佐伯胖のレビュー一覧
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学ぶについてのスペシャリストたちが、学ぶについてどう捉えているのか気になり読みました。
私の学ぶの定義は、「資格、試験の為に勉強をする。」でした。
しかし、この本を読んで勉強と学ぶの違いを理解する必要があると思いました。
「勉強」では、テスト範囲は決められたものを何度も解き直すことで合格することができます。
こらは、本人以外の人の評価を目的としています。
「学ぶ」は、歳を重ねてから楽器を演奏をしてみたり、遊び心(心の余裕)があり、また他人の評価を目的としません。
仕事をする際は、勉強の色が強く心の余裕がなくなってしまう。仕事、プライベートの中に「学ぶ」を入れることで考えの幅が広がり人生を楽しむことができる。
これが、生涯学習の真髄なのだと思いました。
キーワード
できる→わかる→学ぶ
遊び心
ムリとムダとムラを生かす
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「わかり方」という言葉自体も新鮮な感覚だったのだろうと読後に感じます。とてもよかったです。よかったけれど、それを頭の中で、さてどういうことかと整理しようとしてもうまくいかないのです。具体的な子どもを前にしたイメージをしてみると、なかなか思った通りにもいかないなと。
そういう思考自体が楽しいので、とても、よかったと言えます。
教師として、「わからせ方」を研究してきたのだなと気付かされます。子どものわかり方について考え、子どもはどうわかるかということについて研究をしてきていたら、子ども観も指導観も変わっていただろうと思います。
一番は、「学校が学びと遊びを分けてしまった」というところです。遊んでいたら副作用のように知識や技能が高まっていたということを学びと捉えているのがいいですね。先に読んだ『冒険の書』からの流れで本当に理解が深まります。
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Posted by ブクログ
学校教育向けに書かれた本だが、企業の社員教育にあてはめても、うなずける内容が多かった。特に、1章は、OJT を実施していく上での学習者の現状を理解、指導していく上での指針になりそう。後半に読み進むにつれてエッセイ色が濃くなるが、それはそれで面白く読めた。
学術的な話題も散りばめられてはいるが、読みやすい文章で書かれており、各トピックも適度な長さなので、一気に読めた。ただし、先に著者の主張とは異なる意見(従来意見)を紹介しておいて、後からそれを否定する、という形で書かかれている部分いくつかあるので、安易に拾い読みすると(従来意見だけを読んで)誤解するかもしれない。 -
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ネタバレNSGA-Ⅱを使った多目的最適化をやっていて、かつ最近ではDeepLearningにもかぶれているという事もあり、非常に楽しく読めました♪
前半部分については、目的関数が複数ある命題に対してどうやってただ一つの最適解を定義するかについて記述されており、最適化に関するテクニックではない歴史的な流れを学ぶ事が出来、大満足!後半は後半で、日常生活に落とし込んでの示唆に富んだ楽しい本でした♪
以下、380ページ目にあった、僕が一番心に残った箇所を抜粋して紹介します☆
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人間を狼だと仮定して考案される仕組みは、どんなに立派に見え、頑強に見えるオリを作ったとしても、どこかに穴があり、別の狼の侵入を防ぎえない。<途中略>人々の倫理性を呼び覚まし、倫理性に訴えて、また、人々の本来の倫理性から来る訴えに耳を傾けて、倫理的社会を構築するための研究をしなければならないのである。 -
Posted by ブクログ
何度も読み返したい一冊。
そして、たとえば、
●できるとは・・・
●信じるとは・・・
●わからないということの意味
●見えるとは・・・
●遊ぶということの意味
●話すとは・・・
●笑うとは・・・
●泣くとは・・・
などなど、
大切な人の言葉をじっくり聴きたい。
あなたを知りたい。
そして、
自分を知りたいと思うのです。
あとがきにある
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物事がわかるには、どうやらひとにはそれぞれのわかり方なるものがあるらしいこと、そのわかり方がずれていると、ある人には実によくわかる話が、別の人にはぜんぜんわからないことが起こるらしい。。。
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まったくもってごもっともで、
だれもがうなづくことではないだろうか?
そこに何があるのか?
人がそれぞれ違うこと、
その真実と、
だからこそ、
あなたといたいと思うあなたと違う自分がいることに気づくのではないかと思うのです。
私は「真剣に遊ぶ」という体験をとても大切だと思っています。
胸を張って「遊んだ!」と言い切れる時間を過ごしたか?!
