大森兄弟のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ螺旋シリーズ6冊目。
原始編!
ところどころ謎のワードが出てきて、おそらく海だな、おそらく太陽だなみたいなのがわかってきて楽しいが、それとは別に普通にネズミとかどんぐりとか、現代と同じ用語が出てくるので、どうせなら全部変えろよと思いながらもそれやったら単に全部新しい言語で書けという無茶振りになるし難しいな…
海族には死と生の概念がなく、というか隠されていて、山族は死と生どころか武器などの文化もある。
そして起きまくる地震のせいで彼らが出会い、そして破滅していく。
まあ、海族はいつまでも死の島を隠せる気がしないし、山族は放っといても相打ちやいけにえで滅びそうだし、どっちにせよ滅んでたのではないかという気がする。
武器を知った海族が狩りを楽しみまくるシーンがある意味一番怖かったかも知れない。頭に巨大な岩が落ちてきて半分潰れたような死体になっても、離れ島に置いておけば別の存在として復活すると思い込んでる海族。そして争いという概念がないが、弓で山族を攻撃するのは躊躇せず行う。
でも、怪我をしたら痛いというのはあるわけだし、その痛みが度を超えると死ぬ、というのは気づかざるを得ないのでは… うーん。
単語だけが違うのかと思いきや、主人公とその父親が長老的な存在に背中をさすられて黒い塊を吐き出すという謎の文化というか病気があった。しかも特別なのはそれだけ。アレはなんだったんだろう。役割のストレスによる病気なのか、誰にも言えない秘密を吐き出すメタファー的なものなのか。
最終的には海族側についた山族の知恵で武器が作られ、戦争が起き、人が死にまくってるところに更に地震と津波が来て新天地に旅立つ…のか?
なんかところどころ何が起きてるのかよくわからないイベントがちょいちょい起きてた。
ただ、山族合流からの勢いがすごく、一気に読み終わってしまった。満足度は高い。
巻末座談会として螺旋プロジェクトに関わった8人の作家の対談が載ってるが、ネタバレの予感しかしないので最後に読む。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ螺旋プロジェクトの第1弾。
固有名がなじみのないカタカナで、また古代を表現するために知らない単語で表現しているので最初はメチャ苦戦しました。第2章が終わる頃には慣れましたけど、進んでは戻り、進んでは戻りを繰り返しました。
死の概念がないイソベリと生贄という犠牲を払って生きるヤマノベ。現代の感覚ではどっちもどっちな感じがしますが、この物語を神話、と捉えると、まぁこういう世界観もアリかな、と思いました。
ハイタイステルベの家系、カリガイ・オトガイはマダラコが言うように、イソベリの生贄として生きることを強いられていた。イソベリの掟のようなものを守るために。カリガイは辛かっただろうな、と思いました。マダラコもそれは同じことですが、マダラコはヤマノベで死を理解しているので、逃げ出せたんでしょう。
ウナクジラはどういう役割で登場したのかな?たぶん、ハイタイステルベはイソベリを守るため、って言っていたけど、死を理解させることでイソベリの目の前で朽ち果てていったのかなぁ、と思いました。また、共通シーンの何かが壊れる、の何かはこのウナクジラなのかなって思います。ほかに該当するようなものなかったしな。
超越的な存在はウェレカセリ。途中でエビヌマに沈んだまま出てこなくなって亡くなったのか?っていう謎はあるでんすが。ウェレカセリの残したメッセージを、マダラコとオトガイが読み解くところは、面白かった。ウェレカセリは全部、知っていたんでしょうね。ウェレカセリの喋り方、おもしろい。
最後、残っていたヤマノベたちもイソベリの舟に乗れたのか、その舟の穴は大丈夫だったのか、「ウナノハテノガタ」に向かって行けたのか、マダラコはイソベリたちとうまくやっていけるのか、ヤキノが新たな災いのもとにならないのか・・・。疑問がいっぱい残ったまま、希望のエンディングを迎えた。
苦戦したけど面白かった。
螺旋プロジェクトの第1弾として読みました。別の作品でマダラコとかオトガイとかまた出てきたらエエな、と思います。ウェレカセリはどこかで登場するみたいですね。楽しみです。
