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レンブラントやゴッホと並び、いまやオランダを代表する画家になったフェルメール。彼には“静謐(せいひつ)の画家”という異名が冠せられている。しかし、「なぜフェルメールの絵が静かなのか」という問題が真正面から語られたことはなく、専門書にもその理由は記されていない。本書は、フェルメールの絵における色彩や構図、モチーフ、光などへの考察をはじめ、17世紀オランダの時代背景や精神文化に至るまでを分析し、フェルメールの静けさの謎に迫る。【目次】はじめに/第一章 フェルメールブルー/第二章 構図と素材の秘密/第三章 女たちの姿態/第四章 剥奪される意味/第五章 穏やかな光、霞む空気/第六章 静けさを描くことの理由/第七章 静かでないフェルメール/あとがき
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Posted by ブクログ
770円
フェルメール10人子供いたの草。そりゃ絵なんて描く暇無く寡作だわ。
ルーヴル美術館の北ヨーロッパエリアのオランダ黄金期の絵画が難しいからそれ関係の本読みたい。小林頼子さんの本が良さそう。
世界一の入館者数を誇るルーヴル美術館の3大作品中2つは彫刻なのに、日本の美術ファンに彫刻より絵画派が多いのが解せない。
藤田令伊
アートライター、大正大学非常勤講師。単に知識としての「美術」にとどまらず、見る体験としての「美術鑑賞」が鑑賞者をどう育てるかに注目し、楽しみながら人としても成長できる鑑賞のあり方を探っている。主な著書に『アート鑑賞、超入門!』『現代アート、超入門!』(ともに集英社新書)、『企画展がなくても楽しめるすごい美術館』(ベストセラーズ)などがある。
「義母のマーリア・ティンスはデルフトの上位五パーセントに入るほどのお金持ちだったことがわかっており、裕福な義母からの援助があったという観点に立つと三つの謎すべてにうまく説明がつく。 まず、少なくとも一六五七年の年末近くまでは借金をしなければならないほど貧乏だったのに、五八 ~五九年ごろから突然ウルトラマリンブルーをふんだんに使って絵を描けるようになったのは、その時期に引っ越しが行われて義母から援助を受けられるようになったからだとすれば一挙に謎が解決してしまう。また、ファン・ライフェンからの借金二〇〇ギルダーを一年限りとすることができたのも理解できる(義母からの借金三〇〇ギルダーは棒引きしてもらっている)。第二の謎のタイムラグも、義母による援助を受けるまでは独力ではウルトラマリンブルー購入がままならなかったからだとしたら、タイミング的なことも含めて非常に納得がゆく。さらに、不自然な引っ越しという第三の謎も、借金をしなければならないほど家計が窮した末、経済援助を受けることを含めての同居ということであれば十分あり得る話に思われる。もしかしたら、マーリア・ティンスのほうから「そんな暮らしぶりをしているんだったら、もううちへ来なさい!」と焚きつけられたのかもしれない。加えて、注文主のいない売れるか売れないかわからない絵であっても、何の心配もなく超高価な顔料を思う存分使い得たのにも説明がついてしまう。ということで、フェルメールの画業の陰にはお金持ちの義母の存在が何らかの意味を持っていたのではないかと筆者は睨んでいる。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「 それを探るために、もしフェルメールが当初の構想通りに本作を完成させていたら、いったい、どんな絵になっていたかをちょっと想像してみたい。女性のうしろにはキューピッドの絵が掛かっていて、画面右下最前景には大きなガラス器が置かれている。イメージしてみると、この絵はけっこう〝賑やか〟だったように思われる。前景には果物がはみ出した果物皿やガラス器が載っていて複雑な模様のタペストリーが掛けられているテーブルがあり、中景には主人公の女性が手紙を読んでいる姿のほか、開けられたガラス窓があって、ガラス窓には格子状の桟が何本も走っている。そして後景の壁にも絵が掛かっている――となると、素材が多く、実作よりかなり雑然とした印象をもたらすような気がする。せっかく女性が寡黙に手紙を読んでいるシーンだというのに、モノが多くて静かになりきれなかったのではないだろうか。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「 このようにフェルメールは、先輩画家たちからアイデアを借用し、リミックスして作品を練り上げていったのであり、自らの創意のみによって描いたわけではない。