東京裁判の結果、A級戦犯としてただ一人文官でありながら処刑された広田弘毅。
名前は知っていたけれど、どういう人物であったのか、この本を読むまで知りませんでした。
貧しい石屋の長男に生まれ、勉強は好きだしよくできたけれども家の後を継ぐことしか考えられなかった少年時代、彼の才能を惜しんで進学を強く勧め
...続きを読むてくれた人がいたおかげで 東大まで進む。
そして日清・日露戦争後の国際情勢を見て、軍隊だけでは国際社会で勝ち残ることはできないと、外交官を目指すのです。
戦争で得ることのできなかった国益を、外交の力で得る。
そのためには多くの国とうまくやっていく力がないとだめだ、と。
しかし時代はどんどんきな臭くなり、天皇のため・お国のためを振りかざす陸軍が、政府の言うことも参謀本部の言うことも天皇の言うことすら聞かずに独断専行することになります。
”軍中央は、事変の不拡大を関東軍に指示した。それが天皇の命令であり、統帥といわれることなのに、関東軍は、統帥の独立をうたいながら、統帥に背いて独走した。”
*関東軍:中華民国の関東州に派兵された大日本帝国陸軍の部隊
*統帥権:大日本帝国憲法下における軍隊の最高指揮権
広田は割と早いうちに陸軍の暴走に対して「長州の作った憲法が日本を滅ぼすことになる」と言うのですが、その憲法すら踏みにじって陸軍が暴走してしまうわけです。
このあたり、偽勅を振りかざして天皇をないがしろにした長州のやり口に似てる。
明治維新も昭和維新も同じだな。
そして、平和外交こそが日本が国際的に生きる道と信じている広田のもとで、外務省官僚すら軍に同調していきます。
「目先ばかり見て、勢いのいいところにつこうとする。ああいう軽率な連中に国事を任せては、日本はどこへ行くかわからん」
大きなことを成し遂げて名をあげようとする輩が多くいるなか、広田は最初から最後まで「外交官としては、決して表に出るような仕事をして満足すべきものではなくして、言われぬ仕事をすることが外交官の任務だ」という。
外交官だけでなく、公務員ってそういうものだと私は思って仕事をしていますが。
どんな時も国際情勢を分析し、誠意をもって外交を行う広田は、とうとう大臣に迎えられます。
軍人に負けない強い信念と、粘り強さと、論理を持つ数少ない人物として。
外務大臣から総理大臣へ。
政治家となると、途端にいろいろなものがいろんな人から送られてくるようになりますが、広田はそれを孤児院や日雇い労働者にまわします。
そんな彼を「人気取り」と書く新聞もありましたが、「いつの世にも、下積みで苦しんでいる人々がある。そういう人々に眼を向けるのが、政治ではないのか。政治は理想ではないのだ」とつぶやく。
なんとか陸軍の暴走を食い止めようと手を打ちますが、常に一歩軍の暴走が先んじてしまい、とうとう戦争が始まってしまいました。
東條英機の独裁下で、満足に御前会議を開くことさえできないなか、それでも平和への努力を惜しまなかった広田が、どういう運命なのか軍人たちと一緒にA級戦犯として処断されます。
「あの時はどうしようもなかったんだ」「そういうつもりじゃなかったんだ」「前線が勝手に暴走したんだ」
見苦しく言い訳をする軍人たちのそばで、広田はついに自己弁護をしなかったのだそうです。
「善き戦争はなく、悪しき平和というものもない。外交官として、政治家として、戦争そのものを防止すべきである」
それができなかった自分を、彼は決して言い訳することなく、刑に臨みました。
東京裁判が多分に政治的な裁判であり、最初からバランスとして文官を入れたいという、答えが先に決まっている茶番でした。
近衛文麿が自殺しなかったら、広田にお鉢が回ることはなかったのではないでしょうか。
それでも、外交官時代の広田を知る各国の大使たちが助命嘆願してくれてもよかったんじゃないの?なんて思ってしまいますが、どうなんでしょう。
私としてはパール判事が広田についてどのように語ったのかを知りたいところです。
*パール判事:戦勝国が敗戦国を裁くのは事後法で、罪刑法定主義に反するとしてA級戦犯全員を無罪とした