荒川洋治のレビュー一覧
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ネタバレ荒川洋治さんが選んだ「昭和の名短篇」戦前篇の登場である。これは読まないわけにいかない。
各作品について感想を述べる。
芥川龍之介「玄鶴山房」
芥川は昭和2年7月に自ら命を絶った。昭和の文学は芥川の死に始まったと言ってもよい。玄鶴という小資産家の「山房」には娘のお鈴と銀行員の重吉夫妻が同居している。玄鶴もその妻のお鳥も老齢で結核を病んでいる。ある時、山房のかつての女中であり、玄鶴の妾でもあった二十代のまだ若いお芳が、子を連れて玄鶴の「看病」にやってくる。この微妙な関係にある縁者たちが、一つ屋根の下で過ごす。娘婿の重吉や住み込みの看護婦・甲野の視点も絡みながら、彼らの心理が描写される。怪奇や幻想的な短篇を得意とした芥川だったが、これは完璧なリアリズム小説。この緊迫感はただ事ではない。
黒島伝治「橇」
1917年から始まる日本のシベリア出兵を題材とした作品。戦争の悲惨さ・無意味さを、素朴ながら力強く訴えた反戦文学の嚆矢である。
梶井基次郎「闇の絵巻」
冒頭3段落目が強い印象を残す。以下引用する。「闇! そのなかではわれわれは何も見ることもできない。より深い暗闇が、いつも絶えない波動で刻々と周囲に迫って来る。こんななかでは思考することさえ出来ない。何が在るかわからないところへ、どうして踏込んでゆくことが出来よう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければならないだろう。裸足で薊を踏んづける! その絶望への情熱がなくてはならないのである。」
林芙美子「風琴と魚の町」
本当の貧しさを経験した少女時代。それがのちの流行作家をつくりあげた。
徳田秋声「和解」
同じ尾崎紅葉門下の泉鏡花との「和解」。多少の文学史の知識がないとわからないかもしれない。
木山捷平「一昔」
小学校の教師をしていた一昔前のことを書いている。ある教え子の姉が仄かに寄せる思いが、はかなくも美しく描かれる。
室生犀星「あにいもうと」
室生犀星の小説作品を初めて読んだのだが、圧倒された。ならずものの伊之と、都会に出て堕落していった妹もんとの言葉の応酬は壮絶。名作である。
伊藤整「馬喰の果て」
この作家の作品も初めて読んだが、室生と同じく、その骨太な人間描写に圧倒された。時化に遭い絶望的だと思われていた準平が助かったかもしれないとわかった時の、かつての愛人お園の心理を短く鋭く描いたラストが余韻を残す。
太宰治「満願」
何度か読んだ作品だったが、これほど短いものだとは今まで気づかなかった。たった3ページ。しかし読者に忘れがたい印象を残す。太宰は天才作家である。
新見南吉「久助君の話」
童話作家と目されている作家だが、友達とは何なのか考えさせる深い作品だ。こういう作品も拾うところに編者の非凡な目利きとしての才能が表れている。
金史良「コブタンネ」
「久助君の話」に続き、子供のころに出会った人と出来事を回想する話。昭和戦前期には、朝鮮半島出身の隣人が今よりも身近にいた。
中島敦「名人伝」
これも昔読んだことがあったが、再読して傑作であることを再認識した。中国の地名や人名が出てきて、難しい漢字も多いので、ちょっと見なんだか厳めしそうだが、これほど面白い作品もない。ほとんどギャグ漫画としても読める。「名人」の超越のしかたが半端ではない。
織田作之助「木の都」
これも再読して名作の印象を深めた。繰り返し味わうことの愉しさとよろこびも、この短篇集から多く得ることができた。
最後に荒川洋治さんの「解説」から、なるほどと思ったところを引用して終わる。この選集には収録できなかった井上友一郎の「残夢」の中で主人公が口にする言葉である。「「総じて自分の今までの文学の勉強のしかたが、絶えず時代とか社会とかいう風なことを一方においてでなければ、何事も考えられないようなところがある」。だが「何事も時代とか社会とかに関聯させて考えるというやり方が、一向その必要のない家常茶飯の事柄にさえ、ばか正直に、よけいなものさしを当てさせる結果になり、わかりきった物事さえも、よけい混乱させたり必要以上に深刻に見せたりしてしまうのではあるまいか」。」
戦前・戦中・戦後という言葉が、じつは文学に対する素直な眼差しにフィルターをかけているところもあるのではないか。そうした反省を私に促した。 -
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本書は、詩にまつわるエッセイ集である。