いってみれば〝二番煎じ〟の画家なのである(ただし、念のために付け加えておくと、人の絵を真似した画家はフェルメールに限らない。この時代、画家たちが互いの絵の特徴を自作にとり入れあうのはごくふつうのことで、いまのように盗作とか著作権侵害というふうには見なされなかった)。 ところが、それにもかかわらず、今日に伝わる声望は圧倒的にフェルメールに軍配が上がる。もしかしたら、フェルメールが好きな人でもテル・ボルフやデ・ホーホは知らないという人が少なくないかもしれない。オリジナル商品よりもコピー商品のほうがベストセラーになったみたいなもので、もしテル・ボルフやデ・ホーホが草葉の陰から今日のありさまを見ていたら「それはないだろう」とボヤくかもしれないのである。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「 テル・ボルフやデ・ホーホには、主題は別として描き方においては、できるだけ現実を忠実に再現描写しようとする意図が見受けられる。テル・ボルフ作品のタペストリーの房やデ・ホーホ作品の窓や柵の桟などを見ると、細部まできっちりと描かれており、現実をできるだけありのままにキャンバスに(テル・ボルフの《手紙を書く婦人》の支持体は板だが)写し取ろうとしていることがわかる。これはヤン・ファン・アイク(* 2)以来のネーデルラント絵画の伝統に沿うもので、絵画という芸術の主流の志向である。これに対してフェルメールは、その伝統をないがしろにはしないまでも、まったくその枠に収まっているつもりもないらしい。現実そのものを高い技術で描き写すことより、もっと別の何かを表現しようとしているように思える。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「先ほど、フェルメールは〝二番煎じ〟の画家だといったが、ただ単に先輩画家たちのエピゴーネン(亜流)だったわけではないのである。そこには先輩たちを超える、あるいは、先輩たちにはない思想が込められていたというべきだろう。それが、テル・ボルフやデ・ホーホとフェルメールを分かつ決定的かつ本質的な違いであるように筆者には思われる。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「もっとも静けさが感じられ〝静謐の画家〟を象徴する図柄として、女性が一人で何かをしているところを描いた作品を題材にしてフェルメールの変化を追ってみたい。ということで、ここでは《窓辺で手紙を読む女》《牛乳を注ぐ女》《窓辺で水差しを持つ女》、そして《青衣の女》の四作品をピックアップしよう。 このなかでもっとも早い時期に描かれた《窓辺で手紙を読む女》から、もっともあとに描かれたと目される《青衣の女》まで、基本的な構図は同じである。いずれも、どこかの部屋のなかで女性が画面のほぼ真ん中に位置して何かの作業をしている。部屋の左側には窓があり、そこから光が射し込んでいる(《青衣の女》では窓は描かれていないが、光は入ってきており、窓の存在が類推される)。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「《窓辺で手紙を読む女》から《青衣の女》へのプロセスをこうやって見直すと、少しずつフェルメールの描き方が独特で大胆なものへと変化していっている様子がうかがわれる。それを端的にいえば、「現実からの乖離を恐れなくなった」ということではないかと筆者は考えている。 色についても同じだが、《窓辺で手紙を読む女》では多かった素材が《青衣の女》になると極端なほどに少なくなり、加えて思い切って空間をトリミングして望遠レンズのような視覚にフェルメールはしている。それはなぜかと考えると、単純な答えになるが、「それでも大丈夫だ」とフェルメールが自信を持てるようになったからではないかと筆者は思う。フェルメールは《窓辺で手紙を読む女》を描いていたころは、まだまだ〝現実の呪縛〟にとらわれていたふしがある。絵画とはできるだけ現実をきっちりと再現描写するものだという伝統が彼をまだ強く支配していたため、細部にいたるまで現実を揺るがせにすることなく描こうとしていた様子が、この絵からは感じられる。また、それゆえに画面を修整するとしても、せいぜい素材を削除する程度しかできなかったものと思われる。