【感想・ネタバレ】がんは裏切る細胞である――進化生物学から治療戦略へのレビュー

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Posted by ブクログ

 がん専門の臨床家か研究者による著作かと思いきや、なんと著者の専攻は心理学である。もちろん略歴にカルフォルニア州立大学サンフランシスコ校のがんセンター創立メンバーとあるから知見と経験は十分だろうが、本書の記述を見ても臨床データに基づく記述は限定的で、数理モデルに基づく仮説が中心だ。にも関わらず、著者の専門である「協力理論」を軸とした本書の扱うスコープは極めて広く、様々なアナロジーを豊富に含み非常に説得的である。がんに関する書籍としては最近では『ヒトはなぜ「がん」になるのか(キャット・アーニー著)』があり本書の内容もかなりの部分がこれと重複するが、そもそも「なぜがんはこれほどまでに扱いづらいのか」という根源的な問いに多角的な回答を試みる本書は、間違いなく最近の医学・科学読み物の中でも出色だと思う。ぜひ一読をお勧めしたい。

 著者によれば。がんは我々が多細胞生物である以上不可避の現象である。我々が複数細胞による協力体制をとっているが故に、そこにつけ込む形で「裏切り」という独善的な戦略を採用しようとするインセンティブが否応なく生じてしまう。この「裏切り」という戦略そのものががんの本質であり、しかもこの戦略が「進化」という、多細胞生物のありようを規定するユニバーサルな原則に完全に従うものであるからこそ、がんは多細胞生物の存在に必然的に付随するのだという。著者曰く、「進化が形を得た存在、それががんである」。

 多くの読者が抱くであろう疑問、「なぜがんは自らの宿主を殺すような進化を遂げるのか」「進化は多数の世代交代を要する長期のプロセスなのに、一生の間にがん細胞が進化するのはなぜか」に対し、著者は明快に「マルチレベル選択(個体と細胞の複数のレベルで自然選択が作用する)」説で応答する。つまり、細胞レベルと個体レベルでは最適行動が異なるのだ。このような前提に立つと、複数のサブグループからなる集団(メタ個体群)では、個々のサブグループ内では「裏切り」戦略が奏功し優勢となるが、そのようなサブグループは他のサブグループとの競合下では不利になるため、メタ個体群全体では「協力」戦略をとったサブグループが優勢となることになる。ここでいうメタ個体群を多細胞生物の集団、サブグループを個体と考えれば、がん細胞の「裏切り」戦略を組織的な「協力」戦略すなわちがん抑制メカニズムで抑え込んだ個体が生物集団内で生き残る可能性が高い、ということが帰結する。
 このメカニズムは個々の細胞が最適行動をとる結果として付随(supervene)してくる一種の「集合的知性」に他ならない(なおこのがん抑制メカニズムは一般にはがん抑制遺伝子であるTP53を中枢に据えた一元システムなのだが、本書ではこの一元化がなぜ必要なのかが「見逃し」と「誤警報」の観点から説明されており面白い)。

 ではこのような集合的知性は、個体レベルと細胞レベルの進化がどのように相互作用する過程で生じるのか。それは、細胞が自由に増殖し成長しようとする方向への力と、これを抑制し統制した形で系を維持しようとする方向の鬩ぎ合いによって、であるという。ということはつまり無秩序に増殖し播種しようとするがん細胞の振る舞いは、実は我々多細胞生物の正常機能である体細胞成長と損傷修復と同一直線上にあることになる。がんが抑制困難な理由がここにある。細胞の振る舞いを放任しても抑制し過ぎても不都合があり、この細胞の振る舞いを適切なレベルに抑制しつついかに発現させるかという、トレードオフへの対処が淘汰を受けるか否かの分かれ目というわけだ。著者は、このトレードオフは、一般的な哺乳類の父親と母親の遺伝子のタンパク質生成方針の違いが「ゲノム刷り込み」により子の遺伝子に保存されることにより生ずるとしている。

 また著者は、がん細胞と生物個体の間のアナロジーを、それらの置かれた生活環境にも見出す。変化と脅威に富む環境に置かれ、短期的な生存可能性のため多大な資本投下を行う生物は多くの子孫を残す必要があり、結果として短いスパンで遺伝子変異を起こしやすい。逆に安定的な環境に置かれた生物は長期的な観点から投資を行うため、少ない子孫のためにその成長と成熟に多くのエネルギーを割き、遺伝子変異のスピードは遅い。これと同じことががん細胞にもいえ、抗がん剤や放射線による過大ながん細胞への攻撃は、却って遺伝子変異を通じた自然選択の機会の増加につながり、結果として耐性のある難治性の株を増やしてしまいかねない、とする。

 さらに一筋縄ではいかないのが、協力戦略に対する「裏切り」をその本質とするはずのがん細胞が、がん細胞同士のクラスター内では協力し合うことでより環境適応力を高め、より浸潤と転移を容易にしているらしい、ということ。これも通常の生物に見られる「互恵性」「遺伝的近縁性」により生存に有利な遺伝子変異を持つ細胞が自然選択を受け増殖するというプロセスの結果なのだが、たとえば自らは有限の増殖しか行わずコロニー全体のサポートに回る「ヘルパー遺伝子」の存在すら示唆されるというから驚きである。がんが「裏切り者同士の協力」とも呼ぶべきある種の社会性を備えている可能性があるというのだから…。だからこそ、その治療にもこの特性を十分に考慮した方策がとらねばならず、たとえば治療に対するがん細胞の感受性を維持する「適応療法」などを採用すべき、と著者は説く。

 冒頭で述べたように、本書の臨床的・実証的データは十分な量があるとは言い難い。たとえば終章の適応療法はほとんどが動物実験である上、臨床データもnが少なく統計的に有意であるとは到底言い難いものが紹介されている(PSA値が一定を超えた場合のみに抗テストステロン剤を投与すると前立腺がんの進展が抑制される、とした治験はn=11)。それでも、多細胞生物内に生じた「まつろわぬ細胞」であるがん細胞の本質に立ち返ることは、臨床家がより良い治療方法を長期的視野に立って模索するにあたって強力な補助線になることは想像に難くない。もちろん僕のような門外漢も、本書を読めばがんの本質についての理解が深まると共に、いつの日かがんを「飼い慣らす」治療が確立され患者とその家族にとっての福音が来ることを信じることができるのではないかと思う。

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2022年03月26日

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