あらすじ
責任ある主体として語りふるまう我々の近代は、なぜ殺したはずの神の輪郭をいつまでも経巡るか。臓器の所有、性のタブー、死まで縦横に論じ反響を呼んだ小会PR誌『UP』連載に、著者の思考の軌跡をふんだんに注として加筆した渾身の論考。すべてが混沌とする現代の問題に、自分で思考することを試みる。
【本書「はじめに」より】
神は死んだ。世界は人間自身が作っていると私たちは知り、世界は無根拠だと気づいてしまった。もはや、どこまで掘り下げても制度や秩序の正当化はできない。底なし沼だ。幾何学を考えるとよい。出発点をなす公理の正しさは証明できない。公理は信じられる他ない。どこかで思考を停止させ、有無を言わせぬ絶対零度の地平を近代以前には神が保証していた。だが、神はもういない。
進歩したとか新しいという意味で近代という表現は理解されやすい。だが、近代は古代や中世より進んだ時代でなく、ある特殊な思考枠である。科学という言葉も同様だ。科学的に証明されたと述べる時、迷信ではなく、真理だと了解する。しかし科学とは、ある特殊な知識体系であり、宗教や迷信あるいはイデオロギーと同じように社会的に生み出され、固有の機能を持つ認識枠である。科学的真理とは、科学のアプローチにとっての真理を意味するにすぎない。
人間はブラック・ボックスを次々とこじ開け、中に入る。だが、マトリョーシカ人形のように内部には他のブラック・ボックスがまた潜んでいる。「分割できないもの」を意味するギリシア語アトモスに由来する原子も今や最小の粒子でなくなった。より小さな単位に分解され、新しい素粒子が発見され続ける。いつか究極の単位に行き着くかどうかさえ不明だ。
内部探索を続けても最終原因には行き着けない。そこで人間が考え出したのは、最後の扉を開けた時、内部ではなく、外部につながっているという逆転の位相幾何学だった。この代表が神である。手を延ばしても届かない究極の原因と根拠がそこにある。正しさを証明する必要もなければ、疑うことさえ許されない外部が世界の把握を保証するというレトリックである。そして、神の死によって成立した近代でも、社会秩序を根拠づける外部は生み出され続ける。
このテーゼが本書の通奏低音をなす。虚構なき世界に人間は生きられない。自由・平等・人権・正義・普遍・合理性・真理……、近代を象徴するキーワードの背後に神の亡霊が漂う。表玄関に陣取る近代が経糸を紡ぐ。その間を神の亡霊が行きつ戻りつ、緯糸のモチーフを描く。
【主要目次】
はじめに
序 近代という社会装置
第1回 死の現象学
第2回 臓器移植と社会契約論
第3回 パンドラの箱を開けた近代
第4回 普遍的価値と相対主義
第5回 「べき論」の正体
第6回 近代の原罪
第7回 悟りの位相幾何学
第8回 開かれた社会の条件
第9回 堕胎に反対する本当の理由
第10回 自由・平等・友愛
第11回 主体と内部神話
最終回 真理という虚構
あとがき
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Posted by ブクログ
自分以外の他者の存在は、その思考や身体機能と完全には同一化できないという意味で、実はAIと大差がない。また、それは自動運転でもある。
小坂井氏による『人が人を裁くということ』『格差という虚構』を読んだが、人間のバイアスを取り除いて深く考えさせるのが、著者の面白さだと感じている。本書も例外ではない。また本書は注釈にページが多く割かれ、そちらの重量感もあって、読み応えある本だ。
― 内視鏡検査のために全身麻酔をかけられたことがある。目が覚めた時、検査終了を意識すると共に、このまま死んでしまえばよかったという不思議な気持ちが浮かんだ。麻酔から醒めぬまま命が尽きれば、自分の死を知らず、それ以降の幸せにも苦悩にも無縁でいられる。それでよいではないか。この私たちが恐れるのは死自体ではない。一人称の死を恐怖するのは認識論的錯誤の結果である。