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「見てきたようにフェルメールの絵の静けさは、青という色や使われている色の数、構図、素材などによって、決してわざとらしくない範囲で、しかし、きわめて巧妙に演出されている。本章では、こんどは女性の描かれ方に着目していきたいと思う。 もっとも静けさを感じさせるフェルメールの絵は、一人の女性が描かれているのが常である。単身の女性像だが、主人公の女性は何をしているかというと、手紙を読んだり、牛乳を器に注いでいたり、何かを静かに持っていたりなどだ。 一七世紀オランダの風俗画では、フェルメールに限らず、一人の女性が何かをしている場面の絵はごくポピュラーなものだった。掃除をしているところや縫い物をしているところなどがよく描かれているが、それらはただ単に女性の生活風景を描いているのではなく、ある目的を持って描かれている。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「たとえば、お父さんとお母さん、男の子と女の子の四人連れがお日様の下で集っているところが描いてある絵があるとしよう。これを見た者は「家族連れが天気のいい日にお出かけしているところ」というような意味を汲み取ることだろう。ところが、もし、四人の人物を消してしまえばどうなるか。絵にはただ太陽が描かれているだけとなり、家族の和やかな雰囲気もほのぼのとした物語もそれだけでは想像できなくなってしまう。絵は、そこに盛り込まれたコンテンツが少なくなることによって無言化してしまう。このように、モチーフの削除という修整は、単にビジュアル面で絵がすっきりするというだけでなく、意味内容的な面でも静化をもたらす。 実際にフェルメール作品で考えてみよう。すでに見てきた通り、《窓辺で手紙を読む女》では当初は背景の壁にキューピッドの画中画が描かれていたが、フェルメールは制作途中でこれを塗りつぶし、最終的には背景の壁をただの白壁にしてしまった。これがもし、途中で塗りつぶさずにキューピッドの画中画を残したまま完成させていたら、絵はどんな意味合いになっていただろうか。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「こうしたフェルメールの描き方は、現在の視点から考えると別の意味合いも見えてくる。現代アートの一つにミニマルアート(* 2)というものがある。これは、ミニマルという語のせいか、ときどき「可能な限り装飾性を削ぎ落としたアート」というふうに説明されるが、ミニマルアートの本質は装飾性の多寡にあるのではない。ミニマルアートの本来の意義は、どこまで意味性を削ぎ落としてアートとして成立可能かを極限まで追究する点にある。それは、何らかの物語性によってとか、現実の力を借用するとかしなければ成り立たなかったコンベンショナルなアートに対して、他の何ものにも頼らずアートそれ自体で成り立つ純粋なアートへの求道である(ミニマルアートの作品に「無題」とか「 No. 1」とかいった意味という面では無意味なタイトルが多いのは、作品が不必要な意味性を帯びないためである)。装飾性が少ないのは結果であって目的ではない。作品のビジュアル面のみならず意味的内容的な面でも限りなく白紙に近づけ、それでもアート足りえるギリギリの線を探っているのだ。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「寡作であったフェルメールは、一作入魂の集中で一つずつの絵を時間をかけて仕上げていったことだろう。一度描いた素材を削除したり、微妙に位置や大きさを変え、形態を変えたりしながら、自分が納得できるまで試行錯誤を繰り返している。一点一点にそんなに時間と手間をかけているようでは、おそらく〝もと〟は取れなかったに違いない。金儲けのためであれば、もっと量産する必要があり、より儲けの効率を高めるにはレンブラントのように分業体制すら整えなければならなかったかもしれない。しかし、フェルメールの描き方はそのようなところからははるかに隔たっている。コツコツと寡作であっても納得のゆく絵を描こうとしていたスタンスである。それからすると、フェルメールがただ金儲けのためだけに描いていたとは考えにくい。といって、聖ルカ組合に加入していたぐらいだから単なる趣味で描いていたというわけでもない。フェルメールは、もし「絵画道」というようなものがあるとすれば、その道を自分なりにきわめようとしていたのではなかったろうか。