【感想・ネタバレ】なぜ日本人は学ばなくなったのかのレビュー

あらすじ

近年、数字に顕著に現れている日本の若者の学力低下、読書量の不足、意欲の衰退――。萎縮する人間から「できる」大人になるための、必要な条件を提案する。力強い「教育力」を取り戻す!

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Posted by ブクログ

かつての日本人と比較し、現代の日本人特に若者は向上心、何かに対するリスペクトがなくなり、自発的に学ぶ姿勢が失われ、自分にとって快適な空間、情報にだけアクセスしようとする傾向に筆者は強い危機感を持っている。
この原因の1つにインターネットの普及によって、誰もが簡単に自分が欲しい情報にアクセスし、知識を得ることができるようになったことが挙げられる。

わたしは日本の高校生が海外の高校生に比べて向上心や出世欲、チャレンジ精神が低く、安定を求める傾向があるというデータが気になった。
生き方の選択肢が増え、自由や多様性が尊重される時代、なんで日本人は安定を求めるんだろう?

誰かがやっているから自分もやろう、自分だけ浮かないように周りを意識して、周りに合わせよう、人と違う道を進むのは怖いという日本人的な思考が影響?
プラスそもそも自分が何をやりたいのか分からないという人、夢や目標がない人が増えているような気がする。

筆者も言っていたように学ぶ機会が昔に比べて少なくなった(読書や先輩社員との飲みなど学ぶ機会を自分で作ろうとする人が減った)こと、物質的、経済的に昔に比べて豊かになり、そんなにガツガツ生きなくてもそれなりに生きていれば不便がないくらいの生活ができるようになったことが背景にあると思った。

何かを学ぶことは自分の成長であると同時に、誰かの幸せにもつながる。
やらなくてもなんとかなるけどやったほうが自分のためになるなら例えめんどくさくてもやってみる。自発的に取り入れた知識や経験にこそ価値があると思うし、そうやって得た知識や経験を誰かのために役立てられる大人になりたいと思った。

 

1
2019年10月31日

Posted by ブクログ

まあ、そんなものだけど、
そういうテーマに挑んだところがいいね。

資格を獲るだけが勉強になってる。
バカバカしい限りだ。

勉強って、自分を信じられるようになるために、
するんだけどね。

1
2018年05月06日

Posted by ブクログ

筆者が旧制高校が大好きなことが伝わった。あとはいかに今の自分らがアメリカ化されてるかもわかった。
大学時代に禅を組んだこともないし読書会もしてないから確かに筆者の言う旧制高校のレベルからは下がっているのだろうと思う。
ただ性の不平等の分配で性的に諦めてしまった男性が多くなってナンパする元気もないって一言が引っかかる。性の不平等の分配って検索すると女性が社会で不平等を受けていると言う話だがこの文では男性が元気がなくなって女性があてがわれないって話に読めるけど私の読みまちがい?

愛人作りまくった渋沢栄一を紹介したり全体的に男性が考える男性のための説教本と言う感じがする。とりあえず女性のリーダーを増やすために私も戦前の哲学の本を読んでみよう

0
2025年05月31日

Posted by ブクログ

869

なぜ日本人は学ばなくなったのか (講談社現代新書)
by 齋藤孝
 では、なぜ学ばなくなったのか。それに対する私の端的な回答は、「リスペクト」という心の習慣を失ったからだ、ということです。

繰り返しますが、仏教を敬っていた奈良・平安時代から、日本はずっと「リスペクト社会」を貫いてきました。学びや教養を一段高いものと見なす風潮が、社会に充満していたのです。  ところが、ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。

 しかし今は、自分という核を持たないまま、ひたすら水平的に「何かいいものはないか」「おもしろいものはないか」と探し回っているだけ。最近の世の中はこれを「自分探し」と称していますが、こういう風潮が始まったのは一九八〇年代ごろからです。

そして、この傾向を爆発的に浸透させたのが、インターネットの普及です。ネット自体は、良くも悪くもありません。ただ、人間の持っている一つの傾向を極端に見せる「増幅器」、あるいは「拡大鏡」であることは間違いありません。  たとえばネガティブな思考を持つ人が 集えば、一気に集団自殺にまで及んでしまう。あるいは向学心に 溢れた人が集えば、架空の学校のようなものが出来て、有益な知識や情報の交換が行われることもあるでしょう。

その意味では、向上心の有無によって、インターネット社会では格差がより助長されるといえます。学びたい人はとことん効率よく学べる一方、向上心のない人は、互いに傷をなめ合うように現状肯定的になるか、あるいは互いの存在を否定するような関係に落ち込んでしまう。その最たる例が、学校のいわゆる「裏サイト」です。先生への悪口や、特定の生徒をいじめるような書き込みが殺到するというネガティブな面が、日々極大化されています。

かつてなら、情報を生み出したり、苦労して調べたことを発表したりすることは、それ自体が尊敬される対象になりました。たとえば読書にしても、そこで展開されるのは著者と読者の一対一の〝にわか師弟関係〟だと思います。読書の時間とは、著者が自分一人に語ってくれる静かな時間であり、それによって自分を掘り下げる時間である。少なくとも私は、そのつもりで本を読んできたし、書いてきました。

でも今や状況は一変し、「情報はタダ」という認識が一般化しています。どれだけタダで出して知名度を高めるか、あるいは好感度を持たれるかといったことが、情報発信側の勝負どころになっている。それを助長しているのが、検索機能によってタダの情報を自由にセレクトできるインターネットです。言い方を換えるなら、情報の発信者ではなく、ネット利用者のほうが立場的に強者になっているわけです。

本でいえば、何人も並んでいる著者の中から、読者が誰かを指名するという感じです。そしてさっと読み流し、「だいたいわかった」「次はあなた」となる。つまり著者は情報提供者、著書は商品として並列的に存在しているだけで、それをセレクトする読者(消費者) のほうが圧倒的に強いわけです。  ネット上では、この傾向がもっと顕著です。 碩学 と呼ばれる学問の大家が心血を注いで書いた言葉も、アイドルの言葉も、一般の人による〝街の声〟も、あるいはショップや商品の宣伝文句も、すべて並列的に同じ情報として扱われています。特定のキーワードによって一律的に検索の網にかかるという意味で、同等のポジションにいるわけです。世の中全体が水平化、フラット化した社会になりつつあるといえるでしょう。

重要なのは情報そのものではありません。ある対象をリスペクトする、その深浅が、自分にとっての情報や言葉の意味・価値を決めていくのです。同じ一つの言葉でも、ネット上でたまたま見かけた言葉と、自分がリスペクトという精神のコストをかけて獲得して出会った言葉では、自分にとっての重みがまったく違うのです。

同じく社会のフラット化を助長し、象徴しているのがテレビです。  バラエティ番組では、いかに教養がないか、バカであるかを競い合うようなものが放映されています。視聴者はそれを見て楽しんだり安心したり。いわば知性のないこと、あるいはそれを逆手にとって開き直る姿が〝強さ〟として映るような時代になっているわけです。

私も出演を依頼されることがありますが、民放のバラエティ番組の場合、引きずり下ろされる危惧をしばしば抱きます。私は大学の教員なので、知性や教養を職業的に磨いている者として出ます。そういう人間をいかにふつうの人間のように引きずり下ろして見せるか、という意図を制作者側に感じることがあります。たとえば、成功した場合と失敗した場合があるとしますと、編集で残されるのは、たいてい後者です。コメントでも知的なものはよくカットされ、感情的な要素の強いコメントや表情が放映されます。要するに、大学で教えているような人間が失敗する姿を見たい、という意識が視聴者の側にあるわけです。

つまり、テレビはあらゆるものをフラット化して見せることにカタルシスを見出している。これは昨今の日本全体を覆う空気のような気がしてなりません。

しかし現在、状況は変わり、先生の威厳は急速に消えつつあります。尊敬の対象というより、サービス業の一つとして 捉えられる傾向が強まってきています。何でもわが子中心で考え、先生にクレームをつけまくる「モンスター・ペアレンツ」、医者に対する「モンスター・ペイシェント」の出現は、その象徴的な現象です。  この要因の一つは、知性・教養に対する尊敬やあこがれのなさです。子どもも親も、また先生自身も、知性・教養にあこがれを持たなくなった。等しく平らになり、皆で勉強しないままでいいじゃないか、という傾向が強まってきているのです。