(詩の特色、詩の歴史、詩人紹介、詩の将来等)
様々なエッセイがあるが、「散文は「異常な」ものである」「作者になること」が特に印象に残った。
前者の内容は、詩は人間の感覚的思考の働きに近いものであるのに対し、散文は読み手に伝えることを優先するため、この感覚的思考に沿わないような文章を書くとのことだ。まるで脳天をかち割られたような衝撃を受けた。詩とは詩人の脳内世界の表象だったのだ。
後者の内容は、読む詩の作者になることで、詩をより理解しやすくなるという論旨であった。試しに書かれている方法をやってみると、詩に対する視野がすごく広まっていることがはっきり分かった。その方法とは、読む詩の作者になりきることである。詳しい内容は本書を読んでみて欲しい。
本文から引用させていただくと、「詩を読むことは、詩を書くことなのだ」
詩の読み方や特色だけでなく、簡単な詩の歴史を説明していたり、知名度がまだ低い詩人の紹介もしていた。
詩に対する私の世界観が広まった。そんな一冊だった。 -
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ネタバレⅠ詩のかたち
Ⅱ出会い
Ⅲ詩を生きる
Ⅳこれからのことば
の四章から成っています。
著者の荒川さんは詩の歴史をあまり知らないと述べられていらっしゃいますが、私は高校の教科書程度しか知らなかったのでかなり勉強になりました。
特に、北原白秋・萩原朔太郎・室生犀星の三人のかたい結びつきなども面白く読めました。
「これまでの現代詩は『時代という愛情』に包まれていた。戦争があり、闘争があった。政治の季節には政治があった。(中略)いまは時代も、たたかう相手も鮮明ではない。読者もいない。何もなくなったのだ。(中略)だとしたら、ここから本当の詩の歴史がはじまるのかもしれない」以上抜粋。
「唱歌」 石垣りん
みえない、朝と夜がこんなに早く入れ替わるのに。
みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。
みえない、
私にはそこの所がみえない。
(くりかえし)
著者は「詩の歴史も、この父や母のように何も教えてくれない。詩はひとりになった。詩は人が生きるということに、いまとても近づいているのだと思う」と述べられています。 -
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「詩のことばに象徴されることばがまわりから消えて、これまでなかったようなへんなことがあちこちで起きる。詩は、人間に何かを教えていたのだろう。それを失った人にはわからない、何かを。」<詩のようなことば>全体が遠ざけられているという危機感が、ひしひしと伝わってくる。詩人のエッセイなので、文章にも著者独特のリズムがある。散文を読みながら詩的表現も味わえる。
詩と散文の違いについて腑に落ちる解説がある。「散文はつくられたものなのである。散文そのものが操作、創作によるものなのだ。それは人間の正直なありさまを打ち消すもの、おしころすものだから、人間の表現とはいえないと思う人は、散文だけではなく詩のことばにも価値を見る」「詩を思うことは、散文を思うことである。散文を思うときには、詩が思われなくてはならない。ぼくはそのように思いたい。」
この本は<ことばのために>というシリーズの一冊として2004年に刊行されており、これはその文庫化であるが、7年以上経過したことにより、新たに書き下ろされた6編の文章も加えられている。ものをしっかり見る人がいなくなったことに触れた「眼と社会」や、若き日の与謝蕪村がすでに「自由詩」を書いていたことを発見する「君あしたに去りぬ」には、詩のことばが現在も昔も、時代を越えて息づいていることに気付かされてはっとさせられる。
しかし、最も重要な指摘がなされているのは「詩の被災」である。東日本大震災の後で、大量の詩や歌が書かれていることへの違和が表明されている。「誰も何も言えないのをいいことに増長、拡大。人々の求める方向に流されていったのである。翼賛的な空気もあった。」日本は被災したが、詩も被災し、ことばも被災しているというのだ。ことばは時間をかけて書かれなければならないのに・・・。こんな勇気ある発言をできるのは、やはり著者が「詩とことば」を大切にしている「詩作家」であるからだろう。 -
