【感想・ネタバレ】田辺聖子 十八歳の日の記録のレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

2019年の6月6日に亡くなった田辺聖子さんのご遺族が、遺品を整理している時に発見したという、聖子さんの昭和20年4月1日から、昭和22年3月4日までの日記。
樟蔭女子専門学校(現・大阪樟蔭女子大学)在学中の満十七歳から、卒業までである。

学徒動員で工場にて飛行機の部品を作り、大阪大空襲では家を焼かれた。
終戦の年には父を病で亡くしている。
激動の青春時代だった。

勉学への熱情と、国に尽くしたい気持ちの間で揺れ、戦争の中で青春が費やされていくことに焦燥し。
かなりの軍国少女でもあった。
勇ましいことも書かれており、終戦の日には悲憤慷慨している。
価値観が180度、変わってしまった瞬間だったろう。

昭和21年の暮れにはもう、デパートが賑わっているという描写があり、復興の早さ、人々の気持ちの逞しさに驚く。
進路を決める年でもあった聖子さんは、作家になりたいという情熱を持って小説を書き続けつつも、本当は歴史学者になりたいのだ、と書いてみたり、女医になって立ちたい、と書いてみたり。
しかし、終戦の翌年の大晦日には、自分には作家の道しかない、と心に決めている。

未発表の日記だったが、解説によれば、戦時中のことを書く時には常に、原本として下敷きにしていただろうという事。
後からの脚色を加えず、当時の目で書かれた文章をほとんどそのまま使っている箇所がいくつもあるという事だ。
それだけ、生の記録であるということ。
そして、とても読みやすいのは、梯久美子さんの解説にある通り、十八歳にしてすでに「田辺聖子」という作家が出来上がっていた、という事だろう。

0
2022年01月06日

Posted by ブクログ

戦時中の女学生の日々を淡々と綴られている点がよい。
学校生活、家族の話、戦況について、ひとりの人間が見ていたものをそのまま書かれている。田辺聖子は自身の女学生時代を振り返り「軍国少女」だといっていたが、日記を読んでいると共感できる部分もおおいにあり、当時の人々に少し親近感を覚えた。

ミリタリズムとは分かり合えないと感じていたところ、元々人の生活の上にある思想が重なるのであり、まったく話の通じない存在ではないんだと感じる。

ほか、国防にあたっていた内地の搭乗員の話と合致するできごとがあり、軍人側の状況と市井の人の状況を知ることができた。

0
2023年12月18日

Posted by ブクログ

第二次世界大戦の渦中の中での日記であり、どのように戦争が市民の中に存在し、一般の人がどんな思いをしていたのかの一面がとらえられる貴重な本だと思う。今でこそヒトラーの行動が正当化されることはないが、この当時は日本との同盟国であったドイツの君主として好意的な捉え方が読み取れ、かえって当時はどれだけの真実の情報を知ることができていたのだろうかと思った。この本を読んだことがきっかけで日本の近代史や、当時生きていた人の思いなどにも関心が深くなった。

0
2022年09月28日

Posted by ブクログ

当時18歳の少女が書いたとは思えない、とんでもない文章力!
クラスでも1番をめざし、小説家になるという情熱を感じることごできた。
日記で、生き生きとした学校生活をえがいており、自分も聖子さんの学友でその場にいるかのように感じた。
個性がある学友の描写も見事で、日記とは思えない。巻末にある、短編も当時書かれたとのことで、未完で気になるのもありました。

0
2022年09月07日

Posted by ブクログ

戦中日記読み比べ5作目、最終回。高見順、大佛次郎、吉沢久子、ケストナーの日記を順番に読んだ後に、こちらを読んでください。敗戦濃厚で「死」を意識する7月、原爆投下情報と実際の報道との落差に落胆する8月初め、そしてポツダム宣言受諾の知らせをいち早く知ってしまう彼らと全く知らない18歳の田辺聖子との落差、戦後のそれぞれの想いなどを、是非汲み取って頂けたら、と思います。


