【感想・ネタバレ】青い眼がほしいのレビュー

あらすじ

誰よりも青い眼にしてください、と黒人の少女ピコーラは祈った。そうしたら、みんなが私を愛してくれるかもしれないから……人間としての価値や美しさは白人の世界にのみ見出され、そこに属さない黒人は存在意義も認められていない。白人が定めた価値観を痛烈に問いただす、ノーベル賞作家の鮮烈なデビュー作。

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ネタバレ

言葉が出ない。重たい作品だが、日本文学と異なる点も多くあり、学びになった。感情移入すると、無理だ。読めない。
あれは何を示す?これは何を示す?というテキストに対する疑問が多く湧いてくる…。
そういう話を抜きにするなら…。青い眼を求め狂っていくピコーラだが、クローディアたちも同じ黒人である。ニグロ、という枠をどこに当てはめるか…。対比によってのみ生きていく価値観、そこに黒人への差別が投影されているのか…。
何度も読みたい作品である。

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2025年02月11日

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デビュー作?
とんでもない作品だ。
比べるべき作品は、『苦海浄土』しか思い浮かばない。

差別を僕らはある決まった物語の尺度でしか見ていなかった。

その奥底、本当の意味をトニ・モリスンの言葉、表現で初めて知る。しかし、それは序の口という印象だ。悲惨に底はない。

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2023年08月22日

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文章の素晴らしさに驚いた。「秘密にしていたけれど、1941年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった」「秘密にしていたけれど」の言葉の意味が持つ親密さ、打ち明け話、信用、このニュアンスが持つ子供の無垢さ。それが差別、暴力の助長につながる。そこをとてもうまく同居させている。

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2023年05月18日

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読んだ本は1994年6月30日初版発行の早川書房の本、黒人女性だから書ける本、深く重い印象、ピコーラと言う黒人の女の子の名前が記憶に残る、著者と訳者が1931年の同年生まれ。

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2023年01月30日

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 1941年のオハイオで、黒人の少女ピコーラは「青い眼にしてください」と熱心に祈っていた。黒い肌で縮れ毛の自分は醜い。美しかったら、不幸な人生は違っていたに違いないのだ。ピコーラは貧しく、学校ではいじめられ、父親の子どもを宿すことになる。
 語り部を担当する少女がいるにはいるが、物語はあちこちに飛び、何の話だか分からなくなる。これには著者の狙いがあり、読者が「責任を顧みることをせず、彼女を憐れんでしまうというという気楽な解決のほうへ」流されないよう、読者自身が語りを再構成するようにしむけたかららしい。
 この手法のせいかは分からないが、確かに「ピコーラがかわいそう」「父親や白人が悪い」で済ませられない。ピコーラの受難に対して、読者も責任を感じ、罪悪感を覚えずにいられない。貧困も差別もいじめも虐待もない世界だったら、おとぎ話の悲劇として読めると思う。しかし、現実は違っていて、今もピコーラがあちこちにいるのを私は知っている。ニュースで虐待事件が読まれ、ドキュメンタリーでサバイバーが声を上げるのを聞く。ネットでは信じられないような差別発言を目にする。そして、私は何もしていない。
 「彼女の上でからだを洗ったあと、とても健康になったような気がしたものだ。わたしたちは彼女の醜さの上にまたがったとき、ひどく美しくなった」「彼女は口下手だったので、わたしたちは雄弁だと思い込んだ」「彼女の貧しさのおかげでわたしたちは気前がよくなった」「彼女はこういうことをわたしたちに許してくれたので、わたしたちの軽蔑を受けるのにふさわしいものとなった」。この言葉に、良心が動揺し、うしろめたさを感じない人が、一切身に覚えがなく純粋な義憤を持てる人がいるだろうか。他人の不幸で自分がそうでないことを確かめたことがなかっただろうか。
 また、『青い眼がほしい』はピコーラをいじめ、犯す人間がなぜそうなったかも描き出す。人種差別やそれに伴う貧困に無力感と羞恥心を植え付けられ、それが自分より弱い者への嫌悪感に変わるのだ。他人の不幸で自分の運の良さを確認し安心するときほどではないが、この感情の転換も残念ながら私にはよく分かる。得られなかったものをどうして人に与えることができようか。

