1950年代後半を中心に、上級の学校へ進学できなかった「勤労青年」たちの「教養」への渇望の実相と、何が彼らを必ずしも「実利」と結びつかない「教養」へと向かわせたか、農村では青年団・青年学級、都市では定時制高校や企業の養成所、さらにそれらからはじかれた若者たちの学習欲求の受け皿として機能した「人生雑
...続きを読む誌」の盛衰を通して明らかにしている。50~60年代は中学校において「進学組」と「就職組」のコース別学級編成が進行した時期であり、家計の貧困や家父長制の圧迫故に進学できず、差別的待遇を受けることへの不条理に対する後者の鬱屈を重視している。当時の若者の「生の声」を通して見える当時の日本社会の矛盾は、ある意味今日の新自由主義社会における貧困・格差を考える上で依然として参照軸となりうる。
結局、高度成長の開始による所得格差の縮小(高校進学率の急上昇や労働環境の改善)と小市民的な消費文化の隆盛によって、大衆教養主義の支持基盤は(高学歴層における教養主義と同様に)衰退するが、本書では50年代に「教養」の洗礼を受けた世代が、80年代以降の「大衆歴史ブーム」(歴史小説や通俗的な歴史読み物)の担い手となることにその「残滓」を認めている。この点はブームの担い手の階層や世代についての実証を欠いており、そのままでは認めがたい。あとがきでさらりとしか触れられていないが、ある地方の『人生手帖』サークルが同誌の廃刊後『PHP』の読書会に衣替えしたというような事例にこそ、大衆教養主義の変貌を読み解くヒントが隠されていると思われ、より精緻な分析を望みたい。