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「ヴェーテリング氏が「漂う光」と表現したフェルメールの光。それは、淡くてぼんやりとした光である。映画『オランダの光』で探究され、フロマンタンが叙述した「オランダの光」も同様の特徴があるように思われる。また、フェルメールが描いた光は北向きの部屋に満ちた間接光であった。ヨーゼフ・ボイスはアイセル湖からの反射光が「オランダの光」だと考えた。と諸々の要素を整理していくと、ちょっと話ができすぎのような気さえしてくるが、フェルメールの光とはまさしく「オランダの光」のように思われてくる。フェルメールの光は「オランダの光」そのものを体現したものかもしれないのである。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「両者の差異は同じコンテンツを見比べたときに際立つ。一九六九年から四〇年以上にわたって放送され、ついに終了することになった国民的番組の『水戸黄門』は、ある時期まではフィルムで撮影されていたが、それからあとはビデオで撮影されるようになった。その結果、見たときの印象に大きな違いが生じている。リアルすぎるビデオでは日常感が強すぎ、フィルムのような創造の世界に浸りきれない。『水戸黄門』の場合、コンテンツはまったく同じだから、差異の原因はフィルムとビデオの違いしかない。『水戸黄門』がフィルム撮影からビデオ撮影に変わったことに対して、「違和感がある」とか「フィルムに戻してほしい」という声はずっと続いた。これほど映像技術が進歩しても映画フィルムがなくならないのは理由のないことではないのである。最近では、ビデオでも映画フィルムの表現に近づける映像処理技術も開発されている。二〇一〇年の NHK大河ドラマ『龍馬伝』ではシネライクガンマというその種の映像処理技術が施され、保守的な NHKにしてはチャレンジングな試みとして概ね評判がよかったようだ。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「フェルメールが生きたデルフトは、共和国の連邦議会があったハーグのすぐ近くで、共和国の政治の中枢を間近にした街だった。フェルメールはデルフトの聖ルカ組合の理事を二度にわたって務めており、デルフトのちょっとした名士だったと思われる。また、一六六一年四月一一日には親族の土地の遺贈を妻カタリーナが受けるにあたりフェルメールが「最高顧問ヨーハン・デ・ウィットの手の中で忠誠の誓いを立てた」という記録が残っている。ヨーハン・デ・ウィットとは紛れもなく当時の共和国の実質的な指導者その人のことである。フェルメールがデ・ウィットと直接会うような立場にあったという事実は、フェルメールがそれなりの社会的地位にあったことを物語っている。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「 オランダの人々が絵に欲したのは、やはり自分たちにとって好ましいものだった。現実が戦争に明け暮れる日々なればこそ、せめて絵のなかでは平穏が保たれてほしいと人々は願ったという説がある。フェルメールの絵も戦争ばかりの現実を前にして、戦争のない平和な暮らしを求めた一面があったのかもしれない。彼にとって絵を描くということは、安寧な日々の到来を希求する祈りの行為でもあったのだろうか。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「フェルメールはわずかな例外を除けば「内」しか描いていない画家である。その姿勢は徹底しているといっても過言ではないほどで、窓から「外」が見えるということもない。そういう目で見直すと、「内」へのフェルメールの志向は極端なくらいである。この事実はフェルメールの何かを物語っているのだろうか。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「「内」なる世界を描いたフェルメールの絵は、ショーペンハウアーの芸術論によっても説明できる。すでに見てきたように、フェルメールの描いたものは現実そのものではない。フェルメールが現実そのものを忠実に描いた絵はほとんど、いや、まったくないのではないか。一見、間違いなく写実の絵と見える《デルフト眺望》や《小路》(一六五八 ~五九年、図 21)でさえ、現実をそのまま写し描いたものではないことが知られている(この二枚の都市風景画は、一六五四年一〇月に発生したデルフトの火薬庫大爆発事故から立ち直った故郷に寄せたフェルメールのオマージュだという説がある)。