 人種差別が本書のバックボーンではあるが、「逸脱」させられる側と、「逸脱」を定義する側の相剋の物語として、普遍的な意味を持っていると思った。とにかく重く深刻な物語なのに、非常に美しく繊細に書かれている。心の奥深くに届く作品だった。

【追記】
物語の冒頭の「家があります。緑と白の家です」はアメリカの小学校のリーディングの教科書に登場する白人の兄と妹、ディックとジェインの物語の一節だそう。
file:///C:/Users/tanak/Downloads/annual_intl_17_83-85.pdf

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2022年07月06日

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差別を受かる黒人の精神的苦痛の表現がすごい。読めてしまう。
嫉妬心と羨望。ミスターヘンリーの淡緑色の言葉。

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2022年03月24日

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自分の容姿を醜いと思い込み美しい青い眼に変われるよう祈る少女ピコーラ。いつか自身の持つ美しさを見つけ人生を変えて行く物語かと期待していたが…更に厳しい苦難が。

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2021年09月17日

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ネタバレ

既に形成された価値観を覆すことは難しい……
だけど、2020年を迎え、今まさにアメリカを中心に、黒人達が立ち上がろうとしている

日本人達は対岸の火事の様相。外国の著名人が声を上げてもシラーっとしてる。だけど、日本に住む外国人に対する排他的な視線や感情を、彼等は敏感に感じ取っているはず……。

日本人も、自分の価値観を今一度確かめてみる必要があると思う。


しかし、この本の素晴らしいところは、ピコーラを破滅に追いやっていった人物達をも鬼畜な敵として描くのではなく、『人間』として描いているところだと思う。どんな想いを抱いて生き、価値観が形成されていったのか、その足跡を丁寧に描いている。

自分と相手。一人の人間として相対することこそ、今求められているのでは。

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2021年02月21日

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万人にはお薦めできないが、人間と人生のネガティブな側面に正面から向き合えるような、真の意味で勇敢な方々に強くお薦めしたい書籍である。

登場人物が皆、何らかの(主に人種的な意味で)シビアな闇を抱えている。その闇が詳らかに描写され、そして息つく間もなく事件が続く。

最も凄惨な目に遭う人物は、間違いなく主人公のピコーラという黒人の少女だ。本人にはほとんど落ち度はない(ように見える)のに、行く先々で様々な悲劇に見舞われる。
一見悪くないのに不遇な扱いを受ける人物は様々な作家の様々な作品で出てくるが、ピコーラはその極致と呼べそうだ。

個人的に特に共感したのは、終盤に出てくるあるエセ呪術師だ。彼の歪んだエリート意識、選民思想は僕自身のかつての歩みを追体験させられるようで、読んでいてとても痛ましいものを感じた。

差別やいじめ、虐待といったきわめて深刻なテーマを真剣に扱っているため、読むのに勇気がいると思う。だが読後はそれらに対する認識が深まっているはずである。

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2025年06月07日

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比喩が秀逸 母親たちの井戸端会議を、「少しだけ意地悪なダンスみたいだ」とするのハッとした

「どうやって」をいろんな人の視点から描くことで、「どうして」を考えさせる、お手本のような作り方だと感じました

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2025年03月16日

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醜いと思っている黒人の少女ピコーラとその周りにいる2人の姉妹。秋から次の夏までの少女たちを取り巻く変化と何かの象徴の物語。ピコーラの妊娠やその父母の悲惨な生い立ち、ネグレクトや近親相姦などの虐待どんどん暗い方向に進む物語の青い眼への希求と変身。妄想?精神の崩壊?全てが悲しい。

