眼に見えないモノこそ大切だ。眼に見えるものしか信望しないとすれば、表層にしか、批判する視野の狭い人になてしまうだろう。
言葉の裏にあるものが言葉なのだとすれば、見えないモノを見るというのは、ただ、そういう見えないモノを、意識するという事になるのだろうか。
確かに、認識という行為においては、言葉主義
...続きを読むなのかもしれない。でも、言葉が総ての世界構築になっている訳でもない。なぜなら、人間が、認識出来る世界というのは、宿命的に、極小の世界であり、極小の世界が総てではないからだ。遥か宇宙の果てというのは、人間の認識の上では永遠に捉える事のできない真実だ。
それに認識という行為の汎用性も、またまた疑問に残る所である。想像と認識の差異はどれくらいのものだろうか。また、今、自分たちが認識している世界は、果たしてどれくらい真実味があるのだろうか。
この本では、プラトン、アリストテレス的な世界認識が限界に来ているというが、みやすけの感覚でいえば、今こそ、プラトン、アリストテレス的な思想が必要な時期ではないかと思う。それは、科学的な面と、認識の面での、二面性を持った内の、認識の面での、彼らの思想は、まだまだ生きていると思うからだ。
認識とは何か、想像との差異は、どこからくるのか。はたまた、人間が言葉という一つの生理に縛られているとすれば、言葉によるコミュニケーション、認識、分別を介さない存在にとって認識とは何か。それは、プラトン的にいえば、イデア思想の反復であると思う。