あらすじ
ポーランド、ドイツ、イスラエル、日本、韓国――
犠牲者なのか、加害者なのか?
その疑問から記憶を巡る旅が始まった!
韓国の各メディアが絶賛した話題作、待望の翻訳!
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2007年1月18日朝、新聞を広げた私は首をひねった。購読する進歩系と保守系の新聞どちらも、『ヨーコの物語』(邦訳:『竹林はるか遠く:日本人少女ヨーコの戦争体験記』を批判する記事が文化面トップを飾っていたのだ。どうということのない本のように思えたが、驚くほど大きな記事だった。
韓国メディアの激しい批判は、「韓国民族イコール被害者」「日本民族イコール加害者」という二分法が揺さぶられたことへの当惑を表すものだったのだろう。避難する日本人女性を脅し、強姦する加害者という韓国人のイメージが日本の植民地支配に免罪符を与え、歴史を歪曲するという憂慮が行間から読み取れた。
その心情は理解できるものの、その二分法が常に正しいわけではない。韓国が日本の植民地主義の被害者だったというのは民族という構図でなら正しいが、個人のレベルでは朝鮮人が加害者に、日本人が被害者になる場合もある。個々人の具体的な行為ではなく、集団的所属によって加害者と被害者を分ける韓国メディアの報道は、「集合的有罪」と「集合的無罪」に対するハンナ・アーレントの批判を想起させた。
それ以上に興味深かったのは、論争の火が遠く離れた米国で広がったことだ。米国で6~8年生向け推薦図書リストにこの本が入り、ボストンとニューヨークに住む韓国系の保護者たちが2006年9月に異議を唱え始めたのが始まりだった。
『ヨーコ物語』騒動を見ながら、私はドイツとポーランド、イスラエルの記憶の戦争を思い出し、「犠牲者意識ナショナリズム」という概念を思いついた。
(はじめにより)
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【犠牲者意識ナショナリズム】
植民地主義や二度の世界大戦、ジェノサイドで犠牲となった歴史的記憶を後の世代が継承して自分たちを悲劇の犠牲者だとみなし、道徳的・政治的な自己正当化を図るナショナリズム。グローバル化した世界で出会った各民族の記憶は、互いを参照しながら、犠牲の大きさを競い、絡み合う。記憶が引き起こす歴史認識紛争がいま、世界各地で激しさを増している。
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Posted by ブクログ
360°、死角なく論理で武装したようなぶ厚い1冊。とにかくどの方面にも徹底して「君たちは本当にただ被害者であるだけなのか?」と厳しい視線を投げかける。ポーランド、ドイツ、イスラエル、韓国、日本……。本来加害と被害は表裏一体のはずなのに、自国に都合の良い被害者としての記憶だけを利用して被害者意識ナショナリズムに浸っているんじゃないのか?と圧倒的な論拠をもって突き付けられるド迫力がたまらない。
忖度やノリや空気やキャラクターばかり求められる今の社会の中で、そういったものを全く削ぎ落として徹頭徹尾冷静な、いや冷酷とも思える程の目線で本質を見極めようと試みるその誠実さに幸あれ。
Posted by ブクログ
今年一番の考えさせられる本でした。記憶の戦争、犠牲者意識ナショナリズム。戦争の記憶がグローバル化されるなかで個人の原罪までも行き着く事が理想だけど…
Posted by ブクログ
大変フラットな目線で、各国で発言した犠牲者意識ナショナリズムの形態を読み解く名著。
去年、昭和天皇と、ヒトラーとムッソリーニを並列したウクライナのTwitterが”炎上”しましたけれど、では枢軸国たる日本の、ヒトラー枠って誰なのか、誰が主体で戦争始めたのかが分からないのはなぜなのか。日本が二次大戦を始めた、というよりも、なんとなく戦争が始まって、原爆で悲惨に終わったような気がしてしまったように物語化してしまうのはなぜか…犠牲者意識ナショナリズムの補助線ですっきり見えてくる。
Posted by ブクログ
冷静に中立的な立場をとる筆者のどの国、どの団体、どの民族にも忖度しない姿勢には驚かされる。日本の加害性を指摘したかと思いきや、犠牲者の記憶を利用して立ち回る韓国に対する指摘も怠らない。個々の事例から犠牲者意識ナショナリズムがどのように作られているのか、またどのような規則があるのか、膨大な知識量で示されている。
私は日本人なので日韓関係の話には多少見聞がある。しかし本書を読んだことによって、ポーランドとドイツの関係を犠牲者と加害者という単純な対立と捉えていた自分の知識不足を恥じるばかりである。
戦争責任を背負った日本人としてグサグサくる内容もたくさんあるので覚悟して読みましょう。