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2025年03月11日

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終始重苦しい気持ちで読んだ一冊です。
ただ、今この瞬間にも人種差別であったり、本人の力だけではどうにもならないところで生きている人たちがいる、ということから目を背けてはならないという戒めのような作品だと感じました。
風景描写や家具のソファについて細かく繊細な記載があり、翻訳の関係もあるのか外国の小説はこういったタッチで描かれるものなのかな、と新鮮でした。
みんな一生懸命に生きている。その姿は無条件に美しい。

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2025年01月21日

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弱者の中にある、さらなる弱者への差別。不幸の連鎖(親の貧しさ、親に育児放棄された親など)。
すごく読みづらい、世界観に入り込むのに苦労はしたものの、ピコーラの身に起こった悲劇が今も続いていることを思うと切なくなる。青い眼、眼というよりも「青」の象徴するもの、聖母マリアの色、白色人種の瞳などいろいろあるかもしれないが個人的には聖母の象徴のように思えた。苦しみの中で縋る存在、生きる寄す処、それが「青」い眼なのかもしれない。

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2024年11月27日

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土地に、暮らしに染みつき終生その生を縛り続ける差別。悲しみの果てにこぼれ落ちたその願い。つらい。
黒人差別が“当たり前“に横行していた時代の暮らしが悲しい。

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2024年08月15日

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筆者に初めて触れたのは「ホーム」を読んだ時。朝鮮戦争から戻った兄妹の無残な、救いのない話。あたかも御須メルを文でなぞるような癒しと救いの魂を感じた。

先日フォークナーを久しぶりに読み、難解で捉えようのなかった偉大なノーベル賞作家に再度くらいついてみる気になったから。
読むという行為は「単に頁を捲り、その世界に触れる」だけでは無謀で、入念な下調べとプロット研究、筆者の成育、生活歴、家柄を知って・・成って行くと私には初めての足踏みをしつつかかる。
そこに浮き上がってきた、トニ・モリスン・・フォークナーと同じ、ノーベル賞作家、しかも扱うテーマが人種差別。

何も知識がなかったら、やはり食いつき辛かったと感じさせられた。
叙述が積み重なり、時系列を度外視した一見ばらばらの連作が集まってできている。
ピコーラという少女は12歳、物語を綴るのは筆者の分身と思しきクローディア。そしてピコーラの父チョリーと母ポーリーンの過去が掘り起こされて行く。表題になっている「青い眼が欲しい」と請われるソープヘッド・チャーチの身辺が浮かび上がる。

作品の舞台は1941年、太平洋戦争が始まろうとしている暗雲垂れこめた米世界。フォークナーがノーベル賞を受賞したのは1946年。アメリカ社会を分断した北軍と南軍のしこりが歪みを持ったまま、南北戦争の解決は南部貴族、プアホワイトなどを新たに生み出したまま世界大恐慌へ。追い打ちをかけるような相次ぐ天災の爪痕(スタインベックの作品によく書かれている)を持ったまま、なだれ込んだのがこの時期だ。

南部の貧困層(大半は黒人、それも奴隷層)を抱え込んだまま今に至っている。フォークナーの信奉者であるトニ・モリスンの想いが随所に表れている。フォークナーは南北分断の犠牲者が抱く虐げられた感情をそのまま負とするのではなく、乗り越えて行くために勇気が必要とうたったが・・その後続いた数々の事件を盛りスンはどう捉えたであろう。2019年に世を去るまで彼女の胸に去来した想いの原点がここに詰まっていることを静かに、重く、まるで霊歌の響きのように訴えている作品だ。

グリーンブックを見て感じたのは主役の演奏家の姿、瞳の毅然とした輝石のような煌めき。あのような方も、同時期に苦悩と差別と煩悶の中で戦い生きていたのだという感慨が再度蘇った。4半世紀かけないと世の光が当てられなかったことを噛み締める、そんな作品だった。