引き続き螺旋プロジェクトを読んでいきます。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「ウナノハテノガタ」
「海の果ての潟」かと思って読んでみたが、「海の果ての方」だった。
オトガイはイソベリの少年。
イソベリには死の概念がない。
動かなくなったら、息をしなくなったら、イソベリは島へと運ばれる。
そこでイソベリはイソベリ魚となり、ケガは治り、昔々にイソベリ魚になった人たちとウナでずっと幸せに暮らす。
たった一人、島へ運んでくれるハイタイステルベはオトガイの父、カリガイ。
イソベリは、食べたい分だけシオダマリで魚や貝やタコを取って食べる。
争いごとのない世界。
そこへ、森の奥から見慣れぬ獣のようなヤマノベのマダラコがやってくる。
ヤマノベは、武器を取って戦うことを知っている。
ヤマノベは、死を弔うことを知っている。
ヤマノベの仲間に追われたマダラコを匿い、大地が揺れて崖崩れでけがをしたヤマノベたちを救ったイソベリ。
それはいけないことだと、ウェレカセリは言う。
ヤマノベとイソベリは近くで暮らしてはいけないのだ、と。
しかしケガが癒えたヤマノベは採れるだけの食材をシオダマリで採り、イソベリに分けることなく、余らせたものは捨てて腐らせていく。
武器を持たないイソベリは…。
薄い本なのに、すごく時間がかかりました。
苦しくて、読むのが。
オトガイの親友ヤキマは、ヤマノベの世界観をどんどん吸収していきます。
知らない概念を知る喜び。
しかし、それが彼を幸せに導いたかというと、そうはならない。
ハイタイステルベは、イソベリで唯一「死」を知る存在です。
たった一人で秘密を抱えているカリガイの心が、どんどん蝕まれていく様子は、読んでいてとても辛いものでした。
そして次代のハイタイステルベたるオトガイもまた、「死」を知らないがゆえに無茶をしても平気なイソベリたちに、命を、身体を、無駄にするなと言ってしまいたくなります。
「死」を知らないイソベリは、まるで特攻のようにヤマノベに向かっていきますが、あっけなくやられてしまうのです。
だって今まで争ったことすらないんだもの。
最後は、ヤマノベもイソベリも大きな脅威に晒されることになります。
なんとなく希望を抱かせる終わり方。
でも、私はずっと、カリガイの苦しみが辛くて苦しくて。
一人の苦しみの上にある大勢の幸せ。
マダラコはそれに反発をしてヤマノベから追われることになるのです。
そしてハイタイステルベにすべてを任せて安穏としているイソベリの在り方も、ヤマノベと同じといいます。
要は生け贄だけが苦しめばいい、と。
その、悪気のない無責任が重い。 -
Posted by ブクログ
螺旋プロジェクトではなかったなら、伊坂幸太郎氏の企画でなかったなら、間違いなく読むことはなかったであろう作品。
そのうえで、だからこそなのか、今までに味わったことのない不思議な読後感で、時間がたった今でも鮮明に記憶に残っている。
太古の人々の、言葉が発達していない世界観の中で紡がれるものがたりは、前半は正直読みにくかったのだけれど、しだいにその独特な文体にも慣れていき、後半には気が付けば癖になっていた。
螺旋プロジェクトの全作品をちゃんと読んでみようって思わせてくれたのは間違いなくこの本のおかげです。
自分の好みで手に取ったわけではない(企画として手に取っただけの)作品だからこそ、新たな出会いがあった。自分が好きそうな、興味がある本だけではなく、そうじゃない出会い方をした本も、積極的に読んでみようと思わされた作品でした。 -
Posted by ブクログ
螺旋プロジェクトの最初から読んでみたいと思い、大森兄弟さんの本を初めて手に取った。
原始時代について描かれた小説を初めて読んだが、これを書くのは大変なご苦労だったろうと容易に想像できた。というのもある程度の史実がベースになく、物も固有名詞もなく、全くのゼロベースから創造なさっての作品作りだと、素人でも容易に感じられたからである。
そういう意味でひらがなやカタカナが多く、読みづらいスタートではあったが、内容には考えさせられ、惹きこまれ最後まで一気に読まずにはいられなかった。
最後の場面に登場した方々には、その後も生き抜いて欲しい。
最初によく意味も分からず、伊坂幸太郎さんと朝井リョウさんの作品を読んでしまったが、時系列にあらためて読み直したい。
螺旋の続きが楽しみだ。 -
Posted by ブクログ
やっと螺旋プロジェクト完読ー!
