松長有慶のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
最初の方を読んで、明らかに「聴衆に向かって話している」という調子の文章であると思った。思ったとおりで、本書は講演の記録を集めて校正したという本である。一部は本書の以前に刊行物に掲載された経過も在るようだ。
そういう訳で、1984年に本書が初登場する以前の時点で話していることなので、1970年代を指して「十数年前」というような言い方になっているというような、少し引っ掛かる場合も在るかもしれない。が、それは然程気にならなかった。初出から10年程を経た文庫化の時点で「初出当時に見受けられた“密教ブーム”という様子は下火になったが、内容に然程違和感は無い」と著者のあとがきにも在るのだが、そこから更に時日を経た現在の時点で本書に触れても、「内容に然程違和感は無い」と思えた。
著者は高野山大学で研究・教育活動に従事する密教学研究者であり、高野山真言宗の僧侶でもあるという方だ。この著者が幾つもの講演の機会に語った内容は、密教の源流を求める高野山大学のグループによる国外での調査とその調査結果を纏めた研究成果を交えた話題、様々なモノを包摂しながら進むような“東洋思想”という形で古くから現在まで伝わる密教というモノの様相、信仰や信心と人々、弘法大師こと空海の生き様とそれを伝え聞く私達の人生、「学び」の在り方というような具合で多岐に亘る。そしてこれらは「密教」或いはその研究という特殊と見受けられる分野、大学で研究に従事する方の御専門というようなことに留まらず、「普通の人の在り方、人生の指針にも通じるような、普遍的な事柄」であり、そうした事柄が著者御自身の見聞や経験を交えて活き活きと語られていて、なかなかに魅力的であった。
「深信」と「信解」という話題が在って、それが強く記憶に残った。
真言密教では、或いは「大師信仰」という中では、色々と伝説的な挿話が伝えられている。流石に「考えられないようなこと…」という事柄も多い。
そういう事柄に関して、或いはそこまで極端ではないにせよ、宗教が説く事柄に関して、盲目的なまでに「そうなのだ!」と「とにかく信じる」ということが「深信」である。対して、説かれていることの心情を汲むことが叶うようになる、「なるほど、こういうような…」と自身なりに解るということが「信解」である。
この「信解」という感覚が、古くに説かれ、現在に受継がれているようなモノと向き合ってみるような場合に有効かもしれないと思った。更に、これは世の中の様々なモノと向き合う場合に大切なのかもしれない。
真言密教は、例えば“俗”と“非俗”とを対立的なモノと観るのでもなく、様々な要素のモノが包摂されてそこに在るというような立場を取るのだという。弘法大師こと空海の生き様も、“俗”と“非俗”の両者の間で力を尽くして「道」を見出そうとしたモノなのかもしれない。
更に本書の中で何度か用いられた譬えが好かった。
五本の指は各々に長さや太さが違うが、そうであるが故に手は好く働く。世の中には色々と違う性質のモノが多く在るが、それらが交わってより好くなるということではないのか、という話しである。
本書の中で、1980年代位に話していることとして本文に現れるのだが「世の中の価値観が揺れている。替りつつある?」という言及が何箇所も在ったと思う。これは1990年代に本書が文庫化された頃にも、間違いなく在った問題意識だ。そして2021年の今日でも?