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2024年01月22日

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白人思想に覆われた日常に、白い肌や青い眼であれば自分も自分として愛されるのか?という黒人少女の純粋で真っ当で身を切るような願い。
自分たちが劣っているとされる、値打ちがないとされるとしても、同じ黒人のモーリーンは「かわいい」。彼女を美しくしているものを憎むべきだ、という観察眼の鮮やかな切れ味が随所に描かれ、堪能した。現実の根深さに心をえぐるような小説だけど、決して読むのを諦めたくなるようなものではなかった。
日を跨いで読むよりも一気に読むのがおすすめです。

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2022年12月09日

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西加奈子がどこかで激推ししていた本作。
冒頭の「秘密にしていたけれど、1941年の秋、マリゴールドはぜんぜん咲かなかった。」の文を読んで稲妻が走ったと話していたが本当に吸い込まれるような冒頭。
黒人の被差別、黒人間の差別については描き方や起きている現象は全く違うが映画グリーンブックと似たテーマだなと感じた。黒人だからと言って、一枚岩なわけではなくむしろ、黒人にも白人にも除け者にされる人生。原題のthe bluest eyesを「青い眼がほしい」と訳したセンスには脱帽。
個人的には色や温度の感覚を伝える描写が美しくて好きだ。
「だから、チョリーがやってきて、わたしの足をくすぐったとき、それはちょうど、あのこけももと、レモネードと、コフキコガネが描いた緑色の筋が、みんないっしょに襲いかかったみたいだった。」
チョリーとポーリーンの出会いの最初期を描いたとてもとても美しい描写。後に二人の関係は罪を犯すものとそれを罰するものの関係に行き着くわけだが、歪んだ関係のそこには愛情があるときっと思う。

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2022年07月29日

Posted by ブクログ

文体は比喩が長く、読みにくさがあるが、わたしたちの固定観念を見事に払いのける強さがある。
淡々と語られる日常は、祖先から受け継ぐ圧倒的な強さに基づく諦念を浮き彫りにする。

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2022年04月07日

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「秘密にしていたけれど、一九四一年の秋、マリーゴールドはぜんぜん咲かなかった。あのとき、わたしたちは、マリーゴールドが育たないのはピコーラが父親の赤ん坊を宿していたからだと考えていた。」

最初の章のこの冒頭からもう心を鷲づかみ。トニ・モリスンの文章は歌うような美しさがあります。

青い眼がほしいと祈る黒人の少女ピコーラ。黒い肌に青い眼、それが美しいと思ってしまうピコーラ。彼女がかわいいと思うのはシャーリー・テンプルのような少女。

たいして語り手であるクローディアは、大人たちがくれた白い肌、金髪で青い眼のベビードールをばらばらにこわす。
(黒人の女の子に金髪で青い眼の人形をあげるってよく考えると奇妙なことなんですが、昔は日本の女の子もこういう人形に憧れたんですよね。リカちゃんはフランス人と日本人のハーフだし、ジェニーは元がバービーだし。)

「難解な作品」「よくわからなかった」という感想がいくつかあった。たしかに構成は少し複雑ですが、基本的にはピコーラを中心に、彼女の父親、母親、彼女をいじめた黒人の少年たち、白人の少女たち、それぞれの視点が交錯し、彼女を追い詰めたものを描いている。

人種差別を背景にした残酷なストーリーなんですが、読み終わって残るのはほのかな光のような美しさ。
それはトニ・モリスンがあとがきで解説しているような「正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ」であり、「たんに目に見えるものではなく、人が〝美しくする〟ことのできるもの」、ピコーラにはわからなった「自分が持っている美しさ」のような気がします。


以下、引用。

尼僧たちは情欲のように静かに通りすぎ、醒めた眼をした酔っぱらいが、グリーク・ホテルのロビーでうたっている。

彼女たちの会話は、ほんの少し意地悪なダンスみたいだ。音が音に出会い、おじぎをし、シミーを踊って退場する。別の音が入ってくるが、新しい別の音に舞台の奥へと押しやられ、二つの音がおたがいのまわりをくるくる回り、やがて止まる。言葉は上へ上へと螺旋形を描いてのぼってゆくこともあれば、また、耳障りな跳躍をすることもある。そうして、すべてに──ゼリーでできた心臓の鼓動のような──温かく脈打つ笑いの句読点がつけられる。

