そのときぼくは中学二年生。説明はとてもむずかしかったが、とにかく動物には世界がどう見えているのかということではなくて、彼らが世界をどう見ているかを述べていることはわかった。
訳者あとがきより
当時、戦時中の工場で本書(神波比良夫氏訳)を手に取った訳者がこうやって新たに(といっても2005年刊)訳す
...続きを読むのはなんだか運命的。ユクスキュルが環世界の発想が「科学的」でないと思われ、フリーの身で苦労しながら研究を続けた、という背景もあとがきから知ることができました。たしかに主体を様々な生物に置き換え、見ている世界を研究するのだから、どこか哲学的にすら思えます。明確な答え合わせというより、検証して想像するしかありませんし。
しかし、さらに多くの経験から判断すると、コクマルガラスはそもそも静止しているバッタの姿を知らず、動く姿にしかセットされていないらしい。多くの昆虫の「死んだふり」はこれで説明できよう。つけまわす敵の知覚世界に昆虫の静止した姿というものがないのであれば、昆虫は「死んだふり」をすることによって、その敵の知覚世界から確実に抜け落ちてしまい、敵が探しても見つかるはずがないのである。
5章 知覚標識としての形と運動より
横を通り過ぎる蝶には蝶道が見えていて、地面を啄む雀には自身にとっての食料が見えていて、案外都会の鳩にしたら我々人間のことは無害な生物として見えている。同じ環境にいながら異なる環世界を見ている。それは時に想像の手助けになり、新たな視座を得たような気分です。話は変わるけれど、こういう本をたまにしか読まないので、じゃあ、ゾンビは? エイリアンは? プレデターは? レプリカントは? 巨神兵は? とフィクションの世界の生物の環世界に思いを馳せてしまいます。