真言密教でも、他の何でも構わないが「宗教」とでも言えば、些か申し訳ないが「何やら胡散臭い?」と感じないでもない。が、「古い時代の人達の思索、求道を一定の形に纏めようとしたモノ」という程度に、所謂「哲学」というモノであるとして、「信解」という感覚で触れる分には「存外に有益」なのかもしれない。尤も「哲学」というようなモノは「実益から最も遠い?」と目され、軽視されがちなのかもしれない。が、自身ではそうも思っていない。
本書を読んでみて、本当に高野山大学で研究・教育活動に従事する密教学研究者であり、高野山真言宗の僧侶でもあるという著者の“肉声”に触れたというような感も抱いたが、古代世界最大の文化人たる弘法大師こと空海がもたらして説いた真言密教という体裁になっている哲学の片鱗を見出すことが、ほんの少しだけ出来たかもしれない… -
Posted by ブクログ
インドから中国を経て日本へと伝えられた密教の歴史を、師から弟子への相承関係をたどりつつ解説している本です。
本書ではまず、密教の基本的な考えかたが説明されています。そのさい著者は、密教の二大経典である『大日経』と『金剛頂経』が、実在する釈尊ではなく大日如来によって説かれているということに目を向けるとともに、密教において相承が重視される理由を明らかにしています。
その後、大日経系(胎蔵部)および金剛頂経系(金剛部)の二部の相承関係をたどり、その担い手たちの人物像を解説しています。そのうえで、二部を統一した恵果と、その教えを受け継いだ空海をとりあげ、さらに天台密教における相承関係についても触れられています。
一般の読者にも読むことのできるわかりやすいことばで書かれた本ですが、著者が「文庫版のあとがき」で「呱々の声をあげて以来、もう十数年たつが、不思議なことに類書はまったくといってよいほど見かけない」と述べているように、密教の入門的解説書のなかでもユニークな構成となっていて、密教に関心をもつ読者に裨益するところが大きいのではないかと思います。 -
Posted by ブクログ
「理趣経」松長有慶
絶対的な愛とは自分をなくすこと。仏教では慈悲という。
法身とは真理そのものを具体的な仏様で表したもの。大日如来。
歴史的人物としてこの世に身体をとったのが応身。釈尊
四種法身
1.自性法身、、、真理そのもの。大日如来
2.受用法身、、、完全無欠の大日如来の性格を4つに分けたもの
3.変化法身、、、歴史的に現れた釈尊のような者
4.等流法身、、、世界の全ての生き物
理とは客体的な存在。物質
智とは主体的な存在。精神
欧州近代社会では「我」の確立を大事にし、仏教では「我」の確立と同時に、それが全体の部分である事、大宇宙の中に自分が入り、自分の中に大宇宙を入れる事、この二つが一つである事を自覚する事が「悟り」であると考える。
理趣経は倫理、道徳よりも上位段階の教え。自分を全体の中に融合させ、全く自分をなくしてしまって全体の中で自分を生かす境地。欲は理性で抑えるものではなく、より高次に純化させるもの。
自我を確立し、他人に干渉されないのが自由ではなく、全体の中に自分を取り込み、他人と自分が一つになる事が自由であり自在である。
三毒煩悩
貪(とん)むさぼる
瞋(じん)怒る
痴(ち)愚かさ
三毒煩悩は無くそうとしてもなくならない。もっと高次の大きな欲に高める事。例えば自分の為でなく、社会の為に怒る事。
怒りや欲、愚かさは本性を尋ねていけば自他の対立を離れた平等なもの。そこに行き着いて本当の世の中の姿が見えてくる。
表面的に見て汚いと思っても、それは我に囚われている見方であり、一切のものは本来自他の対立を超えている。
現実世界の一切のものの中に精神的、物質的価値を見出し、全ての人の願いによって宝を与える事が三界の主となること。
永遠性を見つめて自分自身と仏様が同じであると気づく事が悟りの境地。
自分に対する小さな拘りを大きな拘りに育てていくこと。
自分の幸せが他人に移り、他人の幸せを自分が受け取らせてもらう関係になる事が究極。究極に到達すれば、悟りを得る事は二の次になる。自分が全体となり、全体が自分となる。これが平等であり般若の教え。
大欲とは絶対的な欲。欲を持つ事が楽しみになり、自分の励みになるような欲を持つ事。
大楽とは絶対的な楽しみ。自分を捨ててひとの為に尽くす事が大楽。
真理は方便という形で現れてきて初めて私たちの為になる。