時代を逆行して読みはじめた螺旋プロジェクト、結果それで良かったかも。
まだ、ものに名前がつけられる前の古代の話ということで、読みにくくて、この物語から読みはじめていたら挫折していたかも。
二つの種族が交わる最初というわけではなく、すでに対立を経験し、疲れた海族が流れ着いたさきで長い年月を経たあとの物語。
どちらの種族が悪い、良いという問題ではなく、生き方、文化、言葉の違いにより起こる、現代にも通じる根深い問題がそこにはあります。
けれど、最後は海も山もみんなで大きな舟に乗り、みんなでひとつになって乗り越えようとする、微かな希望が見える。そして次の時代に(私たちに)託していく、そんな終わりかたでした。
時代を逆行して、未来編から読んだからこその、この読後感!
良かった! -
Posted by ブクログ
言葉の定義がない時代。
繰り返される族同士の争い。
離れて暮らし、あの世に生贄を捧げる族と、死の概念を捨て去った族。
混じり合うと、争うしかなくなる。これは宿命なのか。これが後世にどうつながっていくのか。
「螺旋プロジェクト」というシリーズを知って、時代順に読んでみようというスタートの一冊。
固有名詞がない原始時代を描く難しさ(同時に読む難しさも)を感じながらも、後半はハマって一気読み。
これはシリーズ全部いくしかない…
死を知ることは幸せか、そうじゃなのか。
知らないから投げ出せるのか、
知っているから臆病になるのか。
考えさせられる一冊。
シリーズが楽しみだ -
Posted by ブクログ
螺旋プロジェクト 4作品目
初の大森兄弟さんの作品
最初はハイタイステルベ、オオキボシ、ウナなどなど。色んな言葉が出てきて戸惑いながら読んでました。読み進めていくと、だんだんと慣れて原始時代に入っていけた感じです。
言葉や食べ物ももちろん違う、人が亡くなるということ、亡くなった後の対応、イソベリとヤマノベで違う。現代は文化の違いとして認識できるが、他の者を見たことない側から見ると、きっと恐怖に感じるんだろう。今の時代にも自分とは異なるものを排除しようとすることはなくならない。でも、中にはヤキマやマダラコのようなお互いを知ろうとする柔軟なものもいる。
最初は原始時代の物語に不安があったけど、楽しく読み終えました。
次は未来へ -
Posted by ブクログ
ネタバレ螺旋プロジェクト(私の中で)2冊目。
まず、なんだかすごいものを読んだなぁという感想。
記号のような言葉も、読み進めていくと文脈から意味を持つ単語に変わる過程が、言葉の生まれた過程そのもののようでまずそこに感動した。よく書いたなこれっていう。
死について対照的なイソベリとヤマノベ。
死の概念というのは隠されると、怪我を恐れない大胆な行動になるのか?本能は作用しないのか?とか人間の姿じゃなくなる(イソベリ魚になる)のは悲しくないのか?など、疑問は少々ありながらも、それを超える世界観。生々しいありありとした描写が良い。
死(死後)について誰も分からないのは現代もこの時代も変わらないという人間のちっぽけさに反して、一歩前に進もうとしたオトガイのラストシーンが生を際立たせていた。「死にがいを求めて生きているの」に続いての2冊目だったので、より生と死について考えさせられた。
他の螺旋プロジェクトも楽しみだ。
どうでもいいけどハイタイステルベという単語が自分の中でしばらく流行語になる予感。 -
Posted by ブクログ
大森兄弟の作品。
実の兄弟による小説家コンビとのことだが、今回の『螺旋』プロジェクトで目にするまで作者さんの事は知らなかった。
『螺旋』の全ての始まり、原始を担当する。
読み始めて直ぐ、その設定に取り込まれた。
どこか辿々しい語り口、固有名詞ではなくブンブン等の形容を用いた呼び名…。
それらは全て、人間がこの世の主導権を握っていると勘違いする前、もっと大自然や生きとし生けるものを敬っていた時代設定だからこその、作者の仕掛けた技法だ。
現代と共通の固有名詞が生まれる以前の原始が舞台なので、作者は創意工夫を凝らしたんだろうな。
そしてなんとなく、
ハイタイステルベ=廃体捨てる部(←語り部、物部などの「べ」と同じ使い方なのかな)
ウナノハテノガタ=海の果ての方(潟?)