どれほど写実的に見えても、実際には相当に創造的な内容が描かれているのが常である。現実はアレンジされ、非現実感をまぶされ、独自の「絵画世界」へと昇華されている。これはまさに、フェルメールはフェルメールにとってのイデアの世界を描いたということではないか。「見たもの」を描いたのではなく「見たいもの」を描いたといういい方をしてもよい。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「よく知られているように、フェルメールと妻カタリーナのあいだには多くの子どもが生まれている。資料によってその人数が異なっていてよくわからないところもあるのだが、フェルメールには一四人の子どもがいたといわれている。名前がわかる一〇人を列挙すると、マーリア、エリザベート、コルネリア、アレイディス、ベアトリクス、ヨハネス、ヘールトライト、フランシスクス、カタリーナ、イグナティウスである。子どものうち四人は乳幼児のあいだに死亡し、あとは育ったらしい。フェルメールとカタリーナの結婚生活は二三年だったから、二年に一人以上のペースで子どもをつくっている計算になり、カタリーナはしょっちゅう妊娠していたことになる。 一〇人もの子どもがいる家庭とは、いったいどのようなものだろうか。筆者の親戚に三人の子どもがいる家庭があるが、三人でも騒がしさたるや相当なものである。兄弟で遊んでいたかと思うと喧嘩を始めたり、追いかけっこをしたり、大声を出したり、家のなかが落ち着く暇がない。わずか三人でもそんななのに、一〇人とかになったら、いったいどうなるのだろうと、フェルメール家の子どもについて考えるとき、いつも想像してしまう。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「このあとフェルメールは《天文学者》(一六六八年、図 26)、《地理学者》(一六六九年、図 27)と、それまで描いたことのない男性一人を主人公にした絵を描き、さらに晩年へと進んでいく。静謐感はますます薄れていく。《恋文》(一六六九 ~七一年、図 28)でもやはり登場人物の仕草は饒舌で、加えて画中の素材の描き方が粗っぽい。前景のカーテンも床のタイルもほとんど適当に描いているだけのように見える。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「「静けさ」という切り口で徹底的にフェルメールの絵を研究してみたら――との思いから書き始めた本書。正直なところを漏らすと、当初はその狭い切り口からどこまで話を掘り下げることができるか不安な気持ちもないではなかった。が、実際に作業を始めてみると思いのほか材料を掘り起こすことができたように思う。ていねいにフェルメールの絵を見直し、じっくりと考えていくと、これまで気がつかなかったことが見えてきた思いがする。何ごともやってみるものである。 従来、フェルメールの静けさに言及した情報自体は数多くあったが、そのほとんどはエッセイ的に静けさの印象や感想を述べたものだった。もちろん、それもいい。すぐれた印象や感想は詩的であり、それらに触れることで、フェルメールの宇宙により浸ることができるからだ。だが、フェルメールの静けさを実証的に解明したものは寡聞にして知らなかったため、どこか物足りない思いも拭えなかった。それだけに、筆者なりにではあるが、修辞的な文言を叙述するだけではなく、できるだけ合理的な分析と考察に基づいてフェルメールの静けさの謎に迫ろうとしたのは決して意味のないことではなかったのではないかと考える。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
「日本におけるフェルメールを取り巻く状況は、この一〇年ほどで大きく様変わりした。かつては「好きな画家は誰?」と聞かれて「フェルメール」と答えても知らない人のほうが多かったのに、いまではレンブラントやゴッホを凌いでオランダを代表する画家になった感さえある。かつてとは比べものにならないくらい多くの人がフェルメールを語り、作品に近しくなった。そうしたなかにあって、本書が何がしかの新たな一石を投じることができれば、書き手としてはそれだけでも本望というものである。」
—『フェルメール 静けさの謎を解く (集英社新書)』藤田令伊著
Posted by ブクログ
今や日本人のとっても好きな画家のトップクラスに入るフェルメール作品について、「静かさ」という切り口で問いかけていく、中々に面白い企画である。