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荒川洋治のエッセイが気に入っているという記憶があって本書を手に取る。読み始めてこのエッセイがその記憶とどう繋がっているのかが解らなくなる。
本書の中で、荒川洋治は具体性の人である。どこに落ち着かせるべきかがあいまいな事柄を、そのままに放っておくことができない。人口や地名が内包しているかも知れない隠された真実が気になる。そんな人であることが強烈に伝わってくる。あれれ、こんな感じのエッセイを書く人だっただろうか。
しばらく読み進めると、荒川洋治がことばについて語り出すのを目にする。ああこれだ。この感じが気に入っていたのだろうな。
時に荒川洋治の評は厳しすぎるように思えるときがある。ことばに対する真剣な態度の為せる業だろうか。厳しすぎるとは思うけれど、同時に、その切り口のまっすぐなことに魅せられずにはいられない。そのことが記憶に残っていたのだ。
しかし、本書で見せる荒川洋治の異常に具体性にごたわる姿勢と、ことばに対する感覚には何のギャップもないのだろうか。そんなことを思いながら読み進める内に一篇のエッセイに辿りつく。曰く「行間はない」。
およそ詩人のことばとも思えない発言のようであるが、目にすることばの奥へ、そこにある文字の持てる意味を通して向かっていく態度に、ああそういうことなのだな、そうであれば何のギャップもないのかも知れないなあ、と思い直す。
ことばを決してあいまいな感覚で弄ばないこと、それが恐らく荒川洋治の真骨頂なのであろう。
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「本を読むのが遅いんです」そういう人に、このエッセイ集を薦めたいと思っている。
作者は荒川洋治という詩人である。だから自然と、詩や文学についての話が多くなる。けれど、困ったことがある。そこであげられた作家のほとんどを私は知らなかったのだ。
彼が口にするのは、忘れられた作家なのである。文学史にも残らない、皆に忘れられた人々。荒川はそういう作家の小さな声を聴き取ってゆく。こんなひとがいたそうですよ、あんなひともいたそうですよ、荒川洋治はそう語る。
本書には何かを「教えてやろう」という気配もないし「主張するぞ」という意気込みもない。ただ静かに、荒川洋治は語っている。
冒頭に「読むのが遅い」人に薦めたいと書いた。それはなぜかというと、この文の"調子"を味わって欲しいからである。読むのが遅い人というのは、きっと考えながら読んだり、あるいは一字一句飛ばさずに丁寧に読んでいる人だろう。荒川の文章は、そういう読み方にこそふさわしいのだと思う。ほんとうにきもちのよい流れだった。
ときに、彼の言っていることは攻撃的になったりもする。なのに、ふしぎとやさしさだけは失われない。まさに"語り口"の魅力があるからだろう。(けー)
(追記)この本棚にある山田詠美『4U』のいくつかの作品を、荒川さんはとても誉めていた。『4U』もいつか読んでみたい。 -
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荒川洋治・編『昭和の名短篇 戦前篇』中公文庫。
現代詩作家である荒川洋治が厳選した昭和の名短篇13篇を年代順に収録した文庫オリジナル・アンソロジー。解説では昭和の名長篇も紹介される。
昭和は遠くなりにけり。昭和から平成、令和と時代は移ろい、令和という新しい時代を迎え、昭和の価値感は全て崩壊してしまったと言えるだろう。日本人が戦後の焼け野原から立ち上がり、身を粉にして働き、高度経済成長期を経て、ものづくり大国としてその地位を確立したのが昭和であった。
今や働き方改革などと言って、残業規制や様々な休暇制度が導入され、労働時間は減少の一途を辿り、それに物価高も相まって実質的な賃金は減少している。また、LGBTQやらジェンダーレスなる欧米の思想が一気に雪崩込み、男性は男性らしく、女性は女性らしく、勤勉実直といった昭和の価値観はすっかり失われてしまった。結果、非正規、虚業に走る者ばかりが増え、凶悪犯罪や特殊詐欺事件は増加するばかりだ。テレビでは女装した男性タレントの姿を観ない日は無い。真面目に働く者が陽の目を見ない、本当におかしな時代になったものだ。
芥川龍之介『玄鶴山房』。傍目からは見えぬ家庭内の嵐。長らく病の床に着く画家の堀越玄鶴の邸宅に玄鶴の面倒をみたいと言って子供を連れた妾の女がやって来る。たちまち平穏だった玄鶴の家庭に嵐が吹き荒れる。
黒島伝治『橇』。一種の反戦文学であろう。日本軍のシベリア出兵を題材に戦争の理不尽さ、虚しさを描く。
