【感想・ネタバレ】夏目家のそれからのレビュー

あらすじ

漱石亡きあと、残された夏目家の人々はどう生きたのか――。日本近代文学の巨人・夏目漱石の孫にして、作家・半藤一利の妻でもある著者が綴る、個性豊かな親族たちとのエピソード。当時を生きた著者だけが知る、夏目家に関するエッセイを集めた、滋味あふれる一冊。「漱石の顔が千円札に登場した時、『お祖父さんがお札になるってどんなお気持?』とよく訊かれた。母筆子は、『へーえ、お祖父ちゃまがお札にねぇ。お金に縁のあった人とは思えないけど』という感想を述べたが、私にはこれといった感慨は湧かなかった。漱石にお祖父さんという特別な親しみを抱いたことがなかったからかもしれない。それは一つには四十九歳で没したため、私が漱石に抱かれたりした記憶を持たないせいであろう。しかし一番の理由は母が折に触れて語ってくれた漱石の思い出が、余りにも惨憺たるものだったからであると思う」――本書「母のこと・祖母のこと」より。

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感情タグBEST3

Posted by ブクログ

「彼を慕って集まる弟子達に分け隔てなく接し、質問すれば、真剣に答えてくれたし、小説も懇切丁寧に読んで、的確で細かい批評をしてくれた。弟子達一人一人に「私の漱石」「私だけの先生」という気持ちを抱かせる人であった」と書いてあって、漱石さんアイドルの鑑すぎる(アイドルちがうけど)

古参のお弟子さんへのディスりがひどくて、笑ってしまった

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2024年05月25日

Posted by ブクログ

2021年に亡くなった夫の半藤一利氏が、亡くなる2年くらい前に、「あなた(末利子)の今まで書いてきたエッセイの中から、夏目家のことを書いた作品だけを選んで1冊にまとめてみたら面白いのではないか」と勧めてくれたことがきっかけで出来上がった1冊。
半藤一利氏の想いと、その言葉を遺言と思って大切にあたため、ついに叶えた末利子さん自身の想いが詰まっている。

末利子さんは、夏目漱石の孫に当たるが、漱石は大正5年に亡くなっており、末利子さんは昭和10年の生まれだから、直接には漱石を知らない。
夏目家のエピソードの多くは、漱石の長女である、母・筆子さんから聞かされた話や、親戚の人たちとのお付き合いの中で積極的に「ネタ集め」に努めて書かれた物である。
そして、漱石の晩年の弟子であり、筆子の夫となって、大黒柱を失った夏目家の長男代わりを務めた、父の松岡譲(まつおか ゆずる)氏をとても尊敬している事もうかがわれ、「それから」の部分に当然のことながら、松岡家が占める割合も多い。

以前、末利子氏の『漱石の長襦袢』を読んだことがあり、その中にも、漱石の死後に、古参の弟子達と漱石の遺族の間に確執があったことが書かれていた。
なにしろ「弟子たち」は文筆家であったから、漱石夫人の鏡子のことをひどい悪妻であると書いてはあちこちに発表し、それが世間の定説のようになってしまったり、筆子は自分と結婚する物だと思い込んでいた久米正雄が、松岡譲を略奪者のように悪者に仕立て上げた小説を発表したおかげで、娘の末利子まで、世間から色眼鏡で見られたりした事もあったようだ。
そういった、一方的なやられっぱなしがひじょうに悔しく、鏡子も筆子も反論という事をしなかったから、自分が世間からの不当な評価を覆さなくてはという強い思いがあったと思う。
そういった理由で、鏡子夫人がいかに漱石にとって頼もしい妻であったか、父・松岡譲がいかに素晴らしい人物であったかという記述が繰り返し出てくる。

熊本市にある「夏目漱石記念館」を訪問したときにちょうど高校生の団体が入って来て、館長さんが「この方は夏目漱石のお孫さんです」と紹介したものだから、末利子氏はすっかり高校生たちの見せ物になってしまったというエピソードがユーモラスだった。