追い出されることと、家なしにされることとは違う。追い出されたのなら、どこかほかの場所に行けばよいが、家なしにされたのだったら、行き場所はない。

ちょうど、死の概念と実際に死んでいることとは違っているように。死んでいる状態は変わらないのにたいして、家なしになる恐れは、ここに、いつでもあるからだ。

それからフリーダといっしょになって二人は、シャーリー・テンプルがどんなにかわいいか、情のこもったおしゃべりをした。わたしはシャーリーが大嫌いだったので、しきりに誉めそやす二人の仲間には入らなかった。シャーリーがかわいいから嫌いなのではなく、ボウジャングルズといっしょに踊ったから嫌いなのだ。

母はつらいとき、いやなとき、恋人が去って棄てられたときのことなどを、よく歌った。しかし、母の声はひじょうに甘く、うたっているときの眼はまるでとろけそうだったので、わたしは、そうしたつらいときに憧れ、「自分の評判なんかちいっとも気にしないで」大きくなりたいと渇望した。「わたしの男」から棄てられるすてきなときや、「わたしの男がこの町を出ていった」のがわかるから「夕日が沈むのを見るのがいや」になるときのことを、待ちこがれた。
母の声がうたう緑や青で彩られた不幸は歌の言葉からすべての悲しみを取り去ったので、わたしは、苦痛というものは耐え忍べるばかりでなく、甘美なものだと思いこんだ。

つまづいた歩道の割れ目も、たんぽぽの群れも自分のものだ。
そして、こうしたものを所有していれば、彼女は世界の一部になり、世界は彼女の一部になった。

メリディアン。この名の響きは、讃美歌の最初の四つの音符のように、部屋の窓という窓を開け放つ。

わたしたちは、柔らかな灰色をした家々が、疲れきった貴婦人のようによりかかりあっている並木道を歩いていった

どうして夢が死んでしまうのか、本当のことを知りたかったら、夢みる人の言葉をぜったいに真に受けてはいけない。

彼は、牝馬がお産をするところを一度も見たことがないのにちがいない。牡馬が苦痛を感じないなんて、いったい誰が言うのか。泣き叫ばないからだと言うのか。苦痛を言い表すことができなければ、痛みはないと考えるのか。

彼は、悪に名をつければ、たとえ悪を抹殺することはできなくても、それを無効にすることはできるだろうと思った。

彼は貪欲に本を読んだが、好みのところしか理解しなかった。つまり、他人の考えの切れ端や断片を適当に選んで理解したのだが、それは、その瞬間に自分が抱いている偏見を支持するものに限られていた。
このようにして、彼はオフェリアにたいするハムレットの毒舌を選んで暗記したが、マグダラのマリアにたいするキリストの愛は選ばなかった。

その結果、わたしたちは王者らしくなるかわりに俗物的になり、貴族的になるかわりに階級意識の強い人間になりました。わたしたちは、権威とは目下の者にたいして残酷になることで、教育とは学校に行くことだと信じていました。また、あらあらしさを情熱だと思いこみ、怠惰を安逸とまちがえ、向こう見ずを自由だと考えていました。

正午を過ぎたばかりの午後の通りの静けさ、光、告白がなされたときの雰囲気。とにかく、わたしが〝美しさ〟を知ったのは、それが最初だった。
美というものは、たんに目に見えるものではなかった。それは、人が〝美しくする〟ことのできるものだった。
『青い眼がほしい』は、それについて何かを言おうとした努力の結果だった。どうして彼女には自分が持っている美しさがわからなかったのか、あるいは、おそらくその後もけっしてわからないのか、また、どうしてそれほど根本的に自分を変えてもらいたいと祈ったのか、といったことについて何かを言おうとする試みだった。
彼女の欲求の底には、人種的な自己嫌悪がひそんでいた。そして、二十年のちになっても、わたしはまだ、どういうふうにして人はその嫌悪感を学びとるのだろう、と考えていた。誰が彼女に教えたのか。誰が、本物の自分であるより偽物であるほうがいいと彼女に感じさせたのか。誰が彼女を見て、美しさが欠けている、美の尺度の上では取るに足りない重さしかないときめたのか。この小説は、彼女を弾劾したまなざしを突いてみようとしている。