田辺聖子。昭和20年4月。田辺聖子の日記は4月1日に始まっている。作家になろうとする才気煥発女史を文字通りに表現したら彼女になるような、18歳の女子学生だった。大阪駅近くの写真館が実家であり、そこから東、河内小阪駅前の樟蔭女専の寮に住み、4月初めは兵庫県尼崎市の工場に学徒動員で宿泊していた。土日は大阪の実家に過ごしていたようだ。そして6.1の大阪大空襲で焼け出されて、8月の時は尼崎に移り住んでいる。
書き出すと止まらない。やがて作家になった時の下書きという意味も意図していたとも思える。大佛次郎や高見順とは全然違う。かの作家たちも、幾分かは後世の読者を意識していたかもしれないが、それよりも「記録」という意味合いが大きかった。田辺聖子のそれは、もうそのまま小説にしてもいいような「生き生き」とした文章が続くのである。

大きなエポックは2つある。6月1日の実家が焼け落ちた大阪大空襲は既に紹介した。ここでは8月15日の「終戦の日」を紹介する。


7月9日
高見順 生の充実を考える感じる。溢れるような充実感
私がいつ自分をとらえるかわからない。そこで生きたいと切に思う。それ故、生の充実を感じるのか。そうも考えたが、そうでもないようだ。

←この頃、しきりと「文学的な哲学」について日記に記している。「明日をもしれない命」がこれを書かせているのであろうか。

7月20日
大佛次郎 ○福井がやられた。茨城沿岸の小さい町がまたどれも焼かれた。上陸はやはり九十九里浜方面になるのだろうか。何となく苦もなくそのことが決行されそうに見える。そしてその後は国中鉢の巣を突いたような混乱となって現れそうである。国民が暗々裡に軍の権威を信じなくなってきた。

7月26日
高見順  (総務省情報局へ作家との懇談という名目で会議。「国民士気昂揚の啓発宣伝」のため協力せよと「要求」する会議。高見順は、神がかり議論にいや気がさしているが黙っている。出版関係の人が、結社の自由を叫び、民を信じずして何の士気昂揚か、と言った。部長は「民間人からは佐倉宗五郎は出ていない。特攻隊はどんどん死んでいる」と民間人を貶めるようなことを言う。以下はその時の応酬。)

そのあと折口信夫が国学者らしい静かな声で
「安心して死ねるようにしてほしい」と言った。すると上村氏が「安心とは何事か、かかる精神で‥‥」とやりはじめた。折口氏は低いが強い声で「おのれを正しゅうせんがために人を陥れるようなことをいうのはいけません」と言った。立派な言葉だった。こういう静かな声、意見が通らないで、気違いじみた大声、自分だけ愛国者で、他人は皆売国だと言わんばかりの馬鹿な意見が天下に横行したので、日本は今この状態になったのだ。似非愛国者のために真の愛国者が投打追放され沈黙無為を強いられた。今となってもまだそのことに対する反省が行われない。

←日記にせよ、遂に高見順はここまで書くようになった。それにしても、折口信夫は凄い。この頃は、彼の「最愛の」弟子折口春洋が硫黄島で戦死して蕭然としている頃ではなかったか?

8月7日
大佛次郎 (略)夜になると岸克己くんがやってきていよいよということになったという。何かと思うと広島に敵わずか2機が入ってきて投下した爆弾が原子爆弾らしく2発で20万人の死傷を出した。死者は十二万というが呉からの電話のこで詳細は不明である。(略)話が真実ならば国民は罪もなく彼ら(軍人たち)と共に心中するのである。悔しいと思うのは自分の仕事がこれからだという事である。この感慨だけでも方法を講じて後に残したく思う。知らないで死んだのではなく知りつつやむを得ず死んだのだということを。
←1番詳細な実情と正確な被害を聞いている!