お互いに足を引っ張り合い、フラット化していくままでは、本章冒頭のPISAの結果を見るまでもなく、国際的に没落していくだけでしょう。

リスペクトとは心の習慣です。何かに対して「これはすごい」「 頭 を垂れて学びたい」という思いを持てないとすれば、世の中のあらゆるものが平板な情報でしかないことになります。つまり、あらゆる情報・言葉がフラット化してしまっているわけです。そのことが、精神を 雑駁 なものにしてしまっている感は否めません。

言い方を換えるなら、人間の心の潤いというものは、尊敬やあこがれの対象を持てるかどうかで変わってくる。その対象は具体的な人である場合もあるし、教養のようなものである場合もある。いずれにせよ、そこから学ぶこと自体に対する尊敬があって初めて、自己形成の意欲の尽きない泉が 湧いてくるのです。

ただ、経済についてはこうして数字がはっきり出るため、人々の話題にものぼります。一方で尊敬やあこがれの精神が失われたことによる莫大な損失については、統計データがない分、気づきにくいかもしれません。しかし、努力しなくなったのも、勉強しなくなったのも、あるいは社会の各所がさまざまな形で崩れつつあるのも、根本原因は知性教養や人格に対する敬意のなさにあります。  もともと人間の心には、リスペクトしたいという願望がかならずあります。成長とともに尊敬の対象を変え、自己形成していくのが本来の姿です。

この二十年、私は大学生と関わり続けています。定点観測のように十八歳から二十二歳程度の若者と付き合っていると、彼らの気質の変化を肌で感じることができます。その第一は、濃い交わりが苦手になってきているということです。

地方出身者が東京という都市に初めて出会ってショックを受け、東京なんかに負けるもんか、東京のバカ野郎、という気概を持つ。それが明治以来、ずっと日本の活力になっていたわけです。そんな「上京力」とでもいうべき、上京へのあこがれ、プレッシャー、孤独感、負けん気、誇りと意地といったものが混ざり合って、緊張感のある向上心を生み出していたのです。

 しかし今は自宅から通う学生が多く、大学生活が必ずしも一人暮らしを意味しなくなりました。アルバイトをする高校生も珍しくありませんし、高校生でセックス等を経験する人も多いですから、大学生になったときのライフスタイルの劇的な変化というものが、あまり見られなくなってきています。高校と同じ感覚で大学でも授業を受け、アルバイトをして自宅に帰る。家ではミクシィで時間を 潰し、自分の生活空間を侵されない範囲で浅いコミュニケーションをとって寝る。高校の延長線上に大学があるかのようです。

私が勤める明治大学でも、最近は飲み会を企画してもなかなか人が集まりません。明治大学はよかれ悪しかれ飲んで語り合う、あるいは必要以上に飲むことが伝統的に継承されてきた大学です。十数年前の学生たちであれば、大学付近の非常に安い居酒屋を見つけては、毎週のように大人数で騒ぎ続けていたものです。

 言い方を換えるなら、今の学生にとって飲み会は、快適なプライベートな時間ではなくなったということです。ゼミや授業で知り合った仲間と飲むことは、プライベートというより、一種の社会的なつき合いなのです。彼らが好むプライベートとは、わずか二~三人程度の、たとえば高校時代の同級生と連絡を取るといったことなのです。  だからゼミなどで十~二十人単位になると、それはもはや「社会」になる。おかげで、一体感を持った集団になるまで、きわめて時間がかかるようになりました。人間関係上の体温の低さというものを感じざるを得ません。

昨今の学生は、一対一のコミュニケーション能力についても未熟な感じがします。たとえば知らない人との世間話は、明らかに苦手になってきています。他人とゆるやかな関係をつくったり、その場を雰囲気よく過ごす 術 を知りません。

自分と関係のある人、仲のいい人とは会話ができるのに、新しい場所で友人をつくることは苦手です。同じ学年・学科の学生同士でも、相互にあまり交わらない。結局、顔は知っているがお互いに話さないまま、ということも珍しくありません。  濃い交わりを避ける傾向は、自分一人の快適なプライベート時間を維持したいという意思の裏返しです。もっと本質的にいえば、自分というものを守りたいという意識がきわめて強いということです。

一見自信があるように思える学生でも、他者の目を過剰に意識していたりします。自分自身で自分を支えているというより、他者の承認によって自分自身を支えている。幼稚化していると感じることが多いのは、そのためでしょう。

大学生でも、「先生、オレの名前覚えてますか?」と言ってくる学生もいます。存在承認欲求の強さを身に 沁みて感じます。  今の大人の中で、中・高・大学時代にそのような感覚を持っていた人は少ないでしょう。まして叱ってもらいたい一心で悪さをしたという人はほとんどいないと思います。つまり、ひと昔前の中・高校生は、そこまで他者に存在の承認を求めなくてもいい状況だったということです。

現在は、他者の前で自分の実力があからさまになることは避けたいと思う一方で、他者による承認も得たいのです。競争には参加せず、自分の実力を高める努力は避けつつ、一方で「君はユニークだ」「唯一無二だ」「資質があるよ」と褒めてもらいたい。そういう都合のいい欲求が目立つようになっています。

昨今の大学は、いわばホテルのようにサービスを手厚くして評判を高めることに必死です。「大学改革」という名の下に行われている多くの改革は、経営難の大学に学生を呼び込むにはどうしたらよいか、という観点がベースになっています。

気になるのは、学生の学問に対する熱意のなさです。私はかなり厳しい授業をしますが、そうするとどうしても、しっかりついてくる学生と最初から避ける学生に分かれてしまいます。

そもそも学ぶとは、野生動物のように自ら知識を狩りに出かけ、 貪欲 に吸収することです。こうして知を得ることは、友人に伝えずにはいられなくなるような興奮を伴うものです。しかし今の学生に、そういう積極性は希薄です。だから、知との出会いが生まれることは少ない。

自分自身で知識を積極的に得ようとしていないので、これは当然かもしれません。その学問に興味を持ち、狩りをする意識で学んでいるのではなく、受動的な学び方をしているのです。もちろん教える側の責任でもありますが、結局、学問の奥深くまで入り込まずに学生時代を過ごし、三年生の半ばになると本格的な就職活動を始めることになります。

私は毎年四月の段階で、一年生と二年生に最近読んだ本のリストを提出してもらうことにしています。しかしそこに挙がるのは、軽い読み物ばかりです。小説ともいえない通俗小説や、内容の薄いエッセイ、あるいはマンガなどがほとんどです。さほど難解ではないはずの新書レベルの本でさえ、読んでいる学生は非常に少なくなっています。

その原因は何でしょうか。学生たちは、さほど厳しくはないにせよ、高校時代に受験勉強はしています。しかし当時から本は読んでいないので、大学生になっても一般教養をぜひ身につけたいという強い意欲が湧きにくい。そのまま、勉強らしい勉強をすることなく、専門書どころか新書すら読むこともなく、大学時代を通り過ぎていくわけです。

以前、セブン&アイ・ホールディングス会長の鈴木敏文さんにお会いした際、採用したいと思う学生について、「大学で何をしてきたかという質問に対して、サークル活動、たとえばダンスを頑張ってきましたと答えるような学生は採用したくない」と仰しゃっていました(『ビジネス革新の極意』鈴木敏文・齋藤孝/マガジンハウス)。

大学で学んだことを語れなければ、大学を出た意味がない、ダンスのうまい人を採用したいなら、最初からダンスの専門学校の卒業生を採ったほうがいい、ということです。

基本的な向学心というものは、読書量に表れます。本を読まない学生を見ていると、向学心の衰退を認めざるを得ません。彼らが真面目に授業に出る現象の裏では、こういう事態が進行しているわけです。かつて一九六〇~七〇年代の学生たちは、授業はサボってもある程度の本は読んでいました。当時と今とでは、対照的な様相を呈しているといえるでしょう。

ただ、ステップアップのための転職であれば、まだ合理的で理解しやすいでしょう。問題は、次の仕事も決まっていないうちに辞めてしまうケースです。  こういう人は、たいていアルバイトで 凌いでいきます。それぐらいの仕事ならいくらでもあるという現実も、彼らの身軽で短絡的な身の振り方を後押ししています。だいたい月々十万~十五万円程度は稼げてしまうので、会社などいつ辞めても怖くないという感覚になれるのです。