やはり、父母両方から文学者の血を引いているせいだろうか、とても読みやすかった。

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2024年05月13日

Posted by ブクログ

ネタバレ

夏目家のそれから

著者:半藤末利子
発行:2024年2月9日
PHP研究所
初出:文春文庫、PHP文庫、新潮文庫ほか

著者は夏目漱石の長女である筆子と作家の松岡譲の子、すなわち漱石の孫である。彼女も作家(エッセイスト)であり、夫はこの100年の生き字引(故人だけど)であり、小説家でもあった半藤一利。『夏目家の糠みそ』を書き、母親が漱石の家から嫁に出る時に持ち出した糠が分けられて著者も使用し、さらに分けられて有名人を含む何人かの家で漬物に使われていることが、世間に知られた。僕もそれぐらいしかしらず、書籍でまとめて著者の作品を読むのは、おそらく初めて。正直、下手くそだなあと思った。

日本語そのものは美しい。うまい。プロの文章だけど、中身がそれにともなっていない。一読して意味が分からず、少しして説明的な部分でやっと理解できる、というパターンが多い。それが、川端康成のように美しくないのである。わざとやっていたりする。

それはともかく、タイトルに惹かれて読んだのだが、夏目漱石が49歳で世を去ってからの、残された子供たちやその家族について書かれた内容であることは間違いなかった。ただ、書き下ろしではなく、そういう内容に通じる著者のこれまでのエッセイを、テーマごとに括って掲載しているというエッセイ集に過ぎないため、主張に一貫性を欠くところや、繰り返しなども多く、書籍としての完成度は低いと言わざるをえない。もちろん、書籍化に際しての追記や加筆などはされているが。

第一章は「ああ漱石山房」というくくりで集められたエッセイ集。すなわち、漱石の終の住処となった住宅に関するお話。明治40年秋、牛込区(現新宿区)早稲田南町七番地にある借家に移った漱石一家。家賃は35円だったそうで、340坪の屋敷の中央あたりに建っていた60坪ほどの平屋がそれだった。ここに、弟子たちのような存在が木曜日に集まる「木曜会」が行われていた。しかし、引っ越しからわずか9年後に漱石は逝去した。

そこにあった、10畳の畳部屋と漱石の書斎であった隣の10畳の板の間で、木曜会は行われた。この部分を山房といい、現在も記念館として保存されている。

漱石の死後、妻の鏡子はここを買い取り、家を新築することに決めた。若手の弟子で長女・筆子の夫だった松岡譲が、無謀な計画に対してかなり骨を折り、しかも、漱石の息子2人(筆子の弟たち)がまだ幼かったため、しばらく同居してくれと請われた。借家だった家を買い取る際の値段交渉をしたり、新築屋敷の設計を見直したり、相当な苦労をしたのであるが、それだけではなかった。漱石の死後、松岡より上の弟子達からは、漱石が生きている頃には先生はお金に苦労したのに、遺族は贅沢している、というような厭味をさんざんいわれたようである。

漱石の死後、全集が売れて妻の鏡子にはお金が相当に入ってきた。しかし、計画性がなく、あるだけ使ってしまう。お金に困った弟子たちにも、お金をよく貸した。多くが返ってこない。そのお金で家を建てた者もいるという。内田百閒に至っては「もうとっくに時効だよ」と平然と言っていたそうである。弟子達は、どうせ先生が稼いだ金なんだからと、悪びれた様子はまったくなかった。

著者、半藤末利子(まりこ)は、鏡子のことを傲岸不遜な独裁者のようなところがある、としつつも、ソクラテスの妻とも喩えられるほどの悪妻だったとの評を繰り返し否定する。漱石は、長女の筆子が生まれた後、ロンドンに留学するが、そこで「神経衰弱」になってしまった。今でいう「うつ」の一種だそうである。ロンドン滞在中に生まれた次女・恒子と長女・筆子は、帰国した漱石が突然に暴力的になり、妻の鏡子とともに彼のDVの被害に繰り返しあう日々を送ったという。ところが、普段の漱石は大人しく人にも親切だった。口答えするどころか、悲鳴ひとつあげずに、ただ暴力に耐えたらしい。