梶井基次郎『闇の絵巻』。山間の療養地で何時しか闇を愛するようになった男。闇は男の絶望感の象徴なのか。
林芙美子『風琴と魚の町』。薬の行商をしながら各地を放浪する親子3人の一家。風琴、ハーモニカを奏でる父親とちょっと五月蝿い母親、食いしん坊の娘、まさこ。貧しさの中にも幸せが垣間見える。
徳田秋声『和解』。この短篇の背景を知らなければ、『和解』という表題の意味が解らない。作者の経営する小さなアパアトに転がり込んで来た有名小説家の弟。作者はその弟の死を看取る。
木山捷平『一昔』。不意に昔のことを思い出すのはよくあるあこと。19歳の小学校教師だった頃の回想。ボクちゃんと呼ばれた教え子とその姉の思い出。
室生犀星『あにいもうと』。厳しい川仕事に勤しむ父親と仏のように優しい母親、怠け者の長男と気性の荒い妹のもん。何だかんだ言って、家族として上手くまとまっている。
伊藤整『馬喰の果て』。北の大地で交錯する男女の生き様。北海道が舞台。馬喰崩れの準平と妻の妙の従姉妹のお園とのただならぬ関係になる。荒天の海に船で出た準平の遭難に関係を精算出来るとほくそ笑むお園。
太宰治『満願』。他人の嬉しい姿もまた良薬。酔っ払って自転車に乗り、怪我をした主人公が治療でのために駆け込んだ医者と懇意になる。ある日、医者の元に訪れると肺の病で3年も医者に掛かっていた女性が寛解を果たす。
新美南吉『久助君の話』。新美南吉の童話らしい短篇。久助君が余り親しくない兵太郎君と遊ぶが、いつの間にか兵太郎ではない何者かに変わっていた。
金史良『コブタンネ』。表題の『コブタンネ』とは少女の名前である。『コブタンネ』と遊んだ昔の記憶と現在。
中島敦『名人伝』。名人と呼ばれるまでの長い苦難の道程とその行き先。寓話めいた短篇。弓の腕を極めようとした青年が辿り着いた境地とは。
織田作之助『木の都』。こういう短篇も味わいがある。大阪の街の暮らしを市井の人の目線で描いた短篇。
自分自身が昭和生まれで、青春期を過ごしたが故に昭和という時代には深い思い入れがある。生まれて直ぐの記憶は長屋での暮らしだ。その長屋には後に新聞社の社長となる人も暮らしていたが、どういう訳かその人の息子に噛み付いて泣かせた記憶がある。長屋の隣には大学の学生食堂で働く夫婦が居り、その娘さんにはよく遊んでもらった。近くの酒屋が大家という長屋は共同便所に共同炊事場で風呂は無く、2日に一度、銭湯に通った。部屋は1部屋で足の付いた白黒テレビと卓袱台くらいしか家具は無かった。母親が段ボールに油紙を貼った玩具箱を作ってくれた。長屋の庭には何故か山羊が2頭飼われていた。国道の区間整理で長屋が取り壊されることになり、新興住宅地に引っ越したのは3歳の時だった。長屋には生まれた直後から3歳まで居たので、自分には1、2歳頃の記憶があるということだろう。
本体価格900円
★★★★ -
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現代詩人であり随筆家である荒川洋治氏がやさしく説く『日記学』。
小学校時代からずっと日記をつけている著者だからこそ書ける日記をめぐる情景をすくい取り、あれこれを綴る。日記のつけかた、日記のことば、日記のつける順序等シャープな視点で日記を解剖した指南書。
日記…と、ひとことで言っても、子どもの頃の夏休みの絵日記、中学生になれば交換日記、異国の地でのひとコマを記した旅日記、昨今のブログまで時代・年齢・状況によって、その姿を変える。
まず「古今東西、人はどんな日記をつけてきたのか?」をテーマに文学者の日記を渉猟する。
所謂「日記文学」の考察。
武田百合子(武田泰淳の妻)は、移住先の富士山麓の山小屋での13年間にわたる家族の日々の営みをのびのびとした筆致で記した。内田百閒は齢八十になっても食への欲求が尽きることなく毎夜の献立を几帳面に記載。美味だったものには「○」、そうでなかったものには「×」の評価 まで付けている様子が眼前に浮かび上る。徳富蘆花は恋心のみならず自身の性愛までを大胆に綴る。
著者の考えに倣えば、日記は残しておかないといけない。散逸四散しないように1ヶ所に保管しておく。何かの拍子に過去の自身に確認を取らないといけない時に日記の出番となる。そう、日記は集積してこそ、その効力を発揮する。
そのことは本書表題の『日記をつける』の「つける」にもつながる。では、なぜ「日記をつける」なのか?著者は『「つける」は“しるしをつける” “しみをつける”がそうであるように、あとあとまで残す感じがある。いつまでも残るようにつける。ゆえに日記は「つける」なのだ』と導く。