本書の問いかけの一つに「二人称の死」という問題がある。三人称の死は他人事であり、一人称の死は疑似問題。つまり、自らの死は上記引用の通り、自らがそれを最終的に知覚し得ないという意味では認識論的錯誤だというのだ。その上で、我々が対峙していかなければいけないのは「二人称の死」だ。愛する人や家族の死。人間にとっての死の本質は、その喪失の受容にあるのだろう。
他者と自己は身体的には同一化できないが、身体に纏う物語の一部として、自らに取り込んでいく。その機能こそが「愛」であり、その剥奪こそが「喪失であり死」である。
―「正義論」の著者ジョン・ロールズはメリトクラシーの欺瞞性をよく知っていた。出生時に親から受けた先天的性質に加え、家庭教育および社会環境という外因から各自の能力差が生ずる。したがって当人の責任ではない。能力の高さゆえに上位者が下位者より恵まれた生活を享受する権利を持つのではない。格差をつけないと優秀な者の意欲をそぐため、社会の総生産力が低下し、最下層にいる人々の生活がかえって悪化するからだ。だから、劣等感を抱く必要はないと説く。だが、このような理屈や慰めは空疎に響く。ロールズの想定する公正な社会では底辺に生きる人間に、もはや逃げ道はない。分配が正しい以上、貧困は誰のせいでもない。貧富の差は正当であり、恨むなら自分の無能を恨むしかない。序列が不当だと信ずるからこそ、人間は劣等感に苛まれないですむ。公正な社会とは、人間心理を無視した砂上の楼閣である。正義は原理的に成就不可能だ。出口はどこにもない。宗教の虚構を斥け、合理的な解答を求める正義論は最初から無理なのだ。
神の亡霊が嗤う。お前たちは神を殺した。だが、人間がしたことは結局、自由意志という化け物を生み出しただけではないか、と。科学主義の限界は、「信仰なき生きがい」に辿り着き、アポリアへ。虚構に気付かぬふりして生きるために神がいて、信仰があった。しかし、気付いた所で、それは虚構である。AIと人間には大差がない。他者は自動運転だが、では、自己はどうだというのか。
Posted by ブクログ
避妊、教育、死刑制度、臓器移植などへの逡巡を神が失われた観点から述べる興趣が尽きない内容でした。あるレビューには筆者の迷いしか書かれていないとありましたが、彼の遅疑とともに考えてこそ楽しめる本ですね。
Posted by ブクログ
近代以降の価値体系の中で育った人間の常識を粉々に粉砕する本。
表題である『神の亡霊』が、この本の重奏低音をなすテーマである。では神の亡霊とはいかなるものなのだろう。それは、近代における神の否定と同時に立ち現れる、自由意志などの虚構のことである。
神の否定は、ニーチェのかの有名な「神は死んだ」
が端的に表すように、科学の発展とともに起こった。しかしながら科学の設定する自然の因果律に取り込まれた人間は、責任の所在を同定出来なくなる。そこで自由意志や主体などの虚構が生成されるのだ。
人間に先立って真理があるのではない。そうではなく、集団が真善美を生み出す。そうして人間社会の秩序は保たれている。
他にも様々な角度から近代の常識を揺さぶる本書は間違いなく良書である。必読。
Posted by ブクログ
人間社会において”正しさ”は外部からでしか定義できない。かつてはそれを担っていた”神”を人は近代になって殺したとされるが、”正しさ”を定義するモノはやはり外部、”神”の亡霊として存在し続けているといった内容。
かつて公表したエッセイをまとめて、足りない部分に注釈を足した形なのだが、本文よりも注釈の方が多くなってて、良い意味で自分の書いた教科書で授業する大学教授の授業を味わえる本w
文章自体はエッセイとして発表されたモノを基にしてるのでとても読みやすいけれど、理解が簡単かといえばなかなかなモノなんだと思う。少なくとも私は理解したと胸を張れない。
問いと答えが整理されて書かれてる本ではなく、筆者の考えを整理して筆者だけが納得してる本なので、読者は考え続けることが求められる。