高見順 新橋駅で義兄(新聞社勤め)から原爆の話を立ち話で聞く。
(略)「もう戦争はおしまいだ」
原子爆弾をいちはやく発明した国が勝利を占める。原子爆弾には絶対抵抗できないからだ。そういう話はかねてから聞いていた。その原子爆弾がついに出現したというのだ。衝撃は強烈だった。私はふーんと言ったきり口がきけなかった。
←やはり、ジャーナリストからいちはやく聴いている。

8月7日
吉沢久子  今日は広島市に新式の爆弾が使われた空襲で、大きな被害があった由。いよいよの覚悟を感じる。
←吉沢久子の周りでは原爆の真実は伝わっていない。これが庶民のほとんどだったのだ。

8月8日
大佛次郎 広重原爆に関する大本営発表が朝刊に出ている。例のごとく簡略なもので「損害若干」である。

8月10日
高見順  店へ行くと、久米さんの奥さんと川端さんがいて、
「戦争はもうおしまい」
と言う。表を閉じて計算していたところへ、中年の客が入ってきて、今日、午前会議があって、休戦の申し入れをすることに決定したそうだと、そういったというのだ。明日発表があると、ひどく確信的な語調で言ったとか。(略)
小島家そのことを言いに行った。
「戦争はおしまいだそうです」
「そうかね。しかし、たった今、ラジオでは阿南陸軍大臣が徹底的に戦うのだと言っていたぜ」
「え?」
7時の報道だ。とことんまで戦うと言うことも考えられる。そしてそういう場合は、みんな駆り出さいって、死ぬのである。国も人民も、滅びるのである。

←「中年の客」があまりにも不思議だ。あまりにも早すぎる(実際には御前会議の決定が10日だから、全く間違ってはないのだが、それにしてもその情報を得る立場の人はそんなに多くはなかったはず)。なんか、コレでSF小説が出来そうな気がする。

8月11日
大佛次郎 午後木原君が来る。夕方、門田くんが東京からの帰りに寄り昨朝7時にスイス・スエーデン公使を介し皇室を動かさざるものと了解のもとポツダムの提議に応ずると回答を発したと知らせてくれる。結局無条件降伏なのである。嘘に嘘を重ねて国民を瞞着し来った後に遂に投げ出したというより他にない。国史始まって以来の悲痛な瞬間が来たり、しかも人が何となくほっと安心を感じざるを得ぬということ!
←実質的に大佛次郎の「終戦記念日」である。それにしても、一般人にここまで早く正確にポツダム受諾の情報が流れているのが、意外だった。実際は軍の抵抗はなかなかしぶとくて、14日から15日にかけて「日本の一番長い日」が起きたことは、また別の話。

高見順  (新聞記事の阿南陸相の宣言を読んで)かかる状態に至ったのは、何も敵のせいのみではない。指導側の無策無能からきているのだ。しかるにその自らの無策無能を棚に上げて「何をか言わん」とは。嗚呼かかる軍部が国をこの破滅に陥れたのである。(略)義兄来たり。情報を持ってきてくれた。昨日の動きだ。降伏申し入れはやはり事実のようだ。(略)これではもうおしまいだ。その感が深い。とにかくもう疲れ切っている。肉体的にも精神的にも、もう参っている。肉体だけでなく精神もまたその日暮らしになっている。
←実質的に高見順の「終戦記念日」である。

8月13日
吉沢久子  11日、12日と今週はなかったが、新聞社の人たちが集まる我が家での話題は、もっぱら、いつ敗戦が発表になるかと言うことばかり。今日はアメリカ側で重大閣議があったようで、それは日本側からの申し入れに対する返事のためのものだったとのこと。
大野さん、夜9時ごろ帰宅。「日本側の申し入れに対し、敵側より承諾来た由。天皇陛下はご異存なく、民を救う道と言われたが、軍は承知せず、今日4時からの閣議がまだ続いている」との話。
←実質的に吉沢久子の「終戦記念日」である。

8月15日

田辺聖子 
何事ぞ!
悲憤慷慨その極を知らず、痛恨の涙、滂沱として流れ、肺腑は抉られるるばかりである。
(略)
陛下におかせられては、広島に投下せる一原子爆弾とソ連の挑戦につき、この上、民草を苦しめるに忍びずと仰せられているが、陛下よ、臣ら草莽の微臣、いやしくも大和民族たるものは、1人として瓦となり全からんこと期するものあらざるなり。
(略)
国憂ふをとめごごろのひとすぢに すべてを捧げまつりしものを
(略)
原子爆弾何するものぞそのいくつ われらが上に落ちて来ぬとも