我が意を得たのは「人間は疲れると、文章中に「とても」「たいへん」「非常に」「いちばん」「ものすごく」等の副詞が多くなる。激しく首肯。
僕も定期的に日記を無性につけたくなり、それは大体1年ぐらい続く。そして、何もなかったようにある日静かに日記帳をほっぽり出す。その間、必ず惰性で書く時が現れ、字は乱れ、描写はぞんざいになる。とにかく仔細に書くのが面倒くさくなる。
その「しんどい時の日記との向き合い方」について言及する。内面を綴るのはしんどい。それを避けようとする。
著者は以下の見解を示す。
(日記では)自分をよく見せたりする。本当はこんなことではなく、別のことで辛かったのにその別のことをつける勇気はない。義務もない。日記は自分のものだから。感情面の出来事についてはいつもほんのちょっとだけ事実とずれたものになっている。だから、本当のことはちょっとだけかけ離れれたところにあるのだ。そう思えば元気も出る。日記への疑いの半分は消える。
まぁ、日記なんて書きたいと思ったことない方にとっては関心外でしょう。もし「マツコの知らない世界」で、「日記の世界」を取り上げるなら、誰をさしおいても著者だと断言できるぐらい『日記を科学』している。実用性が高く、日記が頓挫しそうになった時に必ず下支えしてくれる一冊。 -
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公開されている日記文学や著者の経験から、「日記をつける」ことについて、述べられている。
結局のところ、ライフログ=人生の記録=日記。
そして、そこでは、第三者の視点も意識したい。それが、自分とは少しずれた自分であっても。
岩波アクティブ新書で出ていたものの、文庫増補版。
ライフログノートに触発されて、日記があらためて気になったので購入。
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(目次)
1 日記いろいろ(絵日記
日記へ ほか)
2 日記はつけるもの(「書く」と「つける」
日付と曜日 ほか)
3 日記のことば(手書きの文字
はじめての日記 ほか)
4 日記からはじまる(まず、つけてみる
夕立の二人 ほか)
5 あなたが残る日記(一〇大ニュースを決める
東京の日々 ほか) -
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多くの既刊の日記エッセイを例に、日記のつけ方や向き合い方を説いた1冊。
私自身も日記をつけて10年くらい。本来日記はプライベートの極みのような作業だと思っているので他人様の日記を覗き見する心持ちで読んだ。本書から感じたことは、結局日記は自由に、気楽に、好きに書いていいということ。
と併せて、飽き症の自分がなぜ日記をつけ続けるのかも考えてみた。とりとめのない日常や考えを書くと、まず言葉にすることで心の整理がつく、客観的になれる。そして後々見返した時に何気ない一文から、その時の思い出が一気に甦る。楽しくなる、嬉しくなる、悲しくなる、苦しくなる、悶絶する(笑)。そして最後は必ず笑えてくる。
そんなものすごく個人的なヒトトキのために、これからも日記をつけようと改めて思えた。 -
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ずいぶん読み終えるまで時間をかけてしまったけど・・・ようやく。ちょっとずつ大事に読んでたってことで。色んな文人の色んな日記の引用が沢山。私が好きなのは、荒川さんの「日記」という行為そのものに対する思い入れの方だったりするんだけど。
P46 手帳が空白だと未来がないように感じる。手帳は明日につながるらしい。でもそれはあくまで予定の世界。手帳に書かれてもそれが実際にあったことなのかは、しばらくの間本人が知ってるだけ。時がたつと自分でもわからなくなる。土曜日にお姉ちゃんと会わなかったとしても、手帳の文字をあとから訂正することはまずない。日記は手帳とはちがって原則として事実をあつかう。その意味では、とてもたしかな世界だといえる。予定が消えたり、傷をうけたときも、日記ならそれを受けいれてくれる。
P63 人が日記をつける現場を見かけたことがある。何をしているのかなと思うと、日記をつけていたのである。みんなが近くで飛んだり、跳ねたりして活動していても、静かな時間はどこかにあるものだ。
P131 あの人は、どう思っているのか。何をしているのだろう。
