんななかで、「では何ができるのか」と考えたときに、もしあなたが「自分の人生を自分でつくっていく主役でありたい」と願うならば、この状況で「何が自分を悦ばしくするか」を問う以外にありません。--これは一見、とても厳しい思想のように思えます。「こうやって生きるべきというものはない。どのように生きてもいい。そして、どの絵を描くのかもすべて君に委ねられているのだ」というので、恐ろしく感じる人もいるかもしれません。しかしそれは、人を本当の意味で自由にしてくれる思想だとぼくは思います。

 なぜ「この作品はすごい」のか、なぜ「この作品はいまひとつダメなのか」。こうやって互いに語り合われることを通じて、人生に対する態度や、他社に関わる態度、社会に対する姿勢など、自分がいままで無自覚につくってきた「よい・わるい」の感覚が、他者の感覚と照らし合わされ、検証されていく。そのプロセスを経て、「やっぱりこれはいい。これはよくない」という価値観の軸ができあがっていく。こういうことが文化の本質でしょう。一言でいえば、自他の価値観を照らし合わせながら、ほんとうに納得のいく価値観をともにつくりあげていこうとすることです。
 こうした語り合いのないところに、「創造性」や「高まること」はない、とぼくは考えるのです。

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2022年12月28日

Posted by ブクログ

ネタバレ

ニーチェの思想が知りたくて読んだ本。ニーチェや「超人」、「永遠回帰」、「ルサンチマン」の思想を知ることできて良かった。この本を読んで、ニーチェの妹のエリーザベトが酷い人だということを初めて知った。自分の生き方は自分で決める、人と高め合って生きる、何が自分にとっての悦びなのか、唯一絶対の真理は無いというところが特に印象に残った。

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2020年02月05日

Posted by ブクログ

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おすすめ度:85点

ニーチェ著『ツァラトゥストラ』解説本。西氏が自己の体験談を交えつつ、現代社会に合わせて解釈している点がとても良い。また決して盲目的にはならず、時には足りない点もあると指摘していることもGOOD。
「ルサンチマン(=うらみ・ねたみ・そねみ)」は自分を腐らせてしまう。主体的に生きる力を失わさせてしまう。
神は弱者のルサンチマンから生まれた。「神は死んだ。」
いかにしてニヒリズムを克服するか。
「超人(=高揚感と創造性の化身)」になっていくプロセス。ラクダ(=重い荷物を背負う)→獅子(=「われ欲す」)→幼子(=創造の遊戯)。
「永遠回帰(=徹底したニヒリズム)」→人によっては絶望する?→魂がたった一度でも、幸福のあまりふるえたなら。障害者の方の例。
西研氏の主張「ニーチェのいう創造性は「表現のゲーム」という仕方で引き継がれる。」「語り合い、確かめ合う。」「悦びと創造性の精神をもって生きる。」
斎藤環氏の主張「自分の欲望こそ自分自身にほかならない。」「自分を肯定する。」「自分の欲望を諦めない。」

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2012年04月21日

Posted by ブクログ

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個人的にはツァラトゥストラの内容の解説よりも西研さんの意見、考えの記述が多いように思いました。

しかしながら、ニーチェの人生や彼を取り巻いていた人間関係や環境などはとても分かりやすく解説されていました。ツァラトゥストラを読む前準備にはとてもいい本だと思います。

神様とか天国というのはゴリゴリに辛い現実に耐えられない人間が何とかして前向きに生きていこうとして作ったもの。キリスト教なんかもそう、“汝、真実を語れ”というのなら、その言葉を本当に突き詰めるのなら“本当は神様は存在しない”ということと真正面から向き合わなければいけないのでは?という指摘は、ほとんど信仰心のない私も少し動揺しました。絶対的な善も悪もないとなるとどこに心のよりどころを求めればいいのか、ニーチェからするとそんなものはないのでしょう。しかし、彼自身が発見し世に説いたその“確かなものが何一つない”不安からニーチェ自身も病んでしまったのは気の毒だなと思いました。

また、現実として孤高の超人を目指すのではなくいろんな人と関わり合いを持ちながらいった方がいいという考え方は私もそうだなあと思いました。でも、難しいですよね。他者と渡り合っていくとなるとどうしても自分と相手を比較してしまったり、自分が持っていないものを相手が持っていると羨ましく思ったりと何かと己のルサンチマンが顔を覗かせてしまいます。永劫回帰については、いいことは何回でも繰り返し起こってくれて大いに結構なのですが、辛くて暗いいやなことだけは都合よく記憶から抹消してしまいたい、どうかその部分だけは繰り返さないでほしいと私は思ってしまいます。
その点については、受け入れられないなら呪え!という開き直ってるところがにニーチェの優しい矛盾であり、それと同時にそれが上手にできればニーチェも発狂しなかったのではないかなと思いました。

劇薬的著書ツァラトゥストの解説書でもかなりの副作用?があったので、考えがまとまらないままレビューを書いておりますが、本作を読んだらどうなってしまうのか今からドキドキです…。

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2022年05月03日

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