私は、子どものころの遊ぶとは若干の違いをもってこの「真剣に遊ぶ」という言葉を使っています。
つまり、限りなく子どものころの遊ぶ大人であることです。
この思いを力強くサポートしてくれた言葉で、
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学ぶことと遊ぶことは、本当は渾然一体となったもの・・・・
両者を分けてしまうのは間違い・・・
私たちが学校という奇妙なところを作って、そこ(学校)では、学ぶ(勉強する)ことを主たる目的とし、そればかりだと疲れてしまうので、休み時間というものを合間に入れて、その休み時間には遊んでよいという決まりを作ってしまったことに短を発している・・・
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というのがあります。
遊びの中で、物事の面白さや、不思議さ、大切さというその本物に気づき、
そして大人であるから、そのありがたさをじっくりと味わうことが出来ると思うのです。
それが真剣な遊びだと思うのです。
まだまだ、あります・・・・
そのひとつは、泣くとは理解の営みだということ。
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本当に心から泣くということができるためには、精神的エネルギーを貯めこむことが必要である。善意の緊張感を静かに深く抱き続けることである。
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という。
泣くべきことを泣くことができるところに、清々しい深い信頼感が有るように思うのです。
同じことのない人同士がつながるというカタチの1つのように思います。
泣くことがかっこ悪く、弱いもののように思ってしまう自分の中の部分から開放され、泣くことが出来る自分を誇りたいと思うのです。
まだまだ・・・一緒に交わしたくなる言葉があります。
自分の本質に気づくことをくれる一冊です。 -
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どこで紹介されていたのか忘れてしまいましたが、2023年2月7日に登録した本です。
タイトルを見て、論理だけで「決め方」を説明する本かと思ったのですが、数学を用いた説明もいろいろと出てきたので、若干戸惑いながら読み進めました。
「最大多数の最大幸福」や「功利主義」や「効用の最大化」といった考えと親和性のある本です。
普段から、「部分の集合は全体ではない」ことを忘れないように心掛けているのですが、「決め方」についても、まさにそうで、部分ごとに適切だと思う「決め方」をしても、それらを単純に集めて全体の「決め方」にしてしまうと不都合が生じることがある、という話が何回も出てきます。
最も知られていると思われる「決め方」である多数決ですら、個々の選好の集まりが、必ずしも全体の選好として適切とは限らないわけで、我々はもっと「決め方」について科学的に考えるべきであることを突き付けられる本だと思います。
個人的には、ゲーム理論の話が最も参考になりました。
「囚人のジレンマ」や「パレート最適」などが、自分にとってちょうどよいでレベルで説明されていました。
結論としては、万能な「決め方」はない(少なくとも、現時点では見つかっていない)のですが、「それでも決めていかなくてはならないのが人生である」ことに生きることの妙味を感じるのは、きっと自分だけではないですよね。 -
Posted by ブクログ
以前紹介した『学びを問いつづけて』の著者です。金大附属の発表会のときの講師として招待している(この方の理論を元に研究している)ということを中前さんから聞いたので,オジャマする前に読んでおかなければと思って手に入れて読んでなかったやつです。
本書の発行は2004年となっていますが,収録されている文章は,1984年~2004年に執筆したもので,著者の考え方が手に取るように分かる気がします。
具体例を挙げてみます。
日本人の「話し方」に存在する気くばりの大部分は,第三人称への気くばりである。「みんな」,「よその人」,「見知らぬ人」,「お客さん」,「聴衆」などへの気くばりである。必然的に,「トラブル最小の法則」が優先する。…中略…「○○さんに質問だけど…だと思います。どうですかァと」発言し,「そうでーす」と一斉に答える。きちんと手をあげ,起立して椅子を机の下に押し入れて,「いいですかァ」といい,おもむろに,「意見なのですがァ…」という。
実に明瞭である。誤解の入るスキもない。しかし,「話し」口調ではなく,「きまり文句」を「読みあげ」ているような(しかも棒読みで),へんなイントネーションで叫んでいるのが,「話し方の指導」のゆきとどいたクラスである。
要するに,「次の三つのボタンのうちどれか一つを押しなさい」というメッセージと,ボタン押しが「会話」なのである。(232p)
昨日,進学先の中学の体験入学があった。そこでは,管理が行き届いた子どもたちの姿をみることができた。号令で動くことが悪いとは思わない。が,この気持ち悪さは何だろう。ある生徒たちが少し騒いでいたのがせめてものすくい。たぶん,この子たちは,自分を出している。誘導された担任たちが体育館に入っていくと,小さく手を振ってくれる生徒もいる。わたしも小さく手を振ってあげた。ほっとする姿。
そして模擬授業。英語だったが,この授業をする目的は,規律を教えることではないか,と思えた。中学校での授業の始め方(あいさつや号令,椅子の扱い方)をしっかりとやらせていた。私の授業とは大きくちがう。これも,別にやりたければやればいいと思うのだが,心配なこともある。それは,こういう型にはまったやり方をやっているうちに,授業そのものが死んでこないか,受け身になってこないか…ということである。「凡事徹底」もいいが,その結果として,子どもたちが自由に発想したり,話し合ったりすることがやりにくくなるようでは,まさに,「学びからの逃走」が起きるだけのような気がする。これがわたしの取り越し苦労に終わることを祈るだけだ。
本書には「勉強=学び-遊び」という式も出ていた。私たちが目指すのは「勉強」ではなく「学び」なのだろうな。