疑惑や不安をおぼえると、日記のことばは、ふえていく。疑惑や不安のために、日記をつけはじめることもある。
P178 恋人ができると、その不安な気持ちのために、自分の日記を振り返るものである。「あ、このときは、こうだったから、あの人は、こう言ったまでのことなのだ」とか「いや、このときのことばは、やはりほんとうのことだったのか。ああだめか」なんて思い、消えかかる電灯みたいに、暗くなったり明るくなったりしながら、自分の日記の文字を何回も読むのである。あの人がぼくを好きである証拠が、見つかりますように、と。
P180 ・・・あることをおぼえていることで、他人を幸福にすることはある。他人をしあわせな気持ちにしようと思っている人は、ものをおぼえようとするものである。ぼくはどうでもいい人の言ったことについては記憶できない。好きな人が言ったことは、耳をすますだけに、すべてをおぼえるわけにはいかないものの、なんとか耳に残るものである。
・・・愛するということは、あるいはたいせつな人をもつということは、記憶に懸命になる、そうさせられるということである。
P201 さて最後に。ぼくはどうして日記をつけるのだろう。
日記をつけていると、自分のなかの一日のほこりがとり払われて、きれいになるとうに思う。一日が少しのことばになって、見えてくるのも心地よいものだ。ぼくはその気持ちのなかに入りたいために、日記をつけるのだと思う。時間のすきをねらって、あるいは寝る前に、
ちょこっとつける。
あのひとときが好きだ。それがとても、ぼくには楽しいのだ。つけるときの、そのときのために、ぼくは日記をつけるのだ。今日も、これからつけるつもり。 -
Posted by ブクログ
日記。誰にでも書けるのに、長く書き続けるのは案外に難しい。何を、どのように書けばいいのだろう?毎日がこともなく過ぎるときにも、何か大きな出来事に気持ちが圧倒されるときにも、日々のことを(というか、自分のことを)記す日記とは、だいたい、いったい何なのか。
わたしはある時ふと日記をつけたくなり、その参考書としてこの本を買ったのだけど、その点で十分に実用に足る内容であった。筆者が本の後半で「こんなことも、つけておこう」と勧めるものは「いま住んでいる家の間取り/引っ越して何年かたつと忘れてしまう・・・」「窓からの風景」「衣服の傾向」「会社の人たちの描写」「いまの仕事」など、なるほどと思うものばかり。日常を過ごしていれば当たり前のことでも、何年か過ぎてみれば、残しておきたいものなのだ。
実用的な面は別として、筆者の溢れるばかりの日記愛にも、一読の価値あり。絵日記、はたらく子どもの日記、働く大人の日記、不倫中の文豪の日記、燈台守の日記・・・。
書く人の楽しみもあり、読む人の喜びもあり。
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Posted by ブクログ
日記のいろいろが紹介されています。本文のまず始めのページには、イタリアの働く子供の日記の手書きのページが紹介されていて、それだけでもう、やられた!という気分になりました。
筆者が小学生のときの日記に書かれた担任の先生の、気の利いた優しく鋭い赤インクのコメントを読んでは、「担任の先生ってえらいなあ・・・」と思う。
名作に登場する日記の記述。それも日本だけではなく海外の作品からも紹介されています。また、文豪が実際に綴った日記も。
日記というものが、こんなにもさまざまな形、ありとあらゆる重さで書かれている事実も興味深く、そして、自分のために書いたものであっても、時を経て他人に読まれるものであるということをあらためて知り、とても不思議な気分になりました。
文中にはいろんな日記文学が紹介されているので、読書ガイドとしても見逃せない1冊です。ここに出てくるもの全てを読みつくしたい気持ちになっています。
また、日記に対する心構えも記されています。
とはいっても、「こう書くべし」なんて重い気持ちにさせるのではなく、「結局、したいようにすればいいのだ」と最後はまとめてくれる、そんな背中押しの1冊となっています。
日付と曜日、天気など、ささいなことでも単なる記録を超え、すべての事が大切な要素。
そして、取るに足らないように感じる、いつも同じように思える出来事でも、書いておけばそれは大切なドラマになりえるんだなあ。。。と、あらためて、自分の日記を楽しんでつけたいな、と思い直すきっかけになる素敵な本でした。
10年日記に日常を綴って3年目ですが、なんでも素直に書いておこう!とあらためて思いました。
【2011.2.3 Blogより】