なのかなーと思いながら読んでいた。
ウナ、オオキボシ等の耳慣れない呼び名について何の説明もないまま、当たり前のように物語が展開してゆくが、それらが何を指しているのかは前後の文から直ぐ分かる。
作者の用意した世界に段々と慣れてきた頃、ウェレカセリの名前が登場してハッとした。
伊坂幸太郎の小説では、ウェレカセリとは人工知能の名前だった。
原始のウェレカセリは言ってたじゃないか、「その時にはもう別のジダイにいるのっ。」。
改めて、螺旋プロジェクトとして繋がっている事にワクワクした。
イソベリ、ヤマノベ其々の特長や生き方がうまく描かれていた。
争いの切っ掛けもこの時代ならではの事で、違和感なく受け入れられた。
螺旋プロジェクトという大きな歴史の流れの始まりの物語だと思うと、良く出来てるなーという感じた。
【追記】
文庫の巻末、「螺旋プロジェクトが誕生するまで」の座談会がとても楽しい。
【追追記】
2022.12.14
他の螺旋プロジェクト作品を読み進める内に、
「ウナノハテノガタ」の良さが分かってきた。
☆3→☆4へ変更 -
Posted by ブクログ
ネタバレ少年が悪意に触れることで自己を確立する、逆説的成長譚。
「おまえも覚えておくといい、世間には、信じられないくらい意地悪な人間がいるんだよ。」
本書の冒頭で主人公に対して、父親が伝えた印象的な言葉である。
主人公は中学生で、少年から青年への過渡期にある。
少年期の意地悪は、悪意のない純粋無垢なものであることも多い。しかし、青年期へと足を踏み入れた10代半ばにもなると、意地悪は明確な悪意を孕んだものへと変化していく。
主人公もまた、鬱陶しい友人のサダの意地悪さにあてられるにつれ、徐々に悪意のある意地悪さを発露していく。
さて、犬は主人公の延長線上にある無意識的な存在として描かれている。そういった存在であるからこそ、気味が悪いほど主人公の考えがわかるのだ。
また、「広場の肉」は悪意で人を傷つけることの悦びの象徴のように思える。
無垢さの残る主人公は肉を臭くてたまらないものだと忌避しているが、主人公の無意識的な存在の犬は、薄暗い悦びに触れることで恍惚の表情を浮かべている。
悪意が最大限に発揮されるのが、父親から金を騙し取った後、家に帰って母親と話すシーンだ。
主人公は明確な悪意を持って、父親が新しい恋人と暮らしているという嘘や、悪口を言い続ける。
少年の無垢さは既に失われてしまったのだ。
だからこそ、この後はわき目も振らず、一直線に肉の広場を目指すのである。
さらに、最終場面で主人公がサダの頬のキズに興奮して手を伸ばすことはまさしく、主人公が悪意と人を傷つける悦びを実感していることを表している。
主人公は犬を通して「肉」を求めることをやめて、自己の意思として忌避することなく薄暗い欲望に触れようとしているからだ。
主人公は〝信じられないくらい意地悪な人間〟になってしまったともいえる。
しかし、それはある種の防衛手段でもある。鬱陶しい友人や、自分をいつか「なし」にするかもしれない親。
それらに対して、無垢な少年のまま立ち向かうことは難しい。悪意をもって人を傷つける悦びを自覚し、それを受け入れることは必要な成長であったのだ。
また、悦びを感じるかは別として、悪意を自覚しコントロールする術を身につけることは、誰しもが逃れることはできない青年期の課題のようなものである。
無垢なまま人を傷つけることも、悪意を爆発させることも許されない。
決して他人事ではないのだ。
犬はいつも足元にいるのである。