あらすじ
ASD/ADHDの大学教員、コロナ禍を生き、ウクライナ侵攻下のウィーン、アウシュビッツを行く。日常と非日常が交差する、はてなきインナートリップの記録。
10年ぶりにウィーンへ研究旅行に行くべく、羽田空港に赴いた著者を待っていたのは、出国許可がおりないというまさかの措置だった……。発達障害特性を持つ著者が、コロナ禍、ウクライナ侵攻の最中に、数々の苦難を乗り越え日本を出国し、ウィーンの研究者たちと交流し、ダヴォス、ベルリン、そしてアウシュヴィッツを訪問するまでの、めくるめく迷宮めぐりの記録。発達障害者には、日常もまた、非日常的な迷宮である。装丁・川名潤、装画・榎本マリコ。
「障害があるということは、ふだんから被災しながら生きているようなものだ。著名人の誰かがそのような発言をしたと思うのだが、(…)僕はこの言葉に大いに首肯できる。僕たちの日常は、災難だらけなのだから。障害者とは日常的な被災者なのだ。もとから被災していて、それだけでも大変なのに、疫病が流行し、コロナ禍の時代が出現した。(…)精神疾患の当事者がコロナ禍を生き、戦争を身近で感じた日々のちょっとだけ稀有な記録。それが本書の内容だ。」(「はじめに」より)
【目次】
はじめに──大学教員と精神疾患
第一章 コロナ禍時代の日常──京都にて
自助グループを主宰する発達障害者
基本、失敗の人生を生きている
好評を博した『みんな水の中』
「当事者研究」から「当事者批評」へ
研究の快楽
授業について
食べもののこと
「推し」に支えられて生きる
第二章 出国できませんでした──羽田空港での洗礼
いま海外って行けるんだ!
夢見心地の朝
大使館の窓口と格闘する
書類は揃ったぞ!
楽勝コースのはずだった
出国失敗
栗isうまい
第三章 中途半端な時期──ふたたび京都にて
立ちあがれ、オレよ
頭木弘樹讃
続・頭木弘樹讃
まさかの鼻血大出血、出発日前日の不眠
第四章 ウィーンとの合一──かつて帝都だった街で
ウィーンを体になじませる
中心街
住居とマスク着用義務
食と障害者モード
グリーンパス狂想曲
第五章 学ぶことを通じてのみ──教養体験、研究、外国語
美術とガラクタ
伝統音楽との戯れ
研究生活
「なろう系」としてのオーストリア語学習?
第六章 旅行と戦争──戦時下のアウシュヴィッツ訪問
各地への旅行(一) グラーツ、リンツ、ザルツブルク、インスブルック、クラーゲンフルト、ハルシュタット、メルク
各地への旅行(二) ダヴォスとベルリン
各地への旅行(三) ブラウナウ・アム・イン
各地への旅行(四) アウシュヴィッツ/ビルケナウ
帰国
参考文献
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Posted by ブクログ
ムーミン本『なぜスナフキンは(以下略)』がきっかけで横道誠さんを知った。発達障害の当事者研究なるものをしているという。文学研究者でもある。高野秀行さんと対談などもしている。興味を持ったのでいろいろ著作を読んでみたいと思った。
高野さんによる書評が面白かったので、この本を選んだ。「障害者モード」という言葉が気になったのも選んだ理由のひとつだ。
「障害者モード」については、障害を抱える自分を受け入れて生きる、ということだと理解した。でもそれは、何かを諦めるとか、不遇を甘受するとか、そういうネガティブなことではなく、「ああ、自分は今こうなんだ、それならこうしよう」と前に進むための心構えなのだろうと思う。
ある人のある個性が「障害」、つまり生活するうえでの“差障り”になるかどうかは、どんな環境で生活しているか次第なので、その個性の側だけに“障害性”があるわけではない(障害の社会モデル、というそうだ)。そう考えると、「健常者と障害者」という二項対立を、人に当てはめる表現(あの人は健常者、私は障害者、など)は、間違った捉え方による言い方なのではないか。「私は、この状況においては健常者、だけど別の状況においては障害者」、ということが起こり得る。要はその環境、社会において困りごとがあるかどうかの違いなのだが、社会の側のあり方が固定的で限定的だと、ある個性を持つ人は常に困ってしまうから、まるでその人の側に障害の元があるかのような「障害者」という言い方になる。
そこまで考えると、「障害者モード」という言葉は、「今ここで私は困っている、ということを、自分も周囲も責めずに、冷静に認識すること」と言い換えられるかもしれない。障害者という言葉が悪いとか、害の字はひらがなで書くべきかとか、そういう表面的なことは置いておいて、診断されてラベルがつくことの意味は、冷静に受け止めるための手段のひとつというところにあるのかもしれない。
ここまで書いたことは、私がただ考えたことで、本には書いてない。それに私は、一般的な意味での障害者の経験する「困りごと」の、何万分の一も想像できていないで、相当ぬるいことを言っているだろう、きっと。でも、怪我や病気や老いやストレスなどで、誰でも困る日は来る。全ては、広い広い、だけど同じひとつの地平の話なんじゃないか、と思った。
…これだけ長く書いておいてなんですが、それはさておきですよ。なんかこの本、好きだったんです(急にですます調)。正直いうと、文学作品の引用部分とか、ウィーンの街歩きの記録とか、すっすと読み飛ばしたところも多いのですが、それなのに「なんか好き」と感じたのはどういうところだろう、と考えてなんとか言葉にしてみると、
・淡々としてるのに、事件だらけ
・事件だらけなのに、「ドラマ」じゃない
といった感じでしょうか。
私は作劇したことはありませんが、「事件がないとドラマにならない、ただの出来事の連続じゃあドラマとは言えないんだ!」、そんな格言ありそうじゃないですか。でも、私はまさにその「ただの出来事の連続」感が好きだと感じたのです。テーマだとか、筋道だったストーリーだとか、ここが盛り上がるところよといった焦点が、まああるっちゃあるんですけど、ひとつに定まってないというか、定めたくなさそうというか。「伝える」ことに対して貪欲なのかそうじゃないのかわからない感じ、を醸し出してるところが良い。スリリングな旅路、学びと研究の日々、アウシュヴィッツ訪問、どれも読み応えがあった。
それを味わったうえで改めてタイトルを見ると、副題の、単語が並べてある様子も、愛すべきとっちらかり感であるように思われて、「わかるよ、全部込めたいし、人間、そんな要約とか集約なんてできるもんじゃないですよね」と言いたくなる。著者にそんなつもりがあるかどうかはわかりませんが、私にはそんなふうに見えて、心地よかった。この心地よさは、誰もわかってくれなくてもいい、私の個人的な感じ方だから、と言えるレベル。
Posted by ブクログ
面白かった。
普通のエッセイと紀行本の中間みたいな本。
作者は自閉症とADHDを患っていて、当事者研究として障害者への知識を深めている。
そのため、旅行や生活の中で起こる様々なイベントに対して、自分事なのに俯瞰的に見て分析するパートが多くて面白かった。
とくに「注意欠如・多動症的ビールストック」「自閉症スペクトラム症的ビールストック」の部分は笑った。
ADHDの目についたものに興味を持ちやすい傾向と、自閉症のこだわりが強い傾向がビールの銘柄に表れるのも面白いし、ネーミングのパンチが強くて良かった。