こうしたケースを多く見ていると、今は「心の安定」を失いやすい時代なのではないかという気がしてきます。自分はここに骨を埋めるとか、自分のアイデンティティはここにあるといった対象になるもの、あるいは人間関係も含めた信頼関係を見つけにくいのではないでしょうか。それに、「きっと報われるはず」と信じて努力する心のあり方も崩れているようです。

たとえば、会社で懸命に働くことで、会社は一生自分の生活を支え続けてくれるという、相互に安心できる関係性を「心の良い状態」だとすれば、会社が自分を信用せず、自分も会社を信用できない関係性が「心の不良債権」の状態です。後者は常に不安を抱え、「今はここにいるが本当はここにいるべき人間ではない」とか、「組織の一員として位置づけられるのはイヤだ」といった思考に支配されています。リストラも当たり前という殺伐とした社会のあり方が共有され、心にまで影響を与えているわけです。

たとえば、ローンで建てた自宅から会社まで一時間半かけて数十年間通い続け、係長になり課長になり、部長の手前で終わるというサラリーマン人生を歩む人が、かつては少なくありませんでした。骨を埋めるつもりで就職し、家庭をつくり、子どもを学校に通わせるのが、ある種の王道だったと思います。

それに、会社員としての行動習慣に耐えられないという人も現れています。朝八時までに出社し、夜八時まで働き、その後は同僚と遅くまで飲み、翌朝また早く家を出るというパターンが従来は一般的でした。これは日本のサラリーマンが当たり前にこなしてきた昭和を代表する生活形態です。一種のホモセクシュアリズムではないかと思われるほど、会社の人間と四六時中一緒に行動し、しかも会社の話をする。よほど愛社精神に満ちていなければとれない行動です。

逆にいえば、自分はそこまで会社が好きではないと思ったとしたら、こういう行動はできないでしょう。〝会社漬け〟状態を想定すると、むしろ自分が会社に乗っ取られるような気がするはずです。  会社はかならずしも、人間性を大事にしてくれるわけではありません。自分はもっと人間性を大事にしたいとか、あるいは企業自体が社会的に見れば悪なのではないかという思考に 囚われれば、反動的に「やさしさ」に価値を求めるという選択はあり得ます。

アジア各国に行くと、本屋に座り込み、読み耽って知識をむさぼっている若い人がどこにでもいます。ドキュメンタリー番組では、しばしば、中国の貧しい農村にある学校が取材されますが、小学校の授業料すら払えない家の子どもたちが、口々に「もっと勉強したい」「もっと社会に貢献したい」と語る姿が印象的です。これは、急速に発展する国特有の〝熱さ〟なのかもしれません。

じつは、親自身も競争社会に対して 脅えを持っています。いよいよ富の分配の不平等が現実に起きている以上、「勝ち組」に入らなければ苦労するという、追い立てられるような恐怖感がある。だから、教育にも早く手をつけなければいけないという意識に駆られているわけです。幼児期からの英語教育など、その典型でしょう。  しかし、一生を全うするための心身の基本を培う幼児期に学ぶべきこととして、英語教育は有効なのでしょうか。私はむしろ、この時期は身体と日本語の基礎をつくるほうが重要だという確信を持っています。

 学校に対する考え方も、その延長線上にあります。授業料を払っているのだからきちんとサービスしてほしい、という論理を通すようになってきました。特に最近は、親の間でこの傾向が顕著です。いわゆる「モンスター・ペアレンツ」の台頭です。  たとえば、自分の子どもが悪いことをして教師に叱られたとき、逆ギレして学校に文句を言う。子どもが学校に行きたくないと言えば、無条件に休ませる。場合によっては中途退学も 厭わない。あるいは学校に対して、常軌を逸した注文をつける。教師を頭からバカにして、ホテルのドアマンや百貨店の店員に対するように威圧的な態度をとる。こういう勘違いした親が、現在の中学校・高校で日常茶飯事的に増えているのです。

 こういう親には、もしかして自分の子どもが悪いのではないか、という謙虚な自己反省意識は働きません。うちの子にかぎってそんなことはしない、うちの子はそんなことを言っていないなど、教師の言うことより子どもの言うことを信用する。子どもを注意するより、子どもと一体化してしまうわけです。

 私の教え子である現役の中学・高校教師によれば、最近の子どもと親の関係は、垂直的に厳しく 躾 ける「親子」というより、水平的に楽しみを共有する「友人」に近い。大人としての役割を担いきれていない人が親になっているということです。

ではなぜ、こういう親らしからぬ親が登場するようになったのか。そのルーツをたどれば、戦後のアメリカ化された若者が親になった時代に行き着きます。これについては、第二章で詳述します。

 中学受験をする子どもは、小学四年生の時点から本格的な塾に行くのが当たり前になっています。彼らが通う塾のレベルはきわめて高く、高校受験を上回る場合も少なくありません。特に算数などは、一般の大人が見ても、おそらく手も足も出ないでしょう。  国語で読む文章も、高校入試に使われる文章と 遜色 ありません。つまり、そういう塾で勉強した小学生は、勉強しない中学生よりむしろ知識水準が高くなるわけです。この傾向は、すでにかなり一般的になっています。

一方、テレビのバラエティ番組などを見ていると、たまに信じられないほど知識のないタレントが登場します。「バカドル」などと呼ばれ、小学生レベルの問題すら解けないことをむしろ〝売り物〟にしているようです。しかし見方を換えれば、こういう小学生程度の国語力も知識もない状態でも、中学校や高校を卒業できたということです。

これは恐るべきことです。タレントはいいとしても、公立小学校に預けているだけの家庭、あるいは塾に通わせたくても経済的理由で不可能な家庭の子どもは、その時点で将来に響く差をつけられてしまう。

しかも中高一貫校では、中学のうちに高校レベルの学習をすすめています。公立中学ではあくまでも中学レベルに限定されるため、まったく不公平な条件で大学受験に向かうことになる。  こうした条件の差を是正するにはどうすればいいか。それは、公立小・中学校のカリキュラムの質を高めるしかありません。ところが、そうすると落ちこぼれが出てくるとの理由で、逆に教科書の水準はどんどん落とされてきた。それがこの二、三十年の状況です。

小学校高学年の時点で学習の環境に差がついてしまうことは、たんに進路が有名私立と公立に分かれてしまうだけではありません。もっと重要なのは、学ぶ習慣がつくかどうかという、生涯にわたる差になってしまうということです。  勉強を 厭わない人と苦になってしまう人。わからない問題に当たったとき、考えることのできる人と投げ出してしまう人。こういう差が生じてしまうことが、もっとも深刻な問題なのです。  学ぶということは、たんに知識を獲得するだけの行為ではありません。そのトレーニングを通じ、わからないことや大量の問題に立ち向かっていく心の強さを培っていくことが、もっと大事なのです。

 そのためには、質の高いカリキュラムを用意し、内容の濃い教科書で学ばせる必要があります。しかもそれは、とりわけ小学校から始めたほうがいい。なぜなら、中学生以降になると自主性が尊重されるため、生徒が素直に受け入れない可能性があるからです。  小学生の素直なときに学ぶ習慣を身につけなければ、中学校に進んでも努力や勉強から逃げてしまいます。そしてその後も、永久に立ち向かうことはないかもしれません。これは、国家的な損失です。

アメリカの若者文化はカウンターカルチャー(対抗文化) でした。ボクシングのカウンターパンチと同様、自分が無から建設するというより、現在あるものに対立する、ないしは否定する形で成り立っていた文化運動だったわけです。  対抗の対象は、一言でいえば「伝統的な知」、つまりヨーロッパの古典主義です。たとえばギリシャ・ローマの伝統であるギリシャ哲学や、シェイクスピアやゲーテといった全世界的な人類の知的遺産と考えられている権威あるものを指します。それらに対して、アメリカの若者文化は「ノー」を表明したのです。

政治制度にしても、民主主義を超えて社会主義的リベラルを目指す「ニューレフト」という運動が起きていました。この新左翼的な運動を積極的に担っていたのが若者たちでした。  彼らが共有していた意識は、否定と破壊、つまり現状に「ノー」と言い続けることでした。たとえば、明らかに政策的に行き詰まっていたベトナム戦争に対して「ノー」と言うのが正義でした。あるいは公民権運動に賛同し、黒人の権利を妨げるものに対して「ノー」と言うことにも、社会的な正義が保障されていました。