漱石の死後、「木曜会」は毎月、月命日の9日に集まる「九日会」となった。大正6年1月9日に開催された第一回。出席者は、大塚保治、菅虎雄、畔柳(くろやなぎ)都太郎(くにたろう)、眞鍋嘉一郎、滝田哲太郎、林原耕三、松浦嘉一、阿部次郎、小宮豊隆、岩波茂雄、芥川龍之介、久米正雄、松岡譲、前田利鎌、江口渙(かん)、須川弥作、神田十拳(とつか)、森田草平、赤木桁平、内田百閒、津田青楓、安倍能成、野上豊一郎、和辻哲郎、東新、速水滉(ひろし)、石原健生、夏目鏡子の28人。中村是公、狩野亨吉、戸川秋骨、寺田寅彦、鈴木三重吉は欠席したが、第二回には出席。

すごいメンバーである。その他、漱石の逝去直後には、いろんな醜聞があって興味深い。同居を望んでいなかった松岡譲は、立場上、とにかく守りに入っていたが、例えば、東京大空襲を前に漱石の蔵書だけでも自分たちの疎開先である新潟県に運ぼうと手配したが、一足先に小宮豊隆によって持ち出され、彼の勤務先の東北大学に運ばれてしまった。運良く仙台で戦災を逃れはしたが。しかし、言葉巧みに老いた鏡子を口説き、安い値で東北大学に売らせたというのが真相だった。

漱石の葬儀で受付をしたのは、若い門弟である芥川龍之介と久米正雄だった。小宮豊隆は焼香係だったが、実兄に焼香させなかったため酷く叱責された。

妻の鏡子は占い好きだった。漱石の家に野良猫がよく入ってきていたが、漱石がそんなに入ってくるなら飼ってやればいいじゃないかと言うも、猫ぎいらいの鏡子はそうしない。しかし、出入りするあんま師が猫を抱き上げ、この猫は足の爪の先まで黒い珍しい服猫です、飼うとお家が繁盛します、と言ったので、即座に猫に対する虐待をやめて好待遇を与えた。漱石の小説にあるように、鰹節をふりかけたご飯に昇格したようだった。そして、それをモデルにした初めての長編小説で漱石は一躍名を挙げたので、まさに福猫となった。

漱石の長女である筆子に惚れていたのは、弟子の久米正雄だった。しかし、筆子にはその気がなく、彼女が思いを寄せていたのは松岡譲だった。松岡には、そんな気はなく、告白されて戸惑っていた。久米は、松岡を悪者に仕立てて『破船』を書いた。

『道草』は、ロンドンから帰った時から3年間ぐらいのことが描かれている。強度の神経症におかされていた時期だった。
『行人』は虚構の小説だが、一郎の妻・直は鏡子、一郎になつかない娘の芳江は筆子に置き替えられる。

断片的ではあったが、いろいろなこぼれ話がわかり、面白いエッセイ集ではあった。ただ、家族や親族などの人名が多く、とくに女性の名前がたくさん出てくるので、メモして整理して読む必要があるかもしれない。漱石の子供の数にしても、6人と書いてあるエッセイもあれば、7人としているものもある(どうやら7人で末っ子は幼い頃になくなっているらしい)。


漱石
鏡子
1.筆子
・松岡譲―明子、陽子、新児、末利子
2.恒子―昉子
3.栄子(生涯独身)
4.愛子(死亡)―漱介、一恵
5.純一(バイオリニスト)―房之助
・嘉米子(ハーピスト)
6.伸六(しんろく)
7.

鏡子
時子(妹)
・鈴木禎次(建築家):鶴舞公園の奏楽堂、噴水塔、上野松坂屋
梅子(妹)―昭次郎(次男)
・神戸の生糸商、奥村鹿太郎
倫(弟)
豊子(妹)
中野壯任(たけとう、末弟)―重子(1人娘)
中根重一(父親、福山藩、医師、官吏)

漱石
・直矩(なおただ、実兄)―千鶴子
・中村是公(満鉄、東京市長)
・菅虎雄
・狩野亨吉(こうきち、一高校長、京都帝大初代学長)

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2024年07月07日

Posted by ブクログ

漱石のお孫さんの回想録です。夏目家周辺の諸事情を、 お母様が語られたことを含め 書いておられます。身内への愛や敬意が感じられます。弟子の皆さんは残念な方々が多かったような? 「夏目家の糠漬け」が良かったかな。

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2024年04月13日

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