←全く新聞社経由の秘密情報が流れてこない庶民の一つの典型的な反応であろう。14日は、やはり無条件降伏かと噂が流れていたはずだが、日記には14日の記述はない。また、あの聞こえにくい放送で降伏の理由をちゃんと聞き取っている田辺聖子の教養は確かなものと見なくてはならないし、稚拙な歌ではあるが、この日彼女は18首も歌っている。彼女の爆発的な感情は、「この世界の片隅で」のすずの15日の慟哭と同じようなものだったのだろう。「様々な犠牲を経て、ここまで来たのに!」という悲憤慷慨である。

高見順  (5ページに渡って書く。もう小説の種本のような気がする)(略)
(12時の天皇の放送あと)「何かある、きっと何かある」と軍曹は拳を固める。「休戦のような声をして、敵を水際まで引きつけておいて、そしてガンと叩くのかもしれない。きっとそうだ」私はひそかに溜息をついた。(略)敵をだまして‥‥こういう考え方は、しかし、思えば日本の作戦に共通のことだった。この1人の下士官の無知陋劣という問題ではない。こういう無知な下士官にまで浸透しているひとつの考え方、そういうことが考えられる。すべては騙し合いだ。政府は国民をだまし、国民はまた政府をだます。軍は政府をだまし、政府はまた軍をだます。(略)「戦争終結の聖断・大詔渙発さる」新聞売り場はどこもえんえんたる行列だ。その行列自体は何か昂奮を示していたが、昂奮した言動を示す者は1人もいない。黙々としている。
←既に終始客観的描写に徹している。いつまでも「騙し合い」でしか情勢を見ることができないのは、現代日本も同じだと思う。

吉沢久子 (彼女は初めての陛下の放送を街中で聴き、街の人たちの態度を見たいと思ったので、神田駅近くの電気屋の前に行った)
(略)切れ切れに聞き取れる言葉に、この戦争で私は何をしてきたのだろう、と思ったら涙が出て止まらなかった。放送が終わってまわりの人を見たら、やはり泣いている人はいたが、あげた顔に、戦争は終わったのだという明るさが見えたと思った。
←この切り替えの速さが素晴らしい!

8月19日
高見順 新聞は、今までの新聞の態度について、国民にいささかも謝罪するところがない。詫びる一片の記事も掲げない。手の裏を返すような記事をのせながら、態度は依然として訓戒的である。政府の御用をつとめている。敗戦について新聞は責任なしとしているのだろうか。度し難き厚顔無恥。
(略)
日本はどうなるのか。
一時はどうなっても、立派になってほしい。立派になる要素は日本民族にあるのだから、立派になってほしい。欠点はいろいろあっても、駄目な民族では決してない。欠点はすべて民族の若さからきている。苦労のたりないところから来ているのだ。私は日本人を信じる。

←高見順の新聞批判は至極もっともなことを言っている。しかし、その日の日記の最後の言葉はガッカリした。嗚呼!これが当時の日本の知識人が、戦争が終わった時に感じた正直な「あるべき日本像」なのか、と落胆した。ケストナーのそれと比べて、あまりにもの落差に愕然とした。欠点は「民族の若さ」から来ているのか?そうなのか?そして、最も恐ろしいのは、高見順が当時の知識人としては、むしろ普通だった、むしろリベラルな方だったということだ。

吉沢久子  早朝から畠の草むしり。洗濯、湯殿掃除、その間に朝食の支度などと大働き。何ともいえず働くのが楽しい。気持ちが明るくなってくる。(略)皆さん帰られたところで一度お湯をあけ、新しい水を入れて、我が家の男性たちに順番に入ってもらう。風呂焚きしながら歌をうたっていた自分に気づき、ひとりで笑ってしまった。空襲がないとは、何と嬉しいことかと思った。