これらの面だけを取り上げれば、彼らの活動は民主化に貢献した若者の政治運動であり、新しい価値観への転換であると評価することもできます。しかし、現実への影響としては、若者の知的な面での後退を招いた感も否めませ

フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも 捨象 でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。  ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。

つまり、音楽は麻薬に似ているというわけです。音楽を聴くのには努力も才能も徳も不要。要するに努力しなくてもエクスタシーを味わうことができる、ということです。  エクスタシーとは、かつては地道な努力の果ての達成感から得られると考えられていました。ちょうど登山のようなものといえるでしょう。単純に一歩一歩進んでいくことによって、最後にパノラマ的風景を味わうことができる。こういう感覚が共有されていたのが、後述する書生文化や教養文化です。

簡単に快楽が手に入るのであれば、苦労して山登りをする必要はない。むしろ音楽で感性を解放することのほうが、古くさい権威に頼るよりよほど大事なのではないか──こういう一見もっともらしい主張が、若者文化の台頭によって是認されてしまったわけです。

セックスに関しては、それまでよりも気軽に行ってよいとする「セックス革命」がアメリカで起こりました。これにより、性的関係がずいぶん変化しました。いわゆる「性の解放」です。  六〇年代初頭から性表現の制約が少しずつ見直され、ゆるくなっていきました。以前は若い男女の同棲を親や教師はとがめましたが、やがてそれも自由になりました。女子学生たちも、セックスに興味があるとか、すでに体験済みだということが周囲に知られても恥じなくなりました。彼らは、若くてもセックスをする権利を獲得したわけです。

今の親世代には、自分の親の世代に比べ、子どもの世界を邪魔してはいけないという自己規制に近い意識が大きく働いています。「性の解放」の潮流が正当性を持って社会に是認されたため、親自身も禁止することを「古くさい」「リベラルではない」と思うようになっている。そこで子どもに自由を与えることを優先させ、厳しく制約をつけるしつけを軽視する子育てを実践したのです。つまり、親の権威というもの自体が、対抗文化の隆盛とともに著しく減退したわけです。

「親の言うことはきかない」という態度も、アメリカにおける若者文化の一つの特徴ですが、これも日本に流入しました。肯定的に見れば、親からの独立心が強いということもできます。しかし否定的に見ると、親の代まで受け継がれてきた、ある種伝統的な知識や経験知、常識といったものが、次の世代に伝達される回路を失ったということも意味しています。

この変化には、まだ、権威づけられた古典的教養を否定しようとする「意志」が働いていました。しかし、やがてその意志も消えます。ポスト全共闘世代においては、否定するという意識もないまま、あるいは何を学び、何を学ばないかという意思決定もないまま、ただ本を読まなくなったのです。  この傾向はその後、急速に加速しました。現在の学生においては、授業には真面目に出席する一方で、自己形成にかかわる一般教養を読書によって培っていくという生活習慣はほとんど根づいていない傾向を感じます。

こうしてカリフォルニアは、旧来の抑圧された自己を解放する象徴的な存在となっていきました。十九世紀から二十世紀半ばまでの知の伝統は、人間を抑圧する悪であり、それから逃れて自らのエネルギーをすべて解放することが善である、という非常に単純化された図式が公認されていました。「本なんか読まなくていいじゃないか」という世代が生まれてくるのも、避けられない事態だったのです。

また、こうして向上心を持っている人こそすばらしい、という価値観が男性どうしの間で共有されていたし、女性から見た評価も同様でした。結婚するときも、見合いがほとんどだったため、見た目のよさはそれほど問題にならなかったのです。

前出の『アメリカン・マインドの終焉』でも、「セックス革命」で得をしたのは老人より若者であり、醜いより美しい者だった、と指摘しています。フリーになったからといって、平等になったわけではないのです。

六〇年代のアメリカ文化は白人の若者がリードしていましたが、最近はむしろ黒人文化の影響力のほうが強まりつつあるようです。街で見られるストリートダンスのリズムのルーツは、黒人のダンスにあります。メロディーよりリズム中心の動きであり、カーペンターズやサイモン&ガーファンクル的なメロディーラインの美しいポップスより、ラップが主流になりつつあります。  言葉をちぎって投げつけるようなラップの歌い方は、黒人のスラングがベースになっています。お金と教養に乏しく、ふだんから俗語を使うような階層の人たちが、対抗手段や自己表現、社会批判の一つの手段として始めた面があります。そのスタイルが、黒人以外にも共感を得て広がりはじめたわけです。

 七〇年代の日本の若者は今よりもっと貧乏でしたが、貧困性は表面化していませんでした。アメリカの文化が反体制・反伝統から、貧困を背景にした社会批判的なアピールの形へと展開したのに合わせて、日本の若者もアメリカの下層部分からの影響を強く受けるようになったのです。  ついでにいえば、これらが幅広く導入されたもう一つの理由は、バスケットボールの流行だと思います。マンガ『スラムダンク』(井上雄彦/集英社) の大ヒットで子どもたちにバスケット文化が浸透しました。バスケット競技自体は黒人のものではありませんが、マジック・ジョンソンやマイケル・ジョーダンなど、アメリカのプロリーグ・NBAで活躍した中心選手の多くは黒人です。  こうして、しだいに黒人のヒーローが増えたこともあり、日本の若者はあこがれの対象を白人の若者文化から黒人の若者文化へと移していきました。これも、アメリカ化の一過程であるといえます。

「教養? そんなものが何になるんだ。自分たちの文化はそういったものとは別なんだ。俺たちのダンスを見てくれ、ヨォ」といった感じでしょうか。あの「何々してくれ、ヨォ」と言って手首を独特な形にくねらせるのを見ていると、あまり本などは読まないだろうな、ということが容易に推測されます。  頭の良し悪しはさまざまな文脈で判断されるので、一概に言うことはできません。あるいは努力の有無を問うにしても、働いているのなら何らかの形で日々努力をしていることにはなります。しかし、黒人をモデルにしょっちゅう踊っている若者たちが、世界共通の教養といわれる本を読んでいるかといえば、その期待は薄いでしょう。もちろん、黒人文化に教養がないなどと言おうとしているわけではありません。あくまで日本の若者の話です。

では、日本の若者はアメリカ文化のすべてを忠実に取り入れたのかといえば、そうではありません。むしろ非常に中途半端な採用だったと言わざるを得ません。  アメリカという国の基本にあるのは、フロンティアスピリット(開拓者精神)、インデペンデントな気概(独立心) です。彼らは希望を胸に西海岸へ進出し、旺盛に次々と開拓地を突き進んだ結果、最後には月まで行ってしまったわけです。  それに加えて、インディビジュアリズム(個人主義) も発達しています。これ以上冒すことのできない個というものの力を信じ、その努力によって自分というものを自立させる。そういう個の集まりが、結果の平等ではなく機会の平等からスタートする。その結果、富を得るものは得るが、敗れるものは敗れる。競争はあるがフェアプレーであるというのが基本です。

しかし、このアメリカ的な「どこまでも行くぞ」というフロンティアスピリット、チャレンジを続ける強い気持ち、恐れのなさ、勇気、あるいは民主主義に対する強い意志などは、日本の若者文化には根づいていません。そのかわり、大人社会に反抗しつつ、結局大きな制度にはぶら下がるという生き方を選択した。つまり、日本的な「甘え」が消えない中での若者文化だったわけです。アメリカ文化の導入は、この点できわめて中途半端だったといえるでしょう。

その結果、自分たちはどうすれば自我を確立できるのかというモデルが、日本人自身もわからなくなってしまいました。すべてアメリカ人を真似れば話は簡単だったのですが、本当にアメリカ人のメンタリティを持った日本人は、そうはいません。アメリカはそれなりに…

逆説的になりますが、アメリカには、たとえば「USA! USA!」と叫びさえすればお互いに自立心や共感を実感できる、という幸せな単純さがあります。野球のメジャーリーグの試合では、七回になると必ず愛国歌「ゴッド・ブレス・アメリカ」が球場内に響き渡ります。そのときには、松井秀喜やイチローのような日本人選手も、…