使用された素材(アズライトよりも鮮やかなラピスラズリ(ウルトラマリンブルー)、構図、削除・抑制のよる描き方、光そのものの捉え方、その光が当時のオランダ特有といえるような光であるなどなど非常に興味深い。
それにしても筆者は勿論調べているのであろうが、フェルメール作品の静謐さのピークというのを『青衣の女』と捉えているように思える。
フェルメール作品を全て見たことはないが、成程その静謐さが凋落していく作品にあって、フェルメールの置かれた環境や体調など大いに影響があるに違いないものと納得してしまう。
そういうことならば、画家という者は常に描いていないといけないということを、いや画家に限らず芸術に関わる者は、そのものに対して真摯に向き合わなければならないということを想像させられる。
この著書でフェルメール作品自身が、まるで一つのあるべき芸術へと昇華されるに至る、静謐な光明を辿っているみたいであり、それは儚く脆いものであること、しかしその先にある現代作品の革新的で普遍的な表現であることを思わせられる。
Posted by ブクログ
先日、フェルメール・センター銀座の「フェルメール光の王国展」に行き、「真珠の首飾りの少女」しか知らなかった私ですが、すっかりフェルメールの絵に魅せられてしまいました。
もっとフェルメールについて知りたいと思い、手にした本。
『フェルメールの静けさの謎を解く』
彼には”静謐の画家”という異名が冠せられていますが、「なぜフェルメールの絵が静かなのか」という問題に真正面から語られた本は今までなかったそうです。本書はいろいろな切り口から、そこを紐解いていきます。
筆者は「フェルメール美術館」というウェブサイトを運営している藤田令伊氏です。
・フェルメールブルー
当時、身近な自然に存在しない青は高い精神性を表すものとされ、「神々の色」「天空の色」「無限の色」として特別視されていた。
新技術により、希少な鉱物、アズライトやラピスラズリから青の顔料が実現されることとなるが、特にラピスラズリを用いたものはウルトラマリンブルーと呼ばれ、マカライトなどを用いたものの100倍の値段がつき、金とほぼ同等の贅沢な素材であった。
それゆえ、ウルトラマリンブルーはもっぱら聖母マリアにしか使われなかったが、フェルメールはウルトラマリンブルーに異常なまでの執着を持ち、「青衣の女」などの普通の人の服はおろか、椅子などのモノにまで用いていた。
青という色は今でこそ、色彩心理学においては「平静」「永遠」「孤独」「郷愁」といった概念に関連深く「静けさ」そのものであるが、フェルメールは後年の研究を知っていたわけではなく、経験的直感で青の性質を理解していたと考えられる。
しかし、なぜフェルメールはこのような超貴重な材料をまるで暴挙の如く使うことができたのかについてはひとつの謎である。
当初フェルメールは借金をしてまでウルトラマリンブルーを贅沢に使っていたが、その後は恐らく裕福な妻の実家に婿入りすることにより、経済的な援助を受けられるようになったのではないかと、筆者は推理している。
・「多色のなかの青」から「少色のなかの青」へ
作品が描かれた順に「牛乳を注ぐ女」では8色、「窓辺で水差しを持つ女」では4色、「青衣の女」では3色の色が使われているが、色数を減らした中で青を使うことで、青の力を引き出し、「静けさ」を出していたのだろう。
最初の4~5年の絵は多色で青もなく、これはフェルメールの試行錯誤の結果とも推測される。
・塗りつぶし、削除された素材
X線調査により「窓辺で手紙を読む女」のカーテン部分には当初、テーブルに大きなガラス器が置かれており、フェルメールによって最終的に塗りつぶされていることがわかっている。素材を減らすことにより、より「静謐感」を引き出したのであろう。
・「静の中の静」
フェルメールは女性の佇まいにおいても静けさを演出している。「手紙を読む」や「牛乳を注ぐ」などの静かな動作に加え、「うつむき加減」の「伏し目」、「ニュートラルな表情」が静けさを演出している。
文字数の関係上全ては書けませんが、その他、レンブラントなどとは対局の「穏やかな光」「霞む空気」で静けさを演出するフェルメールですが、彼の現実は14人の子供を持ちとても静かとは言えない状況だったとのこと。その現実が彼に「静謐な絵画」を羨望させたのかも知れませんね。
大変わかり易く、面白い本でしたので、フェルメールに興味をお持ちの方は是非。わたしも他のものも読んでみたいと思います。
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