←偶然、高見順の日記と読み比べることになった。どちらが「あるべき日本像」を語っているのか、明らかだと私は思う。明るく働き、生活し、平和を満喫すること。


8月23日
大佛次郎 島木健作の告別式で内山君と鎌倉文庫に行く。皆々いる。夷堂橋が流出したと小島政二郎の話。二楽荘で小集、文学報告会に対し情報局の係よりこれからは米国側の註文でで動いてもらうことになるやもしれずの挨拶ありしと。対的憎悪昂揚とかの指令がこう無節操に変わるのである。鎌倉の仲間は揃って退会しようと決議。官吏とはかかるものかの感慨深し。
高見順の話。尾崎士郎はさだめし悔しがっているかと思うと現実を見ることだとしゃあしゃあしている。一般の文士を非国民の如き攻撃せし者がかかる態度は怪しからぬと息巻く。戸川政雄は敵のくる厚木に行って腹を切らねばならぬと言っていたそうで、この方が馬鹿なりに可憐に見えると談。
←鎌倉文庫仲間は揃って文学報告会退会を決議。この辺り彼らが尾崎士郎とどう違うのか、評価が難しい。見逃しているかもしれないが、高見順と初めて会話しているところが記された。

高見順 二楽荘で島木のため同人の追悼会食をした。(略)席上でこんな話を聞いた。鎌倉のある町内会長は、5歳の子供をどこかに隠せ、敵が上陸してくると軍用犬の餌にするから‥‥そういい触れて歩いたとのこと。なんというバカバカしい。いや情けない話であろう。
←大佛次郎が書いたことが一切出ていない。どうしてこんなにも認識が違うのか?

9月4日
田辺聖子 今、授業している。久しぶりで聞く講義、しかも以前とはまた心がけが違う。私は必死になって勉強しているけれども、勉強はどんどん身体の中へ吸収されるようで快い。
←この頭の切り替えは、「若さ」以外の何者でもないだろう。
←この後、田辺聖子は12月23日に父親・貫一を漫44歳の死別(病死)に遭う。このノートに、細かい文字で、彼女は爆発的に日記を書き、その間に「小説」を幾つも滑り込ませている。溢れるような才気、関西表現、田辺聖子は10数年後見出されるはるか前から既に田辺聖子だった。

1960年
ケストナー 「追記」
(ケストナーは、日本の原爆投下の前に偵察機で戻ってきた来た米兵士が精神を病んで自殺したという(嘘の)うわさを信じた。そして全人類が自殺したらどうなるかと夢想する。宇宙の年代記には誰かそのことを記録する者が残るだろうか、と夢想する)
いいや、それはない。宇宙には何十億と言う星がある。地球の自殺がどれだけ証明されようと、確証のないパイロットの自殺と大差ない。太陽系と渦巻銀河の年代記から見たら、地球の住民が自ら選んだ没落などたかが知れている。人間が人間でなくなるのなら、太陽の周りを楕円に回る小さな球体など、どれほどのものだろう。些事である。不快でぞっとする。大きくなりすぎた些事なのだ。「ああ、愛する天よ!」と叫ぶのをやめて、私と一緒に言おう。「ああ、愛する地球よ!」

1945年を銘記せよ。

←神様から見たら、人間の愚かな行いは「些事」である。人間こそが、人間の愚かな行いを、原爆投下も含めて、具体的に記録しなくてはならない。私たちこそが!

0
2022年08月16日

Posted by ブクログ

田辺聖子の戦中日記が見つかったと発表されたのは、2021年6月のこと。遺族が田辺の家の片づけをしているときに発見された。日記は田辺が17歳になったばかりの1945年4月1日から始まり、樟蔭女子専門学校を卒業する47年3月10日までの日々を綴る。日記の一部は、その年、文藝春秋の7月号で公開された。日記中に記載された未発表短編・中編小説とともに、日記全文を書籍化したのが本書である。

樟蔭は美しい学校だったという。だが、田辺が意気揚々と入学したその校舎で勉強できたのは1年足らず。1年生の正月明けには学徒動員が始まり、郡是(現グンゼ)の工場で飛行機の部品を作る作業に従事することになる。やがて大阪は大規模な空襲にたびたび見舞われ、6月、写真館であった田辺の家も焼かれる。そして8月の終戦。ハイカラで鷹揚だった父は、戦時中のストレスもあったのか、病に倒れ、その年の暮れに亡くなる。住まいを転々とし、食べる物も満足にない中、一家は必死に暮らしをつなぎ、田辺はなんとか卒業まで漕ぎつける。その後は、文学への夢を抱きつつ、ひとまず、家のため、事務員として就職するのだ。
そんな日々である。