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2022年03月09日

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ネタバレ

著者の作品はこれで2冊目。
これYAにあったけどYAは不相応。
なぜならば性的表現がきついのと
ライトに収めているけれども近親相●がでてきます。

ただし、そこまで重いわけではないです。
なぜならばあからさまに登場する人物を
批判するわけではないから。

主人公の子は黒人の子だったもの、
ピコーラのようにはなりませんでした。
それは不条理なことをする白人に怒り
マウンティングする子たちにくみしないことから
理解できることでしょう。

でも、ピコーラはこれらの人種差別の
犠牲者ともいえるのです。
肌の色が批判対象でなければ…
そしてその目すら…
考えさせられることは多いはずです。

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2020年12月19日

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変わった構成を持つ小説。

1941年、オハイオ。
太平洋戦争に参戦し、アメリカ社会も高揚する頃。
恵まれない家庭環境で育つピコーラが、父に犯された上、心が壊れてしまうという悲劇を描く。

黒人社会の中で、ピコーラのように、より「醜い」とされる者と、そうでない者とに分かれる。
人種への蔑視が内面化されている。
(そして、それは私たちにも身に覚えのある感覚だ。)
追い詰められていく中、「青い眼が欲しい」と願い続けるピコーラの姿は痛ましい。

最初、近所の少女、クローディアを通して、ピコーラたち、ブリードラヴ家のことが語られる。
しかし、視点はやがて母ポーリーン、父チョリーに移り、彼らがどんな関係を取り結び、そして壊してきたかも語られる。
この人たちも、困難な人生を歩んでいることがわかる。

自在な語り、生活の細部まで克明に描きながら、安易な感情移入を許さないようコントロールされた筆致に、当惑しながらも、ぐいぐいひきつけられる。

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2020年12月02日

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アメリカにおける白人から虐げられる黒人の生活及び黒人同士のヒエラルキーによる差別も書かれていて、物語の多くの部分の語り手は、まだ未熟な少女なので余計に人間の生々しさが際立つ。
ピコーラがなぜ青い目を欲しがったのかはよくわからなかった。

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2020年11月07日

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 ノンジャンルと言える長寿本の一つに珍しく手を出してみた。ノーベル賞作家トニ・モリスンのデビュー作であり、1970年に生み出されたものの、広く世界で読まれるようになったのは四半世紀という時間を要したそうである。

 この作品は、あらゆる意味で人間を比べてみることの愚かさと、その中で犠牲になってゆく心の痛みへの深い理解を、地道に、日常の言葉で綴ったものである。主たる視点は少女のものだが、時に他の三人称視点を使って挿入される作中作のような物語が、かしこに散りばめられている。

 世界の歪みを、多角的な視点で捉えつつ、様々な区別や差別が人間に対してなされてゆく行為や、無意識という水底に沈殿してきた最大の罪のあり様を、作者は文章によって水面に浮上させてゆく。見た目の形としての差別。

 人種差別、性差別、知的差別、肉体的差別。そのすべてを象徴するもののように、黒人少女ピコーラは周囲から捉えられており、その生を、語り手のクローディアは世界の歪みとして気づきつつ、なおかつ安全圏にいる自分の立場に揺れる。