なぜ、こんな面倒な〝しきたり〟があるのか。アメリカでは、愛国心を持つことがほとんど百パーセントの善とされています。逆にいえば、それによって連帯感を持たせなければ、バラバラになる危険性がある。それほど、さまざまな地域からさまざまな人々が集まった国であるということです。  もっとも、アメリカの若者たちは、いろいろと自国の文化を批判して従来の伝統を否定する一方で、新しい価値をつくり上げていきました。これはまさにアメリカという国の大きな存在理由であり、特徴…

司馬遼太郎は、「自分は生涯一書生でいたい」という意味のことを書き残しています。それも若いころではなく、日本の歴史というものを捉え直した大功績ある作家として認められた後のことです。  なぜ司馬ほどの大作家が書生にあこがれたのか。それは、 驕らず高ぶらず、常に学ぶ精神を持ち続けたいと願ったからだと思います。自分は未熟である、だから勉強という修行を積むのだということでしょう。これは単に自分自身を戒める言葉ではなく、書生であることこそ喜びであるという意思表示です。

一方、受け入れる先生の側は、ともに学ぶといえば聞こえはいいものの、寝る場所を与え、ご飯も食べさせながら教えなければならない。これはそう簡単なことではありません。それでも、実力のある先生ほど書生を受け入れていました。

たとえば日本を代表する民俗学者である折口信夫 は、自身がホモセクシュアルだったこともあり、多くの書生や弟子を同居させたり抱え込んだりしていました。弟子だった加藤守雄さんの著書『わが師折口信夫』(朝日新聞社) によると、いろいろ感情が絡んで難しいこともあったようです。家庭にまで深く入り込むような師弟関係だからこそ、もっとも濃い人間関係がつくられるわけです。

高齢の経営者には、読書家が少なくありません。経営者は本を読まなければダメ、と言う人もいます。しかし、世代が若くなるにしたがって、そういう人が減っているような気がします。

私はよく、大企業のトップの方が集まる朝食会などに講師として招かれることがあります。出席されるのは高齢の方が多いのですが、だいたい朝八時前から始まります。つまり、トップの方は始業時間前に勉強しているわけです。  では、こういう方々はどういう本を読んでいるのか。いろいろ話を伺うと、ヨーロッパの哲学、思想、文学といった教養的なものが好まれているようです。ゲーテやニーチェ、カント、ドストエフスキーに象徴されるような人生を深く考えるもの、人生論と正面から向き合うような類です。「こういう読書を、生きる柱にしてきた」と言われる方もいました。

これは産業革命後に書かれた自己啓発本です。人は勤勉と努力と工夫によってどのように成功するのか、膨大な事例をもとにひたすら説いている本です。もちろん、紹介されているのはイギリスを中心とするヨーロッパの話ばかり。  にもかかわらず、明治初期の日本でよく読まれたというのは、ちょっと不思議な気もします。ついこの間まで 攘夷 運動をしていた人たちが、欧米の成功 譚 をこぞって読んで感動したとはどういうことでしょうか。

フランスやドイツなどヨーロッパの国が持つ思想の深さ、文化の豊かさに触れることのできる人が、当時の日本には数多くいたということです。

 たとえば高校二年の冬休みから読む本として、スタンダール『赤と黒』(小林正訳/新潮文庫他)、バルザック『谷間の百合』(石井晴一訳/新潮文庫)、ピエル・ロチ『氷島の漁夫』(吉永清訳/岩波文庫)、マルタン・デュ・ガール『チボー家の人々』(山内義雄訳/白水ブックス)、フローベール『感情教育』(生島遼一訳/岩波文庫他) のそれぞれ原書を挙げています。その一方で、学ぶこととしては、哲学の思想とその把握、数学、イギリスとフランスの近代思想形成史、日本史、西洋史、東洋史を挙げています。  しかも、ただ勉強するぞ、ということではなく、目的を明確に立てている点も特徴的です。たとえば数学は「科学の諸問題を基本的に理解するため」、日本史や西洋史は「日本の現在の具体的な実態認識を目的とする」といった具合です。

私たちは日本をマケドニヤや蒙古のように 了 らせたくない、ギリシャのようにフランスのようにあらせたいのだ。

いずれも、知へのリスペクトと欲求、深い教養が感じられ、彼らが背伸びをして書いているわけではないことは、文面から容易に窺い知れます。およそ今の学生とは比べものにならないほどの切迫感とあこがれを持って勉強していたことがわかるでしょう。

哲学を学び、思考の基本スタイルを作る

たとえば経営者の場合、 強靭 な精神が求められます。一般の人には考えられないほど、心身とも疲れる激務です。途中で休むとか、具合が悪いから誰か交代してと投げ出すわけにはいきません。  そのとき、自分自身がぶれない中心というものを持っている、あるいは判断力の基礎を養っているという自信があれば、それを原動力としてさまざまな障害を乗り越えることができます。教養主義をくぐり抜け、そういう実感を共有している経営者の最後の世代が、現在はもう八十歳代になっています。  彼らは、日本経済がもっとも発展した時代に会社を経営してきた人たちです。その意味では、きわめて大きな実績を残したといえるでしょう。その人たちの基礎に哲学があるということを、現役世代は看過してはいけないと思います。

当時の若者は、哲学以外に、一般教養の勉強にも熱心でした。筒井清忠氏の『日本型「教養」の運命』(岩波書店) によれば、高等教育を受ける人は、世界観を構築するため、まず人文的・古典的教養を身につけるものだとされていました。それをベースに各自の研究テーマに取り組むのが常識だったのです。

たしかに、たとえば経済学部に入った学生なら、哲学や文学や語学などではなく、早く経済を学びたいという欲求があるでしょう。あるいは法学部に入ったら、その時点から司法試験ないし法科大学院に合格するための勉強に忙しくなるかもしれません。  もっと 有り体 に言えば、あまりにも学生が勉強しないので、せめて専門分野くらいは身につけさせてくれ、という企業や社会一般からの要請もあります。さらにいえば、専門分野さえ強ければ就職に役に立つと考える親もいます。要は、教養というものに対するリスペクトが欠落しているということです。

しかし一般教養とは、四年間の大学生活のうちの二年をかけ、人間としての奥深さを培っていくことが本来の目的です。それがなおざりにされ、侵食され、最近は二年生の課程から専門科目が入ってきている大学もあります。

彼らに話を聞くと、教養を重んじていない次の世代に対して、足腰の弱さのようなものを感じているそうです。その弱さゆえに、この先の日本はダメになっていくのではないか、と危惧されている方も少なくありません。

ところで、大正後期の、誰もが知的に 貪欲 であった世界に、マルクス主義が入り込んできました。この流入は非常に鮮烈で、旧制高校内にマルクス主義の研究団体が次々と誕生したほどです。  日本の教養主義者は、西洋の哲学に親しめば親しむほど、当然ながら思索の世界と実生活とのギャップを感じるようになりました。そこにマルクス主義が登場し、イギリスの古典経済学、ドイツの古典哲学、フランスの社会主義を総合したものだと説かれたとき、学生たちは極めてスムースにマルクス主義者になっていったのです。

マルクス主義は、「社会は法則的に動いている」と述べています。階級闘争によって社会はこうなる、未来はこうなっていくと、いわば歴史の絶対的な見方を教える教師として登場したのです。  かつては、ギリシャ・ローマに由来する欧米の古典から学ぶ教養や、西田哲学や禅の教養など、一口に教養といってもバリエーション豊かに存在していました。たとえば西田幾多郎は「絶対矛盾的自己同一」といったややこしい概念を打ち出していますが、これには禅の伝統も関わっています。禅には「 公案」と呼ばれる、「ここにあるようでない、これは何だ」といった一見論理的に解決できない問いを、直観力のようなもので一気に解いて鍛えるという手法があります。西田哲学は、こういう普通の思考を超えたところにある直観力を重視する、インド以来の瞑想の文化を意識していました。絶対的「無」を論理化することで、「有」を原理とするヨーロッパの哲学を超えようとする西田の学問的野心に多くの若者があこがれを感じ、必死に難解な本を読みました。

しかし、日本社会全体の中では、すでに一九七二年の連合赤軍事件が決定打となって、日本中が大学闘争やマルクス主義に拒否反応を起こすようになっていました。連赤事件がマルクス主義のあだ花になったといえるでしょう。  ただあの事件は、思想内容そのものが原因というより、閉鎖的な支配関係の中であればいつでも起こり得るリンチ事件でした。その証拠に、一九九〇年代のオウム真理教をめぐっても、同じような事件が起きています。自分の信奉する理論を絶対視し、それ以外の理論を徹底排除する傾向が、マルクス主義は強かったということです。

