【感想・ネタバレ】つむじ風 (下)のレビュー

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Posted by ブクログ

 1957(昭和32)年刊。
 梅崎春生のユーモア長編小説。
 私はもともと中学・高校の頃、北杜夫さんのユーモア小説・エッセイが大好きで読み漁っていた。本作は北杜夫さんの作品によく似た感じである。戦後派という重々しいイメージは全く払拭され、実に軽快な文体でドタバタコメディが展開される。地の文はしばしば「全改行」にもなり、昭和30年代の初め頃に既にこの様式があったのか、と驚いた。人物たちの会話を主体としてサクサクと進行していく手法は戯曲にも似ている。
 読みながら、「何故可笑しいのだろう」ということをときどき考えた。ベルクソンは「自動人形化」という妙な言葉で表現したが、確かに、読者としては人間的共感・没入および、人物から少し身を引いて対象化して見る二重性の生じる場所に、笑いの可能性が生まれるのかもしれない。人間的性情が極端になりそのロジックが異様な言動・状況を結果する際に、「アララこんなことになっちゃって」と呆れるところに笑いがある。モリエールの性格喜劇もこの仕組みだ。が、生じる結果があんまり悲惨だと笑えなくなる。暴君の残虐が民の苦痛を引き起こすのは笑えない。
 苦痛は、程度の問題かも知れないが、抑制されなければならない。本作では妻や女性秘書の尻に敷かれ締め付けられている中年男性が複数登場するが、彼らは苦痛の中に鬱々と沈むのではなく、意外と飄々としているように描かれているから救われ、「笑い」の方に寄せ付けられている。
 2軒の銭湯が競争のため湯代を値引きしすぎて貧しくなり、節約により両家族の食事がどんどん貧相になってメザシや梅干し・芋ばかり食い、結果として息子が痩せ細ってダンベルを持ち上げられなくなったり娘たちがフラフラとして転んだりするのが「可笑しい」というのは、それが深刻な困窮とは感じられず、あくまでも「よせばいいのに」という「呆れ」の範疇にあるから可能なのである。ここでは彼らの「苦痛」は読者にとって身に迫るなまなましさであってはならない。それはあくまでも対象化された苦痛であって、記号としての苦痛である。
「ヤレヤレ」と「呆れ」る段階の形成は恐らく、事象を記号として無害化する微妙な距離の取り方にあるのではないか。
 だが私の思惟は「笑い」の構造をすっかり探究し得たわけではない。が、それを改めて考えさせてくれる、本書は好個のユーモア小説であった。この分野として、なかなかよく出来た作品ではないかと思う。

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2022年05月02日

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