 恐ろしい時代。1941年の秋から翌年の夏への一年の季節。マリーゴールドが咲かなかったことから物語は始まる。大戦前の不穏なアメリカ。その時代の小さな村で、小さな女の子の身に何が起こったのか? 誰も耳を貸さなかったこの本は、1993年に作者がノーベル賞を手にした途端、日の目を見ることになる。1994年にトニ・モリスン・コレクションとして再版され、2000年にはこの文庫本のかたちとなった。

 それを2020年に読んでいる自分がいる。TVではトランプとバイデンによる選挙の予想が報じられ、人種差別問題は、現代の南北戦争とまで呼ばれている今、本書は決して古い物語ではなく、連綿と続くアメリカという国、また遠い国の話というだけではなく、日本国内、身のまわりでも、当時同様の偏った精神性に身を委ねようという無思考な姿勢が問われてはいないだろうか。

 今、この時代に、社会問題としてよりも、人間の在り方というような日常の視点からこの問題を抱え込んで頂きたいと、本書は万人に語りかけているように思う。

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2020年11月02日

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ネタバレ

ピコーラの少女時代は痛ましい。やりきれない気持ちになるが、周りの人間も皆やりきれない何かを持ってる。人種に関係なくこういう環境はあると想像できる分、他人事ではない気持ちになる。それでも時代は1962年。63年がキング牧師のワシントン大行進という大変革の真っただ中に書かれた作品。刷り込まれた価値観とひとりの少女。簡単に感想を持ってはいけないような気がするほど考えさせられる。多くの人に読み継がれていってほしい。

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2020年10月12日

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読書会課題本。救いのない話で読後感はあまり良くない。しかし「人種差別」だけでなく広い意味での「差別」に目を向けさせてくれる内容で非常に興味深い一冊だった。これがノーベル賞作家のデビュー作という事実に驚愕する。

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2020年08月13日

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差別の本当のおそろしさというのは、暴力など物理的な迫害を受けることではなく、差別されている人間の心に「自分は差別されてしかるべき劣った人間だ」という意識を刷り込み、やがて当人自身が自分の存在を否定するようになるところにあるのだなと感じた

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2025年11月17日

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本の最後に青山氏も同じようなことを綴っていたが、突然全く関係のないような人物が登場してきたと思わせる部分があって、そこが少々読みにくかった。1回読んだだけでは、物語を完全に理解できなかった。もう1、2回読みたい。

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2024年12月26日

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白人による黒人の差別だけでなく、黒人の間でも差別があること、それも無邪気な子供の頃から。悲劇は何故起こったのかを考えるとズシッと心に響く。この本が立派に出版されるまでに25年もかかったと言う。それでも社会は少しずつ動いている。

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2022年12月26日

Posted by ブクログ

これはなんというか、、ポエムだ。
いやポエムを挟むことでこの貧困の辛さを紛らわせようとしている、というべきか、いやよく分からなくて難しいんよ。
とは言え黒人のー、貧困のー、と言ってるだけでは誰も読んでくれんのだから、そういう意味ではすごいのだ。ともかく白人が人種差別をしているというより、黒人に染み込んでしまった、というか白人に刷り込まれた劣等感が半端ないんだろうというのがよく分かる。日本人の白人に対する意識もそう変わらんかもだし、何しろ白人なのかアーリア人なのか、やつらの支配者としての歴史の凄まじさよ。

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2022年10月24日

Posted by ブクログ

何とか原書で読んでみた。主要でないとおぼしきところは飛ばしたりしたので消化不良かも。世間での高評価ほど感動せず。語り手の少女が貰った人形が白い肌で青い目でそれがかわいいとされてきるのに自分が違うので複雑な気持ちになるとか、子供の頃からマイナスなバイアスを抱えるのが伝わる。親に捨てられて育ったから自分が父親になっても、世間の父親のような対し方がわからないとか。自分の父親の子供を産むことが必ずしも不幸とは決めつけられない。そう決めているのは社会。しかし自分で生き方を選べないのは良くないし幼いうちにその境遇になるのは悲惨だ。その悲惨さを生み出している連鎖は描かれていると思う。

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2020年09月03日

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