現実の女性とつきあって 云々 ではなく、内なる女性を理想化し、妄想や幻想をかきたてながら勉強に 邁進 する。そういうねじれた 鬱陶しさが、かつての若者の一般的な心情でした。今日のように、恋愛をするのが若者の特権であり、それこそが若者らしさなのだという考えは、とりあえず旧制高校にはありません。それより男同士の友情のほうが大事でした。ここでいう「友情」とは、ともに高みを目指して歩むこと、つまり一緒に勉強することを指します。このちょっとねじれた男の世界を描いた小説として、森見登美彦氏の『太陽の塔』(新潮文庫) があります。これは比較的最近の作品ですが、登場するのは古くさい学生です。主人公の「私」は、かつて自分を振った女性を「研究」することに明け暮れるのです。

それに比べると、八〇年代以降の空気はガラリと変わりました。たとえばクリスマスともなれば、「クリスマスファシズム」と言ってもいいほどの強迫観念が 蔓延 する。クリスマスを一人または同性と過ごすのは悲惨、だから全情熱を傾けて彼女をつくり、当日は豪華なデートを演出しなければならない、といった具合です。

ところが、今の空気はやや違います。当時は女性とつきあうだけで莫大な出費を必要としましたが、最近は女性自身による激しいダンピングが行われている気がします。今はそれによって恋愛に対する幻想が消え、高揚感ではなく虚無感だけが残っているのかもしれません。

たとえば一時期、インターネットで株を売買するデイトレーダーが巨額の儲けを出した、といった話がよく 喧伝 されました。そんなに簡単に儲けられるのか、と勘違いする人もいるかもしれませんが、実際には損をする人のほうが圧倒的に多いのです。しかし、そういう人には目もくれず、成功した人だけをもてはやすのが昨今の風潮です。

若者の側も、先輩と飲みに行ったり語り合ったりなんかしたくない、仕事が終わればできるだけ自分のプライベートに戻りたい、という気持ちを隠さなくなりました。たしかに年齢の高い人とのコミュニケーションは非常に疲れるものです。感覚も違うし、相手によっては威張る人もいるし、聞きたくもない説教が多くなりがちです。  しかし、かつては説教も含めたコミュニケーションは当たり前でした。若者は、先輩・後輩をはじめとするさまざまな鬱陶しさの中で、多くのことを学んでいったのです。その意味で、先輩をはじめとする大人の経験知にも、ある程度のリスペクトはしていたわけです。我慢して聞いて学んだことを、仕事上の原動力にする。就業時間以外にも、こうして勉強していたわけです。

 もちろん、マルクスも指摘したとおり、こういう文化的なことは経済的な基盤がなければできません。下部構造としての経済活動があって初めて文化が生まれるということは、世界史を見ても明らかです。  たとえば、ある程度豊かな宮廷文化というものがなければ、そこに『源氏物語』も生まれ得なかったでしょう。一人残らず明日の食べ物に困っていたら、さしもの紫式部も物語を書く余裕はなかったはずです。

かつて、社会党が瞬間的に政権を取る(自民党・さきがけとの連立) という奇跡のような時期がありました(一九九四年六月~九六年一月)。しかし、その奇跡とともに、同党はすさまじい勢いで自己崩壊していきました。一時はかなりの支持もあったはずですが、今の社民党は極小政党でしかありません。  代わりに民主党が台頭し、二大政党の形にはなっていますが、自民党が二つに割れたようなものです。つまり、政治全体が保守全盛の構造になっているわけです。今さらマルクス主義が思想的なバックボーンになることは、まずあり得ないでしょう。  ということは、思想的にこれだ、といえるようなものはもはや存在しないのかもしれません。政治にもない、現代思想にもないとすれば、どうすればいいか。若い人たちは、思想的なバックボーンなしに生きていけるのでしょうか。

現在も、多くの思想が書籍としては出版されています。しかし今の若者に、それを読みこなすだけの学力がついていません。岩波文庫を積極的に読んでいる大学生はほとんどいなくなってしまいました。

生活の中に生き方の規範があればまだいいのですが、家庭内でそのようなものも伝承されていません。かつて幸田露伴は娘の幸田文 を厳しく鍛え、「 渾身」という生き方の構えを、身から身へと伝えました。幸田文はまた自分の娘(青木玉) を、たとえば書道での姿勢が悪いと言って腰をけとばして鍛えました。こういう家庭はもう少ないでしょう。

しかも、兄弟やいとこ、おじさんおばさんも少なくなり、地域社会の人との関係も希薄化しています。つまり人間関係の経験が極端に少なくなっているわけです。その影響が、最近の中学生・高校生の幼稚さとして現れています。前述したとおり、本来なら家庭で甘えるべきところなのに、学校の教師に対して過度に甘えてくるという現象が起きているのです。

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2024年06月04日

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 教養がいかに大切かが分かった。夏目漱石や、著名人が出てきても、名前は聞いたことがあるで終わってしまう。教養を身につけなくては不味いと思わせてくれる本である。

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2020年08月12日

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若い時には読書をしていなかった。もっと早く本を読んでいたらよかったのにと後悔している。

若者文化で、特に最近のヒップホップから始まりズボンを腰下までずらすファッションに?だった。
明確な答えが有った。

白人文化への憧れから、黒人文化への移行。黒人文化が悪い訳では無い。安定した仕事につけない不安、まずしさから黒人文化への接点がある。
学習していないので、言葉ではなく単語のヒップホップでしか表現出来ない。

ロックの悪影響には、胸が痛む。客観視すると確かに、カウンターで否定するアメリカ文化の悪影響だ。楽に快感を得られるロックは、有害と表現されても納得してしまう。
アメリカ文化の大切な要素は取り入れず、楽な事しか取り込まなかった時代に自分が生きている事を知っただけでも、読書をした意味はある。

斎藤 孝は、自分の生涯の先生になるだろう。

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2013年05月15日

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ネタバレ

中高生にも読めるように語尾が、ですます調になっています。また、いかにも教科書や入試に出そうな感じな文章だなという印象を受けました。しかし、書かれている内容はなかなか納得できるものでありました。学問へのリスペクトがなくなってきているという指摘。モンスターペアレントなどにみられる先生への尊敬の欠如や、少し驚いたところでは就職の際の学歴不問という募集についてもなるほどと思わされました。確かに、学歴だけでは十分な評価はできませんが、学問をある程度頑張った、もっといえば学問を身につけた人へのリスペクトがないんじゃないのかという指摘には少し考えさせられました。

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2012年12月31日

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勉強は、明日に希望を持つためにすること!
もっと早く出会いたかった本です。
勉強しない大学生活を送ってしまったなあ

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2012年10月28日

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2022/07/26
齋藤孝さんの本面白い。ただ頭ごなしに勉強しろって言うんじゃなくて歴史も踏まえてメカニズムを解説してくれるからいい。検索万能社会についての文章が自分の核心をつかれてるようでドキっとした、、よし、本を読もうと思った

モンスターペアレントとそういう人の他人に対する敬意の無さってつながりがあるというのが、なんか自分に身に覚えがありすぎてウッ…となった、、

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2022年07月26日

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現代の日本に対して、何も疑問に思うことなく過ごしてきた若者ですが、齋藤孝さんから見た現代社会は昔と比べると質の低い学力・自己形成力の風潮が漂っているのですね。私は学ぶことを続けたいと更に気持ちを持つことができました。

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2022年02月12日

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明治大学文学部教授の著者が、今の世の中、学習をしない若者達へのメッセージ。もっと、みんなで考えてみよう!というメッセージ。

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2018年10月17日

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日本人のアメリカ化は深刻だな。
そして自分もその中の一人というのをかなりかんじました。 肝心なことを忘れているな。

日本人が伝えてきた「学ぶ心の伝統」を自分も伝えていかなければならない。 まずは自分が学ぶ精神を改めてから…

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2013年09月23日

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日本の近代教養主義の復権を願う内容です。
『読書論』で語られていた、宗教的道徳観を養うのは難しい日本において、
読書により様々な思想に触れる習慣が精神性に大きく影響を与えた
というのはなるほどなぁと思いました。
少しリンクする部分もある学びについての考察です。
歴史的背景も交えながら日本近代の学びの在り方について考察されています。
かつてはすべての学問として哲学・思想が基礎となっていたんですよね。
知に対する憧れを取り戻せたら、日本の未来も変わるかも。

