加賀野井秀一のレビュー一覧
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本屋さんで見かけてなんとなく表紙買い。
たくさんのテーマが短い章に分けられてつづられているので、どこからでも読み始められて、また、読みやすい。できれば写真はカラーか、さもなくば口絵が欲しいところだったけれど……。
この手の「博物誌」は、澁澤龍彦の随筆や、荒俣宏氏の著作でわりとなじんでいるつもりだったのだけど、本業フランス哲学の筆者の視点から見た「博物誌」は、やはり一味違った面白さがあった。
面白いんだけど、生真面目な文体で、淡々とつづられているだけの文章なのに、途中何度か吐き気を催してページを閉じてしまったのはなぜだorz もっとグロテスクな写真集(カラー)や、画集を見ながらでも -
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猟奇的という文脈のもとに、古今東西の異貌のオブジェを博物館さながらに紹介している一冊。キュレーションのお手本のような構成だ。
本書には解剖学ヴィーナス、デカルトの頭蓋骨、腐敗屍体像にカタコンベ、奇形標本などのグロテスクな写真がふんだんに登場する。それでいて上品さが損なわれていないのは、対象人物や、その思想へのリスペクトを欠いていない著者の語り口によるものであろう。
例えば哲学者デカルトは、紆余曲折を経て頭蓋骨と身体が別々の場所に葬られている。この事実を紹介した後の、著者のコメントが憎い。
それにしても、心身二元論の標榜者にふさわしく、デカルトは今日もなお、形而上的な頭蓋と形而下的な四肢の -
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日本語は確かに感情的な表現力が豊かな言語であり、文末まで結論が明らかにならない特徴がある。また、多くの和製英語やオノマトペを含む表現力の高い言語でもある、と認識している。将来的には、主語が省略された文章が増え、結論を先に述べる言い方に変化していく可能性がある。
しかし、日本語の中には英語圏で理解されにくいカタカナ英語の使用もある。例えば「シミュレーション」を「シュミレーション」と誤って使ったり、「マニフェスト」を「マニュフェスト」と表記するなど、英語の発音や意味と異なる使い方がされている。また、「ナイター」は「ナイト・ゲーム」、「サラリーマン」は「オフィス・ワーカー」、「ガソリン・スタンド」は -
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ネタバレタイトルの「猟奇博物館」は、この名前の通りの博物館が世界のどこかにあるというわけではない。世界各地に点在する、「猟奇的なモノ」を展示する博物館や教会、史跡などを、著者が自分の足で訪れ、その内情を細やかに記したうえ、その展示物にまつわる蘊蓄まで述べていて、この本自体が「猟奇博物館」になっている。自宅の椅子に座りながらにして、世界各地の「猟奇的なモノ」を見聞できるという、なかなか贅沢な読書体験ができる。
1トピックあたり10ページ弱と短いので、目次を見て面白そうなものだけ拾って読むのも良いかと思うが、オススメは頭から通して読むこと。なぜかというと、大まかではあるが歴史的な時間の流れをふまえて「陳 -
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文体が少し翻訳調で、カタカナ語を多用しており、独善的な部分もあったため、少し読みにくかったのは否めないが、興味深い内容と構成は面白かった。
きちんと理解するためには、美術とヨーロッパ言語(特にフランス語とイタリア語)の基礎知識は必要。(筆者は一体どういう人々を読者層として考えていたのだろう?)
猟奇への興味は、窃視趣味とつながっている。
そして、人間とはこんなにもおぞましい存在なのだよね、ということについて共感したい、という思いも私にはある。実際には共感してくれる人はなかなかいないのだけれど、美女も一皮むけばゾンビ、のくだりで、日常生活では見えてこない内臓を露出させれば、にわかに共感する人も出 -
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[ 内容 ]
日本語は曖昧な言語であり、情意表現に適していると言われることが多い。
けれども「テニヲハ」や、後置詞「によって」や「において」などを駆使しながら、明晰な意味を表現できるようになった。
ところが、近年の「カタカナ言葉」や、「一語文」「タメ口」に代表される若者言葉、それに携帯電話やメールなど情報環境が激変したことによって大きな混乱が生まれている。
「甘やかされた日本語」の現状を丁寧に分析し、「雑種言語」としての日本語の歴史を再検討しながら、新たな可能性を探る。
[ 目次 ]
第1章 甘やかされた日本語を叱る―もう以心伝心にはたよれない
第2章 カタカナ語の濫用を叱る
第3章 漢語の -
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「孤立語」ー中国語「屈折語」ー英語、ドイツ語等「膠着語」ー日本語
和をもって尊しとなすという日本的美徳をもそろそろ返上すべき時期にさしかかってきているかもしれません。この美徳があるために、我が国ではしばしば論理を通すことが困難になるからです。議論を交わし、論理的に話し合おうとすれば、時に感情的な軋轢が生じるのは当たり前。そうした不和を恐れていては、お互い不平ををかこちながら遠慮するばかりで、もう一段上の和は望めません。議論を交わすにあたり、私谷地には勝ち負けへのこだわりをきれいさっぱり捨て去る努力も必要になるでしょう。
以心伝心にのっかって「かなり」「結構」「案外」といった主観的ないいま