あらすじ
選考委員からレベルが高いとの指摘があった第65回群像評論新人賞候補作、その中から優秀作に選ばれ、「群像」誌上に発表されると大反響と共に話題となった傑作批評に大幅加筆した増補改訂完全版。シールズの運動とその後を総括、我々と鷲田清一の平成における転向の軌跡、後続する臨床哲学の担い手たち。日本社会のひずみに鋭く切り込み、コロナ禍に顕在化したケアの問題にまで発展する極めてアクチュアルかつクリティカルな論考である。
目次
序 論駁するということ 射影の方法をめぐって
第一章 二〇一五年の鷲田清一
第二章 〈戦前〉から〈戦後〉へ
第三章 〈ふれる〉ケアと加害の反転
第四章 平成の転向者たち
第五章 〈戦中〉派としてのSEALs
第六章 鷲田清一から臨床哲学へ
第七章 軸と回転 谷川雁vs.鶴見俊輔
第八章 〈地方〉と〈中央〉
第九章 〈旗〉と〈声〉 臨床哲学再論
第十章 SEALsとその錯誤
終論 待兼山の麓から――エッセイストたちの実践
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
最後まで読み通しても、なぜSEALDsと鷲田清一を接続し架橋しようとするのかがよく理解できなかった。谷川雁の現場の思考と臨床哲学を唱えた鷲田の戸惑いを「同じ」と言い切るのはいくらなんでも乱暴にすぎないか。
また、著者は(SEALDsの思想的なバックグラウンドだった)鶴見俊輔の転向論に異を唱えた谷川雁の「独楽」の思考(=非転向の技法としての弁証法)でたどり直した上で、その「独楽」の軸となる場所として、インターナショナリズムでもナショナリズムでもない場としての「地方」が重要だ、とする。だが、これでは単純に1930年代の転向者の反復ではないか。もっといえば、1940年代の大政翼賛会文化部のコンセプトの反復ではないのか?
読むべき部分があるとすれば、第10章のSEALDs批判のところだろう。でも、この議論を立てるなら、新自由主義時代の社会運動・政治哲学について論じた先行論との腰を据えた対話が必要だったのではないか。著者にとっては自分の中の「SEALDs」の表象との対決が大切だったことは理解できたが、せめてそれを世代を超えた読者と共有可能な問いへと熟成させることが必要だったと私は思う。
Posted by ブクログ
30
マルクス
表現は内容の「素材的な担い手」
表現signifié=商品W→内容signifiant =貨幣G→表現=商品
→世界文学の成立可能性(言語を深層で読まれるものと規定するから)
⇔
鷲田
言語は表層で〈ふれる〉ものである。…鷲田は、表現を内容の「担い手」であるにすぎないとは見ず、表現の〈ふれる〉という側面を強調する。彼の文体論は翻訳を拒む。
谷川雁『原点が存在する』p.48
「私はあくまで工作という契機ーー加害者の思想が現代文学の必須の柱であることを主張する。」
鷲田はケアをするために〈ふれる〉。他方、谷川は加害のために〈ふれる〉。
どちらも九州や関西など地方で活動している
鷲田の臨床哲学=ソクラテス
「加害者の思想」から「他者への想像力」(ケア)へ。これが転向の論理である。
P.69
〈声〉=「われわれ」という意識、無人称の共同性
共存 共同的な想像力
鷲田は哲学という言葉を捨てなかった。→加害性を捨てなかった。
P.105 疑い・否定
アンダークラスとの連帯を放棄した
P.146 ジジェク