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2013年08月07日

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ネタバレ

・日本人=勤勉?
かつては、日本人と"勤勉"は必ずセットだった
現在では学ぶ意欲が衰退し、"おバカ"をウリにする番組も目立つ状況
世界的に比べても、明らかに学力は下降している

生きる力は、学ぶ意欲とともにある
バブル経済の1980年代に日本人の学びへの意識が変わってしまった

・リスペクトの精神
なぜ学ばなくなったのか、それはリスペクトの精神が失われたから

リスペクト:
自分より優れたものがあることを認識し、それに畏怖や畏敬の念を持つこと
何かに敬意を感じ、あこがれ、自分自身をそこに重ね合わせていく心の習慣

リスペクトの精神が失われ、バカでもいいじゃないか、という空気に
開き直り社会、バカ工程社会、ノーリスペクト社会に

・垂直志向から水平志向の世の中へ
かつての日本 = リスペクト社会
 教師・意思・親・先人に対する尊敬・感謝の念
 学ぶことへのリスペクト = 学びへのあこがれ

現在の日本 = ノーリスペクト社会
 尊敬・感謝の喪失
 モンスターペアレンツ、ペイシェントの出現
 勉強嫌い、活字文化の衰退、読書離れ

・やさしさを重要視
真善美を求める、正義を突き詰める、天下国家を論じる考えから、
やさしさが価値を持つようになった

やさしさはカウンターカルチャー
親が子供を鍛え、社会が人を鍛え、厳しさのなかで何かを生み出す価値観、
だれもが努力し、我慢し、作り上げてきた資本主義社会に対抗して、
それを受け入れられない若者を中心に広がってきた

人に対しても、自分に対してもやさしく、本当の自分を見失わない生き方を求める
永遠に若者でいたい症候群、責任を大人として引き受ける意識が希薄になる

・学びをうばったアメリカ化
戦前はアメリカよりもヨーロッパ、ロシアの影響を強くうけていたが、
戦後はライフスタイル、思想的にもアメリカ文化に支配された
特にロックがその普及に大きく貢献した

アメリカの若者文化はカウンターカルチャーであり、
無から何かを生み出すのではなく、現在あるものへ対立する考え

伝統的な知 = ヨーロッパの古典主義への対抗
文化、知的遺産、教養への対抗意識

アメリカ人には1日でなれるが、フランス人には1日ではなれない
思想的な教養が要求される敷居の高さ

一方で、アメリカのフロンティアスピリット、インディペンデントな気概という
文化の優れた面は取り入れられなかった

教養主義を失い、中途半端にアメリカ化し、
寄りかかる柱を失ってしまい、金銭至上主義へ走ってきた

・自己形成から自分探しへ
自己形成
 学びの積み重ねによる自己形成
 旧制高校的教養主義
 垂直願望
  自己を掘り下げる、自己を向上させる、構築する

自分探し 1980年代~
 自分への不安感から瞑想
 水平願望
  どこかで幸運で出会いがあり、自分が一気に変わる

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2012年09月15日

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「教養」という言葉自体に対して、日常生活とは遠く、空論のように私ですら直感的に思ってしまうこと…これは確かにレベルが落ちているのだろうなぁ。流行の勉強会も、知への欲求というより、スキル獲得が主流に思えます。難しい(?)哲学には手が出ないとしても、大きな社会観や問題意識は持ち続けたいものです。

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2012年08月27日

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第5章:薄い人間関係を志向する若者たち
興味深かった。

教養を身につけることは、今の社会を知ること。
自分たちを知ること。
これからの未来を考えることにつながると思う。

薄っぺらい話しかできない人間にはなりたくない。

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2012年07月22日

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大学生の知的レベルの低下が叫ばれて久しい。しかしそれよりも日本人の知的レベルが落ちいているのではないかと著者は言う。特に強調するのが、読書量の低下である。自分もそれほど大学時代に本を読んだ方ではない。しかし、明らかにそれとは比較にならないくらいまわりの人は本を読んでいない。
 さらに思考能力のレベルの低下も著しいように思う。そもそも議論・討論・対論の方法さえ未熟である。論理力が弱いことも感じる。
 今の日本の学校教育に必要なのは書く力と技術、議論する力と技術、読書力である。これらは教える方にも技量が求められるが、皮肉なことにこれらの能力を一番持っていないのが日本の教師である。書く力がないから書かせっぱなし、論理力がないから議論を恐れて教えっぱなし(教えてもいないが)、読書も浅い読み方である。
 せめて読書会を週1回でも開いて、本の中身について論争させるだけでも知的欲求の向上には役立つだろう。

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2012年04月29日

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旧制高校に憧れた著者は現代のアニメとロックに明け暮れ、「教養」を軽視する若者を「バカ」と切り捨てる。
しかし、その奥底には日本を思い、若者に学ぶ喜びを知って欲しいという、熱い想いを感じ取ることができる。
あとがきの中にとても共感する言葉があった。
「占いや他人からのはげましだけに頼って、心の天気の心配ばかりしていても、本当の晴れは来ない。心の晴れは、技がもたらす。」
「空気は読むものでなく、つくるものだ」
「自分を支えてくれる『技』を磨き、その技で他の人を幸福にすることを生きがいとしてくれたまえ」
日々、大学教員として、学生を鍛え、直接向き合えない人のために本を書き続ける著者の言葉だから、心に刺さる。

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2012年02月03日

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なんというか、今までもやもやしてたものが若干取れた気がする。

昔の学生は遊ぶよりそれこそ「学」ぶ「生」徒だったんだと。
戦後アメリカの文化、ロックとかが入ってきてみんな自分を律するより楽なほうに逃げていった。
最近の「がんばらなくてもいいや」風潮はアメリカ化された結果なんだと。

うちの大学は滑り止めで入ったから、志望大学より偏差値は低め。
他の大学がどうか分からないけど、少なくとも大学生になって
授業中に「おしゃべりやめなさい」だとか注意されたくない。
で、単位も「ダメだろーなー」と思って出したレポートで取れる。
こんなんでいいの?と思った単位は数知れず。
ゼミの友人とも授業中以外でゼミの内容について語ることもなかった。
もっと知識と知識でぶつかれる友人がほしかったな。
お互い十分調べて議論でぶつかる、みたいな。

ま、受験期だらだらしてたから仕方ないか。
人生がやり直せるとしたら、高校時代に戻ってちゃんと受験勉強したい。
もっと偏差値高い大学入ってぬるぬる進級できるような所じゃない大学でちゃんと勉強したい。

それと、経済的にというのもあるけど親が絶対4年で卒業しろというのがプレッシャーだった。
もう1年行けたらドイツに1年留学してたかもしれない。
8月に短期留学したとき、ドイツの大学生は余裕があるというか、柔軟な学び方をしてると思った。
休学して自費で日本に来る人もいた。
日本人でそういう人がいないわけじゃない。

でも少なくともうちの大学は就職内定率上位校の面子があるのかそういう雰囲気がない。
ちゃんと進級して、ちゃんと学校のいうとおりやればいいところに就職できるよ。
どうも大学側(特に就職課)からそう言われてる気がしてならない。
イラッとしたから就職課にはほとんどお世話にならず自力で就活した。
うん、確かにみんな大学入るのは就職のためだけどさ。
でも悩む時間ってのが少しはあってもいいんじゃない?
それが4年間のうちに入ってるならちょっと短いと思う。

もっと本読もう。

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2010年12月12日

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学ぶことへの意欲が減ってきているのは、本当にそう思う。

子どもたちを見ていると塾に通っていたとしても
"やらされている"感が満載である。

読書量がどれほど大切か。
これが分かるのは読書をしている人だけであって、本に触れていない人は一生気付かない。

知らないことを知った時、無関心でいる怖さ。
自分には関係ないと思ってしまう人は自分を含め、たくさんいるんだろうなと思った。

自分のためだけではなく、"人のために"行動できる人は素敵だなぁ。

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2024年03月28日

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思想家、文学者への憧れ、リスペクトが書へと向かわせた。知的なもののステータスが高かった我々の時代。
偏差値偏重と批判の大きかった時代だが、知の怪物たちと向かい合い何とか理解しようと対峙した。
今の時代にこれを取り戻そうとしたら初等教育からだと思う。古典にふれ、学ぶ楽しさを味わう必要がある。大人ががんばろう。

