街歩きをしながら写真を撮っていると気付くのだが、海外で街歩きをしている時の方が思わず引き寄せられて写真を撮ってしまう機会は多い。それはきっと自分自身の中に滲み込んでいる「日常」との「違い」を意識する機会が多いからだと思うのだが、それと同じことを逆の立場でしている人の写真を観て改めて気付かされる身近にあるものの魅力というのもあり、そんな写真を発信する人をフォローしていたりもする。面白いことに、違いを意識するからと言って異国情緒に溢れたものに必ずしも惹かれている訳でもないことは、自分の撮った写真を眺めていても後から気付くこと。結局、見知らぬ国の不案内な道でも、毎日のように歩く見慣れた道でも、写真を撮りたくなる場所というのには案外共通点があって、気付けば日本に居ようが海外に滞在していようが、同じような写真ばかり撮っているということになりがちなのだ。我田引水的な読みではあるけれど、著者が本書でやっている行為も決して異国情緒に惹かれてのことではなくて、思わず引き寄せられてしまうものの背後にあるものをぐっと深く掘り下げて見たという結果なのだろうと思う。もちろん原題(The Bells of Old Tokyo)が示すように「時の鐘」という調査対象、あるいは符牒はあるのだが、綴られる文章は、時に散漫とも思えるほど印象過多になるかと思えば、歴史的事実を積み重ねようとする真摯なものともなる。そして驚くほど率直にその過程で出会った人々のスケッチが挿し込まれる。特に「大坊珈琲店」における遣り取りでは本書を書き上げるまでの時間の経過が並行して描かれているのだが、それも単なる歳時記的な文章に留まらず、その場所に流れている時間を写し撮る営みとなっていて、実はそれこそが「時の鐘」を巡りながら著者のしたかったことなのだということが解る仕組みになっている。
つまりそれは、人が時を生み出しているという考え方。それが著者の中にあることは間違いない。そのことは最終章である「日比谷」において交わされる宮島達雄との会話によって強く確信される。宮島といば東京都現代美術館に常設されている「Keep Changing, Connect with Everything, Continue Forever」を思い起こす人も多いと思うけれど、宮島もまたデジタル・カウンターに「時の流れ」や「生命の発生消滅」を重ね合わせる作風で知られている。その作品の一つに魅せられて日本にやって来たと告白する著者に宮島は逆に質問をする。
本書「追憶の東京 異国の時を旅する」の原題は、The Bells of Old Tokyoであり、Bellsは、上記の「時の鐘」のことである。
筆者は、英国在住の作家、アンナ・シャーマン。2000年代のはじめに10年余りを東京で過ごし、そのときの経験をもとに本書を書いたと紹介されている。
本書についての訳者の紹介を、これも少し長くなるが、引用しておきたい。