近年は世界中で”正しさ”を振り回す話が過激さを増し続けているけれど、”正しさ”とはなんなのだろうと考えるのにとても良い内容だと思える本だった。
Posted by ブクログ
私たちの生活という営みは、法律や規則、習慣や文化などの様々な体系によって制約を受けている。しかしそれらの体系を、私たちはなぜ遵守するのだろうか。体系の正しさを基礎付ける根拠とはいったい何なのか。
近代以前、それは「神」だった。神の存在が私たちの道徳や価値観、また国を形づくる法などを規定していた。しかし近代以降、明らかになったのは「神は存在しない」。少なくとも現代の科学ではその存在を確かめることができない。つまり私たちの従うルールの正しさを保証する根拠も存在しない、もしくは存在を確かめることができない。なのに私たちはなぜ「正しさ」なる概念が存在し、自分以外の人間とも認識を共有しているはずと信じることができるのか。
正しさに根拠は存在しない。根拠の正しさを論理的には証明することができない。正しさは「みんな」が「正しい」と「信じる」からこそ、正当性が認められる。要するに「虚構」である。しかし虚構なしには、人間は社会生活を営むことができない。神なき時代、つまり正しさの根拠を定める主体が神から人の手に渡った今、私たちはどのような社会を目指し、どのようにして虚構を築き上げていくか--
この連休中に夢中になって読みました。ここ数年で間違いなく一番おもしろい本でした。自分の常識を揺さぶられ、読みながらぞわっと身震いしてしまうような本に出会うことはなかなかありません。著者の小坂井先生が2年に渡って東京大学出版会のPR誌に寄稿された文章をまとめて再編集した本のようです。こんなすばらしい寄稿を毎月読めるなんて、東大生はうらやましい。
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相対主義に対する根強い誤解がある。価値が相対化されれば、悪を糾弾できなくなると言う。ここに勘違いの元がある。
禁止のない社会は存在しない。社会に生きる人間にとって禁止行為は絶対的な悪であり、相対的な判断はなされない。だが、何が禁止されるかは時代・社会に左右される。殺人でさえ、全面的に禁ずる社会は存在しない。死刑や戦争は国家による殺人だ。ある条件下で殺人を許容し、殺人を命じる制度である。江戸時代の仇討ちもそうだ。親のかたきを討たない選択肢は武士になかった。殺人は義務だ。人身御供という習慣もかつてはあった。供儀の拒否が逆に犯罪をなす。ヨーロッパ中世の魔女狩りも同様である。
美人の基準を考えよう。顔をどれだけ眺めても美しさの理由はわからない。美しさゆえに美人と呼ばれるのではないからだ。美意識は社会規範の反映にすぎない。善悪の基準も同じだ。悪い行為だから非難されるのではない。我々が非難する行為が悪と呼ばれるのである。真理だから受け入れるのではない。共同体に受け入れられた価値観だから真理に見える。真善美は集団性の同義語である。
普遍的だと「信じられる」価値は、どの時代にも生まれる。しかし時代とともに変遷する以上、普遍的価値ではありえない。相対主義とは、そういう意味だ。何をしても良いということではない。悪と映る行為に我々は怒り、悲しみ、罰する。裁きの必要と相対主義は何ら矛盾しない。人間は歴史のバイアスの中でしか生きられない。社会が伝える言語・道徳・宗教・常識・迷信・偏見・イデオロギーなどを除いたら、人間の精神は消滅する。考えるとは、感じるとは、そして生きるとは、そういうことだ。
(P.95〜96)
Posted by ブクログ
宗教にの特集で朝日新聞の読書欄の推薦本である。本人はフランスで社会心理学を教えている日本人である。また、この本は東大のUPで連載したものに注を加えたものとなっている。したがって、11章に分かれているが、本文よりも注の方が長い。東大生すべてがUPを読んでいるわけではないが、注を参照しながら読むと、かなり勉強になると思われる。注の方が難しいような気がする。