非常に大変だっただろうとは思うのだが、日記は全体としては闊達で若さを感じさせる。
学校でのちょっとした出来事、父や母への思春期らしい反発や不満、親戚や近所の人への冷静な観察眼、そして若者らしいまっすぐな希望とその裏返しの不安。
当時、田辺が通った国文科というのは花形で、優等生が行く学科だったらしい。国文学を学ぶことへの強い自負心が滲む。田辺は相当に努力家かつ優秀であり、クラスの首席になったことも綴られる。そのうれしさを記すと同時に、それを喜ぶ自分を外から冷ややかに見ているもう1人も自分もいて、後に作家となる「目」はもう宿っていたのだなと思わせる。
この箇所だけではなく、全体に観察眼の鋭さをうかがわせる記述は多く、疎開させた荷物や食料を勝手に使ったり消費したりしてしまう親戚への辛辣さはなかなかのものだ。思春期の潔癖さに留まらない洞察を感じさせる。

屈託もあり、懊悩もある。少女は、自分は小説家になれるだろうかとまだ見ぬ未来を憂う。
しかし、彼女は決めるのだ。勉強を続けて小説を書こうと。
あらゆる真実と誠意と純情をこめて、私は果てしれぬあこがれへ、心を飛揚させる。何かしら漠々とした、とりとめのない楽しさが待っていそうな翌、二十歳の年・・・・・・。
若さが持つ、この輝かしさ!

日々の細々とした出来事も興味深いが、とりわけ印象的なのは、家が焼けたその日、終戦の日、父が亡くなった日である。
空襲の日、田辺は学校にいた。普段は鉄道で通っていたが、空襲のためにあちこち不通となっている。仕方なく途中からは歩いて帰る。
第百生命は全滅だ。きれに中が抜けている。閉じたガラス窓からプゥーと黒煙がふき出している。
電柱が燃えきれず、さながら花火のごとく火花を散らしている。
熱気のため、かげろうのようなものがゆらゆらと焼けあとにこめている
焼けたところばかりではなく、まったく安全で空襲を受けた様子もない地区もある。不安と安堵を行ったり来たりしながら、歩を進める。だが田辺の家は燃えていた。迎えた父と母の様子。自分の受け答え。周囲の有様。
自身、大きなショックを受けながらも、観察眼は曇ることはなかったのだ。

終戦の日の記述はいささか仰々しい。
他の箇所とは文体も異なり、漢語が多用され、悲憤慷慨いかばかりといった風である。敗戦を嘆く短歌が十数首並ぶ。
軍国少女だったというその片鱗が窺える。しかし、その心情に嘘はなかったのだろうが、それが生来の気質なのかというと、少々違うような印象を受ける。いや、生まれつきの軍国少女ってどんなのだよ、と聞かれるとよくわからないのだが、やはり元から神国日本等と思っていたというより、周囲の空気に流されているように見えるのだ。まっすぐで純な若さを絡めとってしまう「空気」って何なのだろうなと考えさせられる。

日記に含まれていた小説の中では、無題の中編(未完)が抜群におもしろい。学園物の群像劇で、田辺の級友たち(自身を含む)がモデルとなっているのだろうが、人物が描き分けられ、それぞれ生き生きと作中を跳ね回っている。実体験を再構成したようなエピソードも起伏に富んでおもしろい。
日記の中では、国文学をもっと研究したいというような記述もあるのだが、やはりこの人は生活者の視点からの小説を書く天性の才があったのではないか。

全体に丁寧な編集。適宜、文中に編集者による注が入り、時代背景への理解を深める。梯久美子の解説付き。年譜もおもしろく読んだが、古典に関する著作への言及がもう少しあってもよいのではないかと思った。

0
2022年01月31日

「小説」ランキング