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2021年10月17日

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今の若い世代が本を読まない、学ばないという現実に向き合うと共に、今度は自分どの様に、次の世代への手伝いが出来るのか?が問われているのだと思っている。

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2018年01月12日

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あこがれを持ち、学び続けること。学ぶことに対しての尊敬の意を忘れないこと。
あこがれを持ち勉強に励み続けることによって自分の軸もしっかりとしていき人としてどっしりと構えられる。現代の若者によくある一生モラトリウム、ということもなくなる。
皆で同じ定位置に留まって安心し合うような、お互いを慰め合うような関係じゃ駄目だ。志を高く持って、上へ上へと目指していかなければ。

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2017年08月31日

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「学ぶこと」に対する「リスペクト」がなくなってしまったという指摘は納得できます。この国の未来に対する強い危機意識が、著者にこの本を書かせたのではないかと思いますが、「あとがき」で取り上げられている子どもたちの読書や学習に対する熱気を伝えるエピソードには、まだこの国には希望があるということを感じさせられます。

ただ、大正教養主義を「リスペクト」する著者自身の好みが強く反映されていて、ドイツ哲学やロシア文学を学ぶべきだとされていますが、これには全面的には賛同できないとも感じました。もっと多くの、それこそどんな対象からでも、私たちは学ぶことができるのではないでしょうか。著者が批判的に言及している、戦後の日本が受け入れてきたアメリカの大衆文化や「ガンダム」などのサブカルチャーにも、学ぶことはたくさんあるはずだと思います。

もちろん、そうした可能性を著者が否定しているわけではありません。「スラム・ダンク」の友情論についての本を書いたこともある著者が言いたいのは、アメリカのロックや日本のサブカルチャーにも優れたものはあり、そこから多くのことを学べるのは確かだけれども、そのことを理由にして、他の学問や文化から学ぶべきものなどないといった態度を取るのは間違いだ、ということなのかなと理解しています。

ただ、やっぱり著者自身の「教養」観に基づいた懐古的な話が多いので、そこに抵抗を感じる読者も出てくるのは仕方がないという気がします。

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2014年02月07日

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ネタバレ

知へのリスペクトの低下を嘆くあまり、序盤から多少強引だなァと思う展開が気になる。ロックが嫌いなのは分かるが、アメリカ文化の輸入によって、まず既存の主流文化への抵抗から「時間をかけてやっと得られる教養」を志向しなくなり、そのうえ代わりにすぐ得られる快楽を選択するようになった、てのが特によく分からない。

でもこういう熱いひとが現状を嘆いてくれないと何も変わらない。知識がなければ、不利益を被ることを知ってほしい。その啓蒙のための入門書としてであれば使えるような(文章はさすがに読みやすい)。

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2013年06月06日

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齋藤先生の言う学びのベースは読書にあるわけですが、確かにデータとしてこれは少なくなっているなぁというのと、実際に自分が大学生の時とかもそうだし、今の周りの人も本を読まなくなっているのは事実。
昔の教育システムに回帰するのも現実的ではないと思うので、そこはもう少し理想から離れたヴィジョンを見たかったですね。

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2013年02月23日

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『そもそも学ぶとは、野生動物のように自ら知識を狩りに出かけ、貪欲に吸収することです。こうして知を得ることは、友人に伝えずにはいられなくなるような興奮を伴うものです。』
本当に勉強している人は、きつさよりも先の目の輝きがあると思う。(高校のときの前田君とか)
『読書とは自分の中で行う、偉大なる他社との静かな対話』『「情報」ではなく「人格」として書物を読む習慣を身につける』良い言葉だと思った

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2012年06月15日

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「かつて「日本人」と「勤勉」はセットであった。」
そうだそうだ、と思いながら読んだ。
「自分は未熟である。だから勉強という修行を積むのだ・・」
そうだそうだ。
「・・教養を重んじていない次の世代に対して、
 足腰の弱さのようなモノを感じている・・」
フムフム。
「勉強にエネルギーが出せないだけではなく、ナンパする
 エネルギーも持てないわけです。」
ちょっと言い過ぎかも・・。
「ものごとには、深さと高さがある」
「・・我慢強く掘り下げ、よじ登り、積み上げる・・」
そうすることによって生きる手応えが格段に大きくなる。
読み終わって、少し活を入れてもらった気分になった。

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2012年04月10日

Posted by ブクログ

本屋で衝動買いしました。■「学ぶ=読書」の図式に違和感この本ではあたかも学ぶこと=読書すること、であるかのように記述されています。それだけではないのではないか、と少し違和感を感じました。著者自身もこの違和感を持っていたのか、あとがきで若干それを釈明している節がありました。■「アメリカ化」が教養主義の衰退をもたらした不完全な「アメリカ化」が教養主義の衰退をもたらしたと指摘があります。これは、たしかにそういう側面もあるのかもしれないと考えさせられます。

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2012年01月09日

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「日本人は、一昔前までは教養が大切にされて、多くの人が本を読んでいたのに、今の若者はなぜ本を読まないのか」ということが語られている本。
齋藤氏の嘆きや憤慨が伝わってきて、やたらと熱い。

ただ、現状がどうなっているかという分析と、どういう流れで今のようになったのかという筆者の推測があるのみで、じゃあどうすればいいのかという提言はまったくされていないという投げやりさはある。「とにかく本を読め」という結論らしい。
でも、本を読まない人は、そもそもこの本だって読むことはないから、その人たちのところに筆者の主張が届くことはないだろう。

齋藤氏の主張には、とても共感出来るところが多いのだけれど、それでも、この本の内容はかなり片寄った意見だと思うし、アメリカについてや現代の若者について、明確な根拠にもとづいていないイメージで、勝手に決め付けている部分がかなり多い気がする。

自分の考えでは、今の日本は、この本で言われているほど絶望的な状況でもないし、その時代に合わせた形で適応をしているというだけで、現代人が昔の人に比べて劣っているということではないのだと思っている。
昔の人のほうが良く知っていたこともあれば、今の人のほうが良く知っていることもある。それは優劣の問題ではなく、どの時代のどの国民にもある、特性ということだと思う。
本を読まなくても、その分、実体験や、他のメディアから読書以上のことを吸収する人もたくさんいるだろうし、それが出来る時代だとも思う。

でも、齋藤氏がこの本で語っていることの真剣さは伝わってくるし、その危機感も非常に納得がいくところが多い。実効性はともかく、とても好感がもてる本だ。

ある時期を境にして、日本には「バカでもいいじゃないか」という空気が漂いはじめました。ある種の「開き直り社会」ないしは「バカ肯定社会」へと、世の中が一気に変質してしまったのです。(p.16)

フランスの政治学者トクヴィルは、もともとアメリカ人は書物を有する国民ではなかったと指摘しています。それに、互いの権利を承認するための訓練は不要、哲学も不要、国民性に見出されるあらゆる違いも捨象でき、アメリカ人には一日でなることができる、と述べています。
ではフランス人に一日でなれるかというと、それは無理です。デカルト、パスカル、モンテスキュー、ラブレー、ラシーヌ、ルソーといったものに対する教養がなければ、フランス人とはいえない。そういう敷居の高さが、一員になろうとするときのヨーロッパにはあるわけです。(p.78)

こういう若者の変化を見て、前の世代の人々が「教養のない人が増えてしまった」と絶望していたのが30年ほど前。現在では、嘆く人すらいなくなってしまいました。教養という尺度で日本のこの30年間を振り返ると、極端に劣化してしまったことは間違いありません。「無教養」、より正確には、「自らの無教養に対する羞恥心のなさと開き直りの態度」は、そのまま「バカ」と言い換えることができるでしょう。(p.155)

読書にかぎらず、高い山の切り立った崖を登るような努力やエネルギーを必要とすることは、若いころに経験しておくべきなのです。対象をリスペクトするがゆえに、難解であることを承知で立ち向かい、多くのことを根気よく調べ、深く考えながら、あるいは議論しながら少しずつ理解していく。こういう経験が、その後の糧になるのです